抱き枕とお兄さん
 どうしてこんなことになったんだろう。

 カーテンの隙間から差し込む朝日。
 肌に触れる真っ白い清潔なシーツ。
 室内を適温に保つ機械の音。

 そして、後ろから私を抱きしめるようにして眠る、銀髪の男。

 すうすうと規則正しい寝息を立てて、男はぐっすり眠っていた。その吐息はずっとわたしの頭から首のうしろ辺りにかけてくすぐっていて、その度に変な声が出そうになってしまう。吐息には少しだけ苦いにおいも混じっていて、おそらく男が吸っている煙草かなにかのせいだろう。
 そのうえ男の腕はしっかりとわたしの腹あたりにまわされていて、起こさずに腕の中から抜け出るのは難しい。

「ん……」

 そうこうしている間に男は息に近いくらい小さな声を漏らし、わたしを抱きしめる力を強めた。ぐええ、と変な声が出そうになるけどなんとか堪える。
 頑張って首をひねって、後ろの男の様子を確認するけれど、相変わらず起きる気配をちっとも見せない。ぐっすり眠ってしまっているようだ。にもかかわらず、腕の力は弱まることがない。ほんとは起きてるんじゃないかと疑いたくなるほど。

 わたしは抜け出るのを諦め、身体から力を抜いて、されるがまま大人しく身をまかせることにした。

 ……どうしてこんなことになったんだろう。
 今の状況をもう一度整理するため、わたしは男の腕の中で、昨日までの出来事を思い返すことにした。


***


 そもそも、なんでわたしがこんなところにいるのかというところから。

 わたしは昨日までとある場所にいた。日の光が差さないほど地下深くにある、大人が子供を買う店だ。そこでは年や性別、生まれた国に関係なく、大勢の子供が毎日取引されていた。

 わたしもその中の商品のひとり。だけどわたしは、あまりにも怯えて人に懐かないせいか、長いこと売れ残っていた。気づけばここにいるのも一番長い。「見た目は上玉なんだがね」と店主の男がわたしを見てぼやくのがいつしか日課になっていた。

 わたしたち商品は毎日を暗い檻の中で過ごした。来る日も来る日もやってくるお客たちの、値踏みするような視線はわたしたちの心を容赦なくむしばんでいく。檻の向こうでぎょろりと動く目玉たちが恐ろしくて、わたしはいつだって檻の隅に縮こまるようにして震えていた。

 檻の向こうの人間はみんな嫌いだった。彼らは皆、わたしのことを商品としか思っていないから。……わたしのことを人間として扱ってくれるひとなんて、きっともうこの世界にはいないんだ。

「お父さん、お母さん」

 もう顔も忘れてしまった両親を想うことだけが、ただひとつ私の心が休まる時間だった。

 ある日。いつものように檻の隅で小さくなっていると、店主の男がわたしのことを呼んだ。おそるおそる顔を上げると、店主の隣に見たことがない男が立っていた。

 まるで物語に出てくる死神のように全身を黒い服で覆い隠し、頭にも黒い帽子をかぶっている。背中までありそうな長い髪は銀色で、この辺りでは見たことがない髪色だ。そのうえ男の目は、今まで見た中でもダントツで鋭く、何人も人を殺してきたような恐ろしい気配をまとっている。

 ちらりと、男がこちらを見た。目を合わせた瞬間、思わずぶるりと身体が震えて、頭の中でこれは危険だと何かが騒ぎ始める。わたしは店主の叱る声も一切耳に入れず、一目散に檻の隅のそのまた隅に縮こまった。

「すみません、ああいう子なんです。人見知りが激しくて……」

 店主が男のご機嫌をとる声が聞こえる。男は低い声で、聞き取れないほどぼそぼそと返事をした。

 ……まさかあのひと、わたしを買おうとしているの?

 恐ろしい考えが浮かんで、思わず全身が強張る。ぼんやり視界が滲んで、指先の震えが止まらない。心臓がばくばくと音を立てて今にも飛び出しそうだ。そんな、やめて。あんな怖そうな男に買われたくない。お願いだから、買うならわたし以外の子に……。

 だがその思いも虚しく、店主の嬉しそうな声が聞こえ、その数秒後にガシャンと檻の鍵が開く音がした。

「メイ、出るんだ」

 早くしろ、客を待たせるなと店主の急かす声がする。わたしは震えを抑えながら、ゆっくりと店主と男の前に姿を現した。店主は檻の扉を開け、こちらへ来いと手招きをする。男は無表情のまま煙草を吸っていた。もう逃げることはできない。わたしはぐっと唇を噛みしめ、檻の外へ足を踏み出した。

 店主がいそいそと出荷の準備を進める中、わたしは過去にこの店で買われていった仲間たちのことを思い出していた。

 「そんなに怯えてるから買ってもらえないのさ」そう言ってわたしのことをせせら笑った隣の檻の少年は、どこかの業者に買われて遠い国で人間を食べるのがシュミの人に食べられてしまったと店主から聞いた。
 「もっと堂々としていればいいのよ」強気に笑った言った向かいの檻の少女は、名前も知らないような場所で口にするのも恐ろしいようなことをされていると聞く。

 買われた子はみんな不幸な道を辿った。わたしも同じだ。きっとあの死神のような顔をした男は、わたしのことを酷い目に合わせる気なんだ。きっと、食べられるよりも、傷つけられるよりも、恐ろしいことを。

 丁寧に身体を洗い終わると、店主に真っ黒なワンピースを着せられた。それから目と口に布を巻かれ、手足を縛られ、出荷用の箱に入れられる。目隠しされる直前に見たのは、わたしを買った男のゾッとするほど無表情な顔だった。

 わたしの入った箱は車……恐らく男の所有する車の後部座席に乗せられた。あまり乗り心地がいいとはいえなかったけれど、わたしは箱の中ですとんと眠りに落ちてしまった。無意識のうちに気を張って疲れたのかもしれない。

 ふと気がつけば、動き続けていた地面が止まっていた。唸るようなエンジンの音も。それからばたんと扉を開け閉めする音がして、バキ、と何かが折れる音が聞こえる。たぶん箱が開けられた音だろうと思っていると、するりと目隠しが外された。

 急に外されたためほんの少しだけ目が慣れるのに時間がかかる。徐々に目が慣れてきて、最初に目に入ったのは目隠しの布を持ったあの男の姿だった。どうやらこの人が外してくれたらしい。相変わらずぞっとするほどの無表情だ。
 目が合ってしまい、思わずまたびくりと身体が勝手に震える。何か言われるかと思ったけど、男は特に気にする様子も見せなかった。

 男はわたしの両脇に手を差し入れるようにして身体を軽々と持ち上げて、箱から出したかと思うと箱のすぐ横に座らせた。車に乗った経験はほとんどなくて、シートに沈み込む感覚がなかなか珍しくて落ち着かない。そうこうしているうちに男は手足を縛るロープを丁寧に解き、猿轡を外すと、再びわたしを持ち上げた。

 持ち上げるといっても、先ほどのように脇に両手を差し入れる持ち方ではない。どちらかというと抱き上げる、に近い。わたしの膝裏と背中に男の手がまわり、ひょいと抱き上げる。
 思わず叫び声が飛び出しそうだったけど、男の無表情な顔が目に入ったため死ぬ気で飲み込んだ。

 わたしを抱き上げたまま、男は器用に車のドアを閉めてロックをかけ、スタスタと歩き始めた。今気づいたが、ここは何かの建物の地下駐車場みたいだった。男が乗っていたような黒い車や、正反対のカラフルな車がいくつか駐車してあった。初めて見る光景に思わずきょろきょろと辺りを見回していると、落ち着けとでも言いたげにじろりと睨まれる。わたしは大人しく視線を自らの胸の上にある手に移した。

 男は建物内に入り、何も言わずに開いた扉のようなものに乗り込んだ。これってもしかして、エレベーターってやつかな。昔店でこういうものがあると聞いたことがある。ひとり目をキラキラさせるわたしに対し、男は慣れたように壁に取り付けてある数字の書いてあるボタンを迷うことなく押した。扉が閉まり、少しだけ耳が痛くなった後、チンと軽い音が鳴った。

 扉が開くとすぐさま男はエレベーターを出た。室内の眩しさに思わずわたしは目を細める。今までずっと薄暗い場所にいたため、明るい場所に目が慣れていないのだ。
 足元には真っ赤な布が敷かれていて、天井にはいかにも高級そうなライトがいくつも吊り下がっている。そのライトが室内を眩しく暖かい光で照らしていた。長い廊下にはいくつものドアと番号が書いてあるプレート。どうやらここは店で聞いたことがあるホテルという場所みたいだ。

 しばらく歩いていると男は足を止めた。ある部屋の前で器用に部屋の鍵を取り出すと、ガチャリと開いて部屋に入る。
 部屋の中は、わたしが今まで居た檻の中とは比べ物にならないくらい綺麗な場所だった。明るすぎず暗すぎない照明、白いシーツが整えられた大きなベッド、汚れひとつない柔らかな色合いの壁や床、所々にキラキラと光る金属の装飾まで施されている。男はこんな天国みたいに快適な場所にいたのか。

 そう思ったのと同時に、男はわたしを下ろしてベッドの上に座らせた。突然の出来事に、思わずまたびくりと身体を震わせてしまう。

 どうすればいいのかわからずにいると、男はおもむろに着ていたコートと帽子を脱ぎ始めた。わたしは見ていいのかわからなくなってぱっと背を向ける。
 男が服を脱ぐ音を聴きながら、これから何をされるのだろうという想像が頭に過ぎった。この男のことだから、きっと想像もできないほど酷くて痛くて怖いことをされるのだろう。思わずぎゅっと手に力が入ってしまった。

「おい」

 急に男に話しかけられて、大袈裟なくらい肩が飛び跳ねた。大慌てで振り返る。振り返った先にいた男の格好を見て、思わずわたしは固まってしまった。

 男は上半身に何も着ておらず、下着姿だったのだ。

 大人の男の人のそんな姿を見るのは初めてで、ますます目のやり場に困ってしまう。一瞬で顔どころか耳まで真っ赤になったのを感じながら、慌てて視線をそらすように俯く。そんなわたしを他所に、男の人は淡々と言い放った。

「寝ろ」

 低くてよく耳に響く声だった。
 寝ろ、というのは、ここに寝転がれ、という意味でいいのかな。とりあえずそう解釈したわたしは、男に背を向けるように横向きで恐る恐るベッドに寝転がった。わたしが体勢を変えたのに合わせてベッドはしなやかに変形する。
 寝転がりつつも、わたしの身体はカチコチに強張ったままだ。心臓はばくばくと早鐘を打っているし、握ったままの手のひらは僅かに汗ばみ、爪が食い込むほど力がこもっている。折角ふかふかのベッドなのに、全然嬉しくない。

 男の顔を見るのが怖い一心で、背を向けるように寝転がってしまったけれど、すぐにそれは間違いだと気づいた。男の姿が見えない。これじゃあ、何かをされる前に心の準備が出来ないじゃないか。心の中であわあわしている間に、ぎし、とベッドの変形を身体で感じる。男が座ったんだろうか。

 さよならわたしの短い人生。叶うことなら、誰かに愛されてみたかった。……なんて。

 いよいよ覚悟を決めて、ぎゅっと目を固くつむった。
 さあこい、何をするつもりかは知らないけど、覚悟はとっくにできている。煮るなり焼くなり好きにしろ!!

「……」

 ぷつりとスイッチを消す音がして、瞼越しにも明かりが消えたのがわかる。続いて、ぎしりとまたベッドが沈む感触。男がわたしの後ろに寝転がったみたいだ。
 すると、男の手がわたしの脇腹に服の上からそっと触れる。いきなりだったのでまたびくりと身体が跳ねた。男がなにか動作をするたびにびくびくしてしまって、怒ったりしないかなと心配になってくる。

 そのまましばらく男の大きな手がわたしの脇腹を撫でさすったかと思うと、ぐいと、自身の方へ引き寄せた。背中に男の肌の感触がして、どきっと音をたてて心臓が跳ねる。一体何をするつもりなんだと思っていると、ベッドとわたしの脇腹に挟まれた空間に無理やり自身の腕をねじ込んだ。そのままぎゅっとわたしを抱きしめる力を強め、ふうと静かに息を吐く。
 そして数分ほど静かになったかと思うと、男の穏やかな寝息が聞こえてきた。

 …………え?

 えっと……その、…………え??
 すやすやと眠る男の腕の中で、わたしは訳がわからず、ぱちぱちとまばたきを繰り返すばかりだった。

 すごく顔が怖い男に買われたと思ったら、ホテルに連れ込まれて、抱きしめられながらベッドの中で男が眠ってる。
 ……今の状況を一言で表すならこうだけど、正直自分で言ってて意味がわからなかった。

 だって、あの店で買われた子供達はみんな酷いことをされるって。売られた子供に幸せな人生なんかありえないって。そう言われてきたのに。
 あんな怖い顔をした男のことだから、きっと酷いことをするんだと思っていたのに。
 なのに実際は、男はわたしを腕の中に閉じ込めたまますやすや寝てる。

 ……罠かもしれない。真っ先に考えたのはそれだった。
 この男は実は眠ったフリをしているんだ。そうしてわたしが眠ったのを見計らって、痛くて怖くて酷いことをしようと、そういう考えなんだ。そうだ、きっとそうに違いない! それ以外ありえない!

 そうと分かれば早い。男の思い通りになるわけにはいかなかった。わたしはぐっと瞼を開き、男が眼を覚ますのを今か今かと待っていた。

 ――そして、今に至る。

 男は結局夜中に一度も目を覚ますことなく、今もずっと眠り続けている。どうやら寝たふりではなかったらしい。寝込みを襲われなくて良かったと思いつつ、大きなあくびをひとつ。わたしの眠気はピークを迎えていた。ぐっすり眠るこの男がちょっと羨ましい。

 とりあえずわたしは、ちょっと怖いがこの男を起こすことにした。この男を起こして話を聞かなければ、わたしがこれからどうすればいいのかも全くわからずじまいだから。カーテンの隙間から差し込む光があるということは今は夜ではなく昼間だということ。昼間は人間が活動する時間。だから起こしても問題は無いはず、そう考えた。

 男の腕の力がわずかに緩んだ隙を見て、腕の中から抜け出してゆっくり上半身を起こす。一度も寝返りを打つことなく夜を明かしてしまったせいで、完全に身体が固まってしまっていた。軽く首を回して伸びをする。そして未だに眠り続ける後ろの男の肩を軽く叩いた。

「あの、朝、です。えっと……」

 そこで気付いた。この男の名前がわからない。今までずっと脳内で「この男」としか呼んでこなかったし、店主にも名前を教えられなかった。うっかりしていた。
 わたしは少しだけ考えた後、もう一度男の肩を叩いて声をかける。

「起きて、おじ」

 さん、と言い切る前に男がぱっと目を開いた。昨日より数倍凶悪な目つきで。
 思わずぴゃっと変な声が出てしまった。あまりの怖さにじわじわと視界が滲む。流石におじさん呼びはまずかったかな。ごめんなさい謝るからそんなに怖い顔しないで、と言いたいが口は全く使い物にならない。あわあわと変な声が出るばっかりだ。

 そんなわたしの心を見透かしたのかもしれない。男はほんの少し目つきを緩めてくれた。多少マシになったけど正直まだ怖い。

「えっと、その、お兄さん。あさ……」

 気を取り直してお兄さんと言い直せば、彼は一度まばたきをして眩しそうに眉間にしわを寄せ、わたしの腕をぐいと強く引いた。

「わっ」

 急な出来事に対応できずにバランスを崩してしまう。
 するとお兄さんは、わたしを再び腕の中に閉じ込めた。今までは後ろからだったけど、今度は正面からしっかりと。

 わたしは燃えているんじゃないかと思うくらい顔が発熱するのを感じた。昨日の夜見たからといって、大人の男の人の裸なんて、すぐに見慣れるようになるものでは決してない。これは当然の反応だ。それなのに、見上げた先にあるお兄さんの顔は特に何ともなさそうな表情をしていた。これが大人の余裕ってやつかもしれない。いや、ただ単に気づいていないだけかもしれないけど。
 お兄さんはわたしを抱きしめる力を強めると、そのままゆっくり瞼を下ろした。

 えっ、このまま寝る気ですかお兄さん。

 わたしの心の呟きは届くことがなかったようで、数分後には再びすうすうと規則正しい寝息が聞こえ始めた。もう一度起こそうかと思ったけれど、お兄さんの目の下に随分濃いクマを見つけてしまい、その考えは行動に移されることなく飲み込まれる。

 お兄さんの静かに眠る姿を見ていたら、こちらまでだんだん眠くなってきた。あくびがひとつ漏れる。……わたしも少しだけ眠ろうかな。そう思って瞼を下ろし、眠りにつくまであまり時間はかからなかった。


***


 どれくらい眠っただろう。
 ふと、ベルが鳴るような音で目が覚めた。

 最初は寝ぼけているのかと思ったが、目を覚ましてもまだ音は鳴り続けている。わたしを抱きしめ続けるお兄さんは相変わらず眠ったままで、音に気付く様子もない。

 どうやら音の発信源は、ベッドの隣に置いてある小さな薄っぺらい板のようなものみたいだ。そうっとお兄さんの腕の中から抜け出して、なんとか手を伸ばしてそれを指先でつまむ。確かこれはスマートフォンというやつで、いわゆる電話のすごい版みたいなやつだったと思う。店主が使っていたのを見たことがある。使い方は確か、このボタンをーー

『あっアニキ! 繋がって安心しやした、起きてたんですね』

 画面に触った途端に喋り出してびっくりした。どうやらこれで会話出来るみたいだ。だけどこの状況をどう説明すれば……。

「えっと……」
『あれ、ガキの声……。もしかして君、アニキが昨日言ってたお嬢ちゃん……?』

 電話の向こうの彼はわたしの声を聞くなり何かを察したみたいだった。これはすごく助かる。それにしてもお嬢ちゃんってなんだろう。お兄さん一体わたしのことをどんなふうにこの人に伝えたのかな……。

「あの、たぶん、そう」
『そうでやしたか。じゃあお嬢ちゃん、君の近くにアニキ……銀髪の男は居やすか?』
「い、いるけど、寝てる……」
『寝てやすか……仕方無え、お嬢ちゃん、アニキを起こして下せえ』
「いいの?」
『お嬢ちゃんしか頼める人が居ねえんでさぁ』

 少し弱ったような声。そこまで言われれば仕方ない。わたしは電話の向こうの人にちょっと待っててと告げると、一旦スマートフォンをベッドに置き、お兄さんの身体を軽く揺さぶった。

「お兄さん、起きて」

 しばらく揺さぶっていると、ゆるりとお兄さんは瞼を持ち上げる。わたしはすかさず、ベッドに置いていたお兄さんのスマートフォンを渡した。眉間にしわを寄せながら素直にそれを受け取り、耳に当てる。
 少しばかりスマートフォンの向こうの彼の声に耳を傾けたかと思うと、お兄さんは不機嫌そうに思い切り舌打ちをして電話を切った。その顔がこれまた凶悪で、わたしはまたびくりと肩を震わせてしまう。

 お兄さんはそんなわたしをちらりと見ると、ベッドから起き上がり、何も言わずにすたすたと別の部屋へ行ってしまった。しばらくして水の流れる音が聞こえてきたので、シャワーを浴びているらしい。またしばらくして水音は止み、がらりとお兄さんが戻ってきた。しっとりと濡れた長い銀髪を、ガシガシと乱暴にタオルで拭いている。ちなみに服はまた下着のみだ。目のやり場に困る。

 それから着々とお兄さんは仕度を進め、目覚めて30分もしないうちに初めて出会った時の服装とほとんど変わらないものになっていた。すると、ずっとお兄さんの仕度を見るしかやることがなかったわたしに気がついたらしい。お兄さんはちらりとわたしの方を見ると、こちらに歩み寄ってなにかを握らせてきた。

 それは紛れも無く、この部屋の鍵だった。
 鍵とお兄さんの顔を視線で何往復してみても、お兄さんの言いたいことがよくわからない。お兄さんを見上げて首を傾げると、お兄さんは低い声で言った。

「何をしていても構わねェが、0時には必ずこの部屋に居ろ。居なかったら殺す」

 最後の一言を聴き終わった途端、わたしは首がもげる勢いでぶんぶんと頷いた。それを見てお兄さんはくるりとわたしに背を向け、そのまま部屋を後にする。扉が閉まる音がばたんと部屋に響いた。

「ええ……」

 ひとりになった室内では、そう呟くのが精一杯だった。
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