言葉に代わる鼓動の音

※第3章4話と5話の間の話※


「最上さんに避けられてる気がする?」

 佐藤はきょとりとした表情を浮かべる。対する目の前の松田は、普段とは打って変わってどこか重々しい空気を背負っていた。ああ、と肯定する言葉にも何となく覇気がない。視線も伏せがちだ。

 書類作成の資料探しのために訪れた資料室で偶然松田と出くわし、挨拶程度に軽く声をかけたのだが、その様子があまりにもどんよりしていたため思わず「どうしたの?」と問いかけた。その結果、上記の答えが返ってきたのである。資料探しもそっちのけで、佐藤は松田からさらに詳しく話を聞き出し始める。

「何かあったの?」
「……別に、これといったことはねえな」

 一瞬考え込むような表情を浮かべつつも、すぐに普段通りの表情を浮かべた松田はぐしゃぐしゃと頭を掻きながらため息を零した。その様子に少し違和感を覚えつつも、佐藤は黙っている。
 曰く、つい数日前から最上の様子がおかしいらしい。なんでも、仕事では至って普通に接してくれるのだが、庁内や休日に偶然出くわした際にそそくさと距離を置かれてしまうのだとか。その上、食事なんかに誘っても断られてしまうときた。ならば『もしや自分が何かしただろうか』と不安に思うのは不思議なことではないだろう。現に松田も頭を悩ませているようだった。

「もし何かしていたら謝りてえんだけど、そもそもちゃんと顔会わせてくれねえし」
「メールは?」
「一応聞いてみたんだが、『気のせいでしょ』の一点張りだ」

 ほら、と携帯を見せてくる。一連の流れを見れば確かに、そういったやりとりがされていた。松田の文章にも特に問題は見られないが、最上の文面は素っ気ないものである。メールの文章を一通り確認している佐藤の頭上から、はあ、と松田は再びため息が聞こえてきた。その様子を見て佐藤は静かに眉を寄せる。付き合い始めて上手くいっていると思っていたが、まさかこんなことになっているとは……。

「だから、もしかしたら佐藤なら何かあったのか知ってるかと思って聞いてみたんだが……」
「悪いけど、私も何も聞いてないわ」
「そうか……」

 申し訳なさそうな佐藤の返答を聞いて、わかりやすく松田の声のトーンが落ちた。サングラスの向こうの目が残念そうに気落ちするのが手に取るようにわかる。その様子を見ていた佐藤は、居てもたってもいられずに決意を固めた。

「……わかった。私も協力するわ」
「協力?」
「ええ。要は、最上さんと一度ちゃんと顔を合わせて話せればいいんでしょう?」

 任せて!と微笑む佐藤とは対照的に、上手く状況が把握できない松田はぽかんと間抜けな表情を浮かべていた。


***


「ここ、であってる、よね……?」

 ぎい、と蝶番がわずかに音を立てて扉が開く。ほとんど使われていない会議室に足を踏み入れた最上は、部屋の電気を付けつつ改めて先ほど佐藤から届いたメールを確認した。

『ちょっと相談したいことがあるから、19時に刑事部の一番奥にある会議室に来てくれない?』
『すぐに済むから!』

 ……合ってるはずだ、多分。ひとりそう判断して携帯を閉じた。ぱちん、と小気味いい音が控えめに響く。
 もう少しで来るだろうかと思いつつ、近くにあったパイプ椅子の埃を払って腰を下ろした。またもやギシギシときしむ音がする。腰を落ち着けた空間はしんとしていて時計の音すら聞こえない。静寂が痛いくらいだ。

 それにしても、佐藤がしたい相談とは一体なんなのだろうと最上は思いを馳せる。自分よりも先輩である佐藤から相談を持ち掛けられたのは、言わずもがな初めてのことである。自分にきちんとした回答ができるだろうか。
 そんなことを考えていると、ガチャリと扉が開く音がした。やはりこの場所で合っていたかと安堵しつつ視線をそちらに向けたところで、びしりと身体を硬直させる。

 そこに立っていたのは約束していた佐藤では無かったからだ。

「よう。随分と久しぶりだな」
「!」

 飄々とした様子で松田がにやりと笑う。まさかこんなところで会うとは思っていなかった最上は、思わずパイプ椅子から立ち上がり逃げ出そうとする。だがそれは松田に阻止されてしまった。

「おっと、逃げんなよ」

 初めからこちらの行動を読んでいたかのように、松田は最上に近づいてその左手を掴む。
 振り払えないとわかると、松田に促されるまま最上は再び椅子に座ることになった。

 松田の顔をまともに見れない最上は、そちらになるべく顔を向けないようにしつつ時間が過ぎるのを待っている。ほんの少しの沈黙の後、松田は口を開いた。なあ、かざねと名前を呼ぶ。

「なんで俺のこと避けんの?」
「さ、避けてなんか……」
「嘘つけ。ついさっき逃げようとしたのが何よりの証拠だろ」

 ずばっと言い当てられ、最上はぐっと押し黙る。反論のしようもない。
 しばらく押し黙っていると、沈黙に耐えられなくなったのか、松田が口を開いた。

「もし何かやらかしてたんだったら、謝る。だから……ちゃんと話してくれ」

 おそるおそる、言葉を選ぶのが手に取るようにわかるほど、彼はゆっくりと述懐していく。

「何も言わずに距離置かれんの、結構辛いんだぜ?」

 だから、頼む。顔を見なくてもどんな表情をしているのか想像がつきそうなほど、その声は弱気だった。松田にしては珍しい。

 どうしたものか、と最上は考え込んだ。自分が彼を避けている理由は、言ってしまえば単純でくだらないもの。だが"今の"最上にとってみればかなり恥ずかしいものだ。それを正直に彼に伝えていいものかと悩んでいるのである。伝えて引かれてしまうのが一番怖い。だがこの状況のままずっといるのも……と思った矢先、ある事に気付いてしまった。

 最上の手を掴んでいる手が、わずかに震えている。
 彼も恐れているのだ。これから最上の口から飛んでくるであろう言葉を。

 怖いのはどっちも同じだ。
 ……そう思ったら、少しだけ勇気が出た。

「……た、の」
「ん?」

 勇気を振り絞って、最上は開口する。だがあまりにもか細すぎるその声は、松田の耳に正確に届かなかったようだ。少し手の力を緩めながら、あくまで優しくこちらが落ち着くのを待ってくれる。最上は少しだけ声のボリュームを上げるように努めつつ、再度彼に告げた。

「ゆめ、見たの」
「夢?」

 想定外のワードが飛び出したのか、松田は不思議そうに目を丸くする。最上はもう一度勇気を振り絞り、顔を真っ赤にしながら言い切った。

「その……、っ陣平くんと、一緒に…………する、夢」

 最後の方はほとんど蚊の鳴くような声だったが、最上の表情から十分伝わっただろう。先ほどからずっと黙ったままだ。それも相まってか、顔の温度がどんどん上がっていく。最上は松田の方を見ることなく、言い訳じみた言葉をたどたどしく並べていった。

「待ってもらってる立場なのに、こんな夢、見て……すごく、申し訳なくて」

 だから落ち着くためにしばらく距離を置こうと思っていた、と全て言い終わる前に最上は言葉を途切れさせることとなった。

 ――松田に、思い切り抱きつかれたからだ。

 いきなり抱きしめられ、文字通り顔から火が出そうなほど体温が急上昇した最上は、混乱する頭のまま松田の腕の中でわぷわぷと溺れながら抗議する。

「ま、って、陣平く……!」
「悪ィ、無理」

 だがその抗議はすぐさま遮られてしまった。ぐっと、松田は腕の力を強める。

「かざねの嫌がることは、しないからさ」

 だから。

「今だけ、こうさせて……」

 今にも消えそうなか細い声でそんなことを言うものだから、最上は何も言えずにしばらく抱きしめられていた。



 ―――言葉に代わる鼓動の音



「(待たせてる分際だけど、ドキドキするのは、止められないから、なぁ)」
「(大丈夫だ、待てる、かざねが大丈夫だって言うまで、ちゃんと待つ、大丈夫、大丈夫……)」