ガラスの天使が見護る聖夜
12月24日。
人々が行きかう夜の米花駅。その入り口付近で、ひとりの男――松田はけだるそうに煙草をふかしていた。時折携帯で時計を確認してはポケットにしまうその様子は、いつもより落ち着きがなさそうに見える。時折ぴゅうと吹く冷たい風に蓬髪を揺らしながら、彼は煙草の煙を吐き出した。
只今の時刻は19時15分。約束の時間より15分オーバーしているが、約束の人物は現れない。真面目な彼女は大抵、約束の10分前には確実に到着している。にもかかわらず今日は一段と遅いようだ。もしや何かあったのだろうかと、もう一度携帯を取り出そうとしたその時、バタバタと足音がこちらに近づいて来た。
「松兄、ごめん!」
ぱっと声のしたほうを見て、思わず松田は目を丸くする。
軽く肩で息をするように立っていたのは言わずもがな、今日ここで約束をしていた最上だ。だがその姿はいつもと180度違う。
仕事上パンツスーツを履きこなし、私服もシンプルで動きやすいものが多い彼女。だが、今日は少し大きめのサイズの白ニットのトップスの上から薄ベージュのコートを羽織り、赤いひざ丈のスカートと黒タイツ、黒のブーティというなんとも女性らしい服装をしていた。その上、常にポニーテールにしていた髪も解かれ、ふわりとゆるく巻かれている。その上、耳元にはゴールドのピアスが控えめに揺れていた。
「思った以上に、準備に時間かかっちゃって……」
本当にごめん、と申し訳なさそうに謝る最上。だが松田は正直それどころではない。普段とのギャップも相まって、彼女から視線を逸らすことができなくなっていたのだ。
「……松兄?」
固まってしまった松田を心配するように、そっと首を傾げる最上。それを見て松田はようやく我に返ったようだ。
「……何でもねえよ。それより、どうしたんだその服」
「これ? この間の休みに買い物に行って、佐藤さんと宮本さんに選んでもらったの」
中の服を見せるように、少しコートを広げてみせる。それを見た松田はなるほどな、と納得がいったような独り言を零した。
「もしかして……似合って無い?」
「馬鹿。なわけあるかよ。……似合ってる、すごく」
松田が微笑んでそう言えば、目を丸くして少し恥ずかしそうに最上は顔を伏せた。
「あとで佐藤たちに礼を言っとかなきゃな……」
「? どうかした?」
「いや、お前は気にしなくていい。それより早く行こうぜ。店予約してんだ」
松田の言葉に、最上は笑顔で頷いた。
「店はどの辺りなの?」
「ここからそう遠くねえから少し歩くけど……いいか?」
「うん。大丈夫」
そう言ったところで最上が控えめで小さなくしゃみをひとつ。
「大丈夫か?……つか手冷たっ」
心配そうに最上の手に触れた松田は驚いて手を離してしまった。
「私冷え性だから、冬はいっつも手冷たいんだよね」
少し困ったように最上は言う。手をこすり合わせてもなかなか温まらないのだとか。
「松兄は手が温かくて羨ましいな」
唇をほんの少し尖らせて最上はつぶやく。
すると松田は「じゃあ」と言って最上の右手を左手でそっと掴むと、そのまま自身の着ていたコートのポケットに突っ込んでしまった。
突然の出来事に最上は思わず松田を見る。松田はそんな最上を見てにやりと笑った。
「分けてやるよ」
その言葉を聞いた途端、最上の顔はぶわわと真っ赤に染まってしまった。
そのまま松田はポケットに最上の手を入れたまま歩き出したため、必然的に最上は松田と並んで歩き始める。歩きながらぽつぽつと会話をするものの、右手に神経が集中してしまっている最上はどこか上の空だった。松田の顔などまともに見れるわけがない。そのため、彼の耳が同じように赤く染まっているのに、彼女は気づくことは無かった。
氷のように冷え切っていた指先は、彼の体温に触れることでいつの間にか芯まで温かくなっていたのである。
***
松田が案内したのは、駅からそこまで遠く無い位置にあるレストランだった。高級すぎるわけでもなく、かといって安っぽすぎるわけでもない、そんな印象を受けるお洒落なレストランだ。
店内はクリスマイブということもあってかカップルが多いようであった。にこやかに出迎えた女性店員に予約していたことを伝えると、すぐに案内される。店員についていった先にあった席はレストランの2階。テーブル数が1階よりも少なく、少し静かで落ち着いた雰囲気を醸し出している。物珍しさにきょろきょろしていると、松田がくすりと笑う。
「そんなに珍しいか?」
「だって……こんなところ来たの、多分初めてだし」
若干拗ねるようなその言葉を聞いて、松田はわずかに目を丸くする。そしてフッと口角を上げた。その表情はどこか満足げでくすぐったそうにも見える。
「そっか」
それから程なくして、クリスマス特別だというコース料理が運ばれてきた。盛り付けにとてもこだわっているようで、思わず写真に撮りたくなるような料理ばかりである。実際に数枚撮影した。
もちろん見た目だけでなく味もとてもいい。最上は一皿ごとに美味しいを連発し、それを見て松田は満足そうに微笑んでいた。
「お前、ほんと美味そうに食べるよな」
「松兄は美味しくないの?」
「美味いよ。でも、お前を見てるだけで十分っていうか」
そう言ってサービスのワインに口を付ける。その視線はどこまでも優しいものであった。
「俺、かざねの食ってるとこ見るの好きだからさ」
その言葉を聞いて、最上は急に羞恥に駆られる心地がして、視線を逸らしながらワイングラスに口を付けた。
食事も進み、デザートのケーキもすべて食べ終えたところで松田がぽつりと提案する。
「なあ、もう少し時間大丈夫か?」
「明日休みだし大丈夫だけど」
ワインの残りにとどめを刺しながら最上は言った。明日は休み、という最上の言葉に松田はそうか、と小さくつぶやく。
「一緒に行きたい場所があるんだ」
***
「わあ……!」
目の前に広がる光景に、最上は思わず息を飲んだ。
レストランで会計を済ませ、松田が最上を連れてきたのは辺り一面をイルミネーションで鮮やかに彩られた公園。クリスマスシーズンにイルミネーションに力を入れていると有名な公園である。
「そういや、こういうところって来たこと無えなと思ってよ」
にしてもすげーな、と松田はひとりごちた。イルミネーションに少し浮かれ気味の最上は、早速先に進もうと松田の手を引く。松田は優しく笑って、彼女の後に続いた。
公園内はやはりイルミネーションを見に来たカップルが多いが、適度に離れているためあまり気にならない。ふたりなりのペースでゆったりと園内を進んでいった。
「そうだ、写真」
ふと思いついたかのように最上は言うと、鞄から携帯を取り出した。早速数枚撮影し、すぐに確認する。中々綺麗に撮れたと満足げに微笑んだ。
――カシャッ
「え?」
後ろから小さなシャッター音が聞こえ、最上は思わず振り返る。
そこに立っていたのは、無言で携帯電話を構える松田だった。瞬時にすべてを察した最上は慌てて松田に詰め寄る。
「ちょ……松兄、写真撮るなら撮るって言ってよ」
「写真撮ったぞ」
「それ事後報告じゃん」
消してよとせがむが松田は聞く耳を持たない。素早く携帯を操作したかと思うとぱちんと閉じてポケットにしまった。
「写真はもう十分撮っただろ? お前も早く携帯しまえ。……ほら」
静かに差し出される左手。
うやむやにされたな……と思いつつ、最上は携帯を鞄にしまって松田の手を取った。
***
しばらくふたりで歩いていると、開けた広場のような場所に出た。その中央には、10メートル近くはありそうな巨大なホワイトクリスマスツリーがきらきらと輝いている。おそらく、この公園の1番メインの場所なのだろう。先ほどよりも人数が多い。ふたりで近くまで寄れば、ますますその大きさに圧倒されるような心地がした。
「流石にデカいなこれ」
「こんなおっきなツリー、初めて見たかも」
首が痛くなるほどの高さのツリーを見上げながら、思わず最上はつぶやく。
しばらくツリーを見つめていると、不意に松田が言った。
「もう、ひと月以上経つんだよな」
何が、なんて言わなくてもわかっている。
松田が差しているのはあの観覧車での一件のことだ。ふたりの関係が明らかに変貌した、あの日。それからもうひと月以上経過していた。時間が過ぎるのは恐ろしく早い。
「そうだね」
最上はツリーを見たまま静かに返す。吐き出した息はいつの間にか若干白んでいた。
「あのさ」
意を決したように松田は言う。
「あの時の返事のことなんだけど」
びくりと、最上は一瞬身を固くする。
あの時の返事、というのは、観覧車の一件の後の警視庁での話のことだろう。
『俺と一緒に生きてくれないか』という松田の言葉に、最上はどうしたらいいのかわからず黙りこくってしまい、それを見た松田に優しく言われてしまったのだ。『返事はすぐにしなくていい』と。
それ以来、あの時の返事は保留のままである。
遂に来たかと、最上は静かに空いた右手を握りしめた。自身の気持ちを松田に伝えるのなら、今が最大のチャンスだろう。そう思って口を開こうとした次の瞬間、
「……あれ、やっぱりいいから」
――松田は素っ気なく言った。
「え?」
最上は思わず自身の耳を疑った。
咄嗟に松田を見上げるが、彼はツリーを見つめたままこちらを見ようとはしない。
「気付いてたか。俺の気持ちを伝えてから、ずっと落ち着かなさそうにしてたぜ。俺と話すときだけ」
一方的に松田は口を動かし続ける。最上は彼から一切目を離せずにいた。彼の一挙一動が、まるでスローモーションのように目に焼き付いて離れない。
「そりゃそうだよな。今まで気にしてなかった奴から急にそんなこと言われたら、戸惑うに決まってる」
後頭部を掻きながら自嘲気味に笑う松田。細められたその眼は、どこか諦めの色が感じられた。
「本当はそんな気が無いけど、はっきり拒絶できずにいたんだろ? お前、結構お人好しだからな」
一行に彼は最上を見ようとしない。ツリーの白く温かい光が場違いに、ふたりを優しく照らす。
「それで俺、決めたんだ。今までの関係に戻ろうって」
多分、その方がお前のためにもなる。彼はそっと言った。
最上はその言葉を聞き、静かに息を飲む。さっと血の気が引いた気さえした。
「だから、こうやってふたりで出かけるのもこれが最後だ」
少し悪戯っぽい笑みを浮かべ、白い歯を小さく見せるようにニヤリと笑う。
「お前にもし彼氏ができた時、刺されかねねえしな」
「松に」
「ありがとな、最上」
ぴくりと、思わず肩が跳ねる。
あの日からずっと名前を呼んでいたのに、今彼の口から飛び出たのは、苗字だ。その事実に、最上は声を出すことができなくなる。
「俺に付き合ってくれて」
繋いでいた手が、そっとほどかれる。
「……もう夜も遅いし、帰ろうぜ。送ってやるから」
最上に背を向け、歩き出す松田。
その背中は寂しさに満ちていて、最上は思わず声を掛ける。
「待って」
でもその小さな声は松田には聞こえていないようだ。最上はぐっと唇を噛みしめる。
どうして。折角あんなに悩んだのに、返事も聞かずに行っちゃうなんて。
――そんなの、あんまりすぎる。
「松兄、待ってって、ば!」
先ほどまで繋いでいた左手で彼の腕を掴む。そんなことをされるとは思ってもいなかったらしい彼は足を止め、咄嗟に振り返った。驚きのあまり目を丸くして、最上のことを見つめている。
「なんで、勝手にそんなこと言うの。……私の気持ちも聞かないで」
しっかりと正面から、松田の目を逸らさずに見つめる。顔から火が出ているのではないかというほど熱を持っているが、そんなことは気にしていられない。
ここで言わなければきっと一生後悔する、そんな気がしていた。
「私があの返事を保留のままにしているのはね、こんな曖昧な気持ちで答えたら、松兄に失礼だって思ったからなんだよ」
松田は黙って最上の言葉に耳を傾けている。その瞳は必死に言葉を紡ぐ彼女の姿をしっかりと捕えていた。
「だから、自分の気持ちに整理がついたら、ちゃんと言おうと思ってたのに」
最上の脳内に先ほどの松田の背中がフラッシュバックし、思わずぐっと眉間にしわを寄せる。
「それなのに、急すぎるよ」
声が震える。視界がわずかに滲む。頭が重く感じ、そのままぐったりと俯いてしまった。
「……松兄のばか」
ぼそりと零れた言葉は独り言じみていたが、松田はしっかりと聞いていた。ここまで彼女が感情的になったのを見たのは、初めてかもしれない。そんなことを思いながら、どこか申し訳なさそうな表情を浮かべて松田は彼女に声をかける。
「最上、俺は」
「嫌なの」
瞬時に拒絶され、松田はぐっと言葉を飲み込んだ。
「松兄が……私の名前を呼んでくれないのが、嫌なの」
だが彼女の言葉の続きを聞いて、思わずはっと目を見開いて固まった。目の前の彼女は、松田の方に一切視線を寄こさないまま一方的に言葉を投げつけている。
「他の誰かに呼ばれたって意味がない、私は」
一度言葉を切り、息を整える。そしてそっと顔を上げた。その頬は紅潮し、眉は下がり気味で、瞳はわずかに潤んでいる。
「……私は、松兄に名前を呼ばれたい」
彼女の心からの言葉は、まっすぐに松田に届いていた。
名前を呼ばれたい、他でもないあなたに。……それはきっと、彼女なりの表現だ。
昔の人が『月が綺麗だ』と訳したのと同じように、最上は松田に自分なりの言葉で伝えようとしたのである。
自分の内心を吐露したことで羞恥心がむくむくと膨らんできたのか、彼女は再び俯いてしまった。だから、その、と曖昧に言葉尻を濁す。
「……ふ」
それを見ていた松田は不意に噴き出した。そして大きな声でゲラゲラと笑い始める。まさか笑われるとは思っていなかった最上は、ばっと顔を上げて反論を試みる。
だがその前に視界が奪われてしまった。
――松田に正面から抱きしめられているのだと気付いたのは、それからたっぷり2秒ほど経った後だった。
「……悪い。俺、お前のことなんもわかってやれてなかった。自分のことで一杯で、正直弱気になってたんだ」
松田は腕の中に最上を閉じ込めたまま言う。その声色には諦めなど微塵も感じられない。
「返事、要らないなんて勝手に言ってごめん。一生懸命、考えてくれてたんだよな。俺のために」
「……ない」
「ん?」
腕の中で微かに最上は声を上げる。うまく聞き取れず聞き返してみれば、彼女は顔を上げずに言った。
「"お前"じゃ、ない」
ほんの少しのタイムラグの後に、彼女の言葉の真意を理解する。その少しだけ拗ねたような声が愛おしくて、松田はぽんと彼女の後頭部を撫でてやった。
「……そっか、そうだな。"お前"じゃなかった」
耳元に口を寄せ、とびっきり優しい笑顔と声色で、彼はその名を口にする。
「かざね」
名前を呼ばれた彼女は、何も言わずにぎゅっと松田の背中に腕をまわす。松田もそれに応じるように、彼女を抱きしめる腕の力を強めた。
「これから、何度だって呼んでやるよ。一生かけてな」
―――ガラスの天使が見護る聖夜
松田の言葉の真意を理解した最上は、すっかり顔を上げることができなくなってしまった。