眠りにつくのが難しくなったのはいつからだろう。ふと、男は考える。
男は記憶にある限りで一番幼い頃から、既に眠りにつくのが苦手だった。ベッドの中で横になるまではいい。だが、そこからが問題なのだ。何度寝返りを打とうとも、いつまでたっても寝付けずに結局そのまま朝を迎えてしまうことは日常茶飯事。運よく寝つけたとしてもほとんどが起床予定時刻間近で、十分な睡眠をとるにはあまりにも少ない日々が続いていた。
それに加えて、この仕事だ。夜の闇に紛れるよう取引やらなにやら予定を詰め込んだ結果、生活はさらに不規則になり、不眠に拍車をかける形となった。どんな時間に床につこうとも結果は同じ。いつまでたっても眠りに落ちることが出来やしないまま時間だけが過ぎてしまい、結局ほとんど眠らないまま次の仕事にあたることもザラである。
そんな生活を続けているせいか、男の目の下には常にクマが居座っていた。ただでさえ目つきは他人よりもよろしく無いのに、それのせいで悪人面は三割増しである。
不眠の弊害がそれだけならまだ、よかった。身体が動けば仕事は続けられる。だが悲しいことに最近は少しずつ、身体にまでガタが来るようになってきてしまった。
今まで2,3日ろくに眠らなくても任務に支障は出なかったのだが、最近は流石にきつい。日中頭の回転が鈍ったり些細なことで苛立ったりと、段々と仕事にまで影響が出始めている。
日ごろの不摂生や歳のせいもあるだろうが、やはり根本的な問題は慢性的な不眠だろう。このまま放っておくと、仕事上で取り返しのつかないミスをやりかねない。そうなる前になんとかしなければ。
ここまで来て男――ジンはようやく、長年付きまとわれ続けてきた不眠についての対策を講じることにしたのである。
まず手始めに、巷に聞く不眠症対策を片っ端から試すことにした。
寝具を良いものに変えてみたり、食生活を見直してみたり、入浴法にアロマにストレッチまで。ありとあらゆるものを試したがしかし、これといった効果は表れることが無かった。初日は効果があると思ってもすぐに効かなくなってしまう。生活習慣を改善したお陰で多少身体が健康になりはしたが、長年積み重ねてきた不眠が根本的に解消することは無かった。
自己流でダメならばと医者にかかろうかと考えたこともあったが、そんなことが他の組織の人間に知られでもしたら、と考えるだけで足は自然と遠のいてしまう。特にベルモットやバーボンあたりに見つかると厄介だ。何を言われるかわかったものではない。人を馬鹿にしたような笑みを浮かべながら、嫌に動く口がつらつらと言葉を並べていくのをありありと脳裏に思い浮かべたところで、ジンは苦々しい顔で舌打ちをした。……駄目だ。
いっそこれならどうだと組織が開発した睡眠薬に頼ったこともある。だがそいつも早々に効かなくなり、段々と量が増え始めたところで服用を止めた。そうしたらさらに不眠は悪化してしまった。
見事な負のスパイラル。ジンの不眠は順調に悪化の一途を辿っていたのである。
それはもう、思わずため息が出そうなほどに。
***
一日の仕事を終えたジンは今日も眠れない。このままベッドにいても埒が明かないと、苛々とする思いを抱えながら思い切って行きつけの酒場へ出向いた。カウンター席に腰かけて店主にいつもより強めの酒を頼み、出てきたグラスを呷る。アルコールで喉元がカッと熱くなった。
酒に対しては一定の効果が今のところ見られるので時折世話になっていた。酒に頼るのは身体に良くないとわかっていても、効果が見られるのなら止めることは不可能である。酒もまた効かなくなったらという思いのせいで、あまり頻繁にはやらないようにしているが。
グラスを傾けて、いつもよりゆったりとした調子で酒を味わっていると隣の席に誰かが座った。ちらりと視線を向けて、また戻す。隣に座るのは、今一番会いたくない人物だった。
「何の用だベルモット」
「あら、別にあなたに用があって来たわけじゃないのよ。たまたま入ったところにあなたが居ただけで」
くすくすと女は笑う。ジンは黙ってグラスに口を付けた。女は店主に適当な酒を注文する。店主は静かに微笑んで注文の酒を作り始めた。
店内に流れる夜を思わせる静かなジャズと店主の振るシェイカーの音をBGMに、女は不機嫌そうなジンに構わず話しかけてくる。
「聞いたわよジン。あなた最近不眠対策に凝っているらしいわね」
その言葉を聞いた瞬間、思い切りジンの眉間に皺が寄った。不眠のことをこいつに言ったことは一度たりとも無かった。なのに知っているということは、どこからか情報が漏れたということ以外にあり得ない。
「誰から聞いた」
じろりと睨むように視線を送ると、彼女は「怖い顔」と茶化すように言って小さく肩をすくめた。
「別に誰でもないわよ。あなたが不眠症気味なのは昔から何となく気づいていたけどね。それで最近、寝具や食べ物に凝りだしたと噂に聞いたから何となくそう思っただけ」
「……」
「ただの予想だったけれど、その様子だと図星のようね。……しかもまだ完璧な改善には至っていない」
そうでしょう?と、女は頬杖をつきながらこちらに強気な視線を送る。この女に感づかれたら負けだとジンは思っていたのが、どうやら完敗したらしい。ジンは懐から煙草を一本くわえて火をつける。女はそんな様子を見て色々察したのか、楽しそうに微笑んだ。
「あなたのことだから、大体のことはもう試したんでしょう」
「……ああ。だがどれも効かん」
「あなたに似て厄介ね」
どういう意味だそれは、とばかりに眉間にしわを寄せながらジンは睨むが、女にはさして効果はないように見える。女の注文した酒が静かにカウンターに乗せられた。軽く礼を言ってグラスを受け取り、流れるような手つきで口をつける。
「そうねえ……よく聞くのは寝具を変えるとか食生活を見直すとか……ああ、あとは人肌とか」
「人肌?」
「ええ。人肌に触れると安心して眠れるっていう人もいるのよ」
グラスを弄びながら言う女に、ほうと相槌を打つ。人肌か……そういえばそれは試したことが無かった。からかい半分だったのだろうが、あまりにも万事休すな状態だったジンは自然と、素直にその提案を受け入れていた。
だがそいつは試そうと思っても簡単に出来るものではない。人肌というからには、相手が居なければ仕方が無いのだから。女を見繕えば手っ取り早いが、見返りを求められるのが目に見えていて正直面倒だ。男は言うまでも無く論外である。
そこでふと思い立った。なら、ガキはどうだと。
少々アルコールの回った頭でジンは考える。身寄りのないガキを買えば見返りを求められることも少ないだろうし、それなりに手懐ければいうことを聞くかもしれない。それに要らなくなった後の”処分”もうんと楽だ。
考えがまとまったのか、ジンは煙草の火を灰皿に押し付けて消し、グラスの残りを一気に煽って席を立つ。
「礼を言う」
「ふふ、どういたしまして」
女の艶やかな笑いを背に受けて彼は酒場を後にした。
***
次の日。仕事を終えてウォッカと別れた後、すぐに近くの人売り屋に足を運んだ。
人目を避けるように地下に構えたその店は薄暗くて埃っぽい。彼が組織の人間だとわかると店主の男はわかりやすく猫なで声を出した。
「どんなのをお探しで?」
店主の問いにジンは少しだけ考える。性別は女、年齢や容姿は特に気にしない、身長はこのくらいと簡単に伝えれば、店主はとろけそうなほど目じりを下げて笑った。
「お客様の要望に応えられる、いいのがいますよ」
そう言って店主はジンを先導して店の奥へ進んだ。所々に裸電球が吊るされているだけの店内には大小さまざまな鉄格子の檻が所狭しと並んでいる。
店主がふと足を止めた。その前にある檻の中には、ひとりの少女がうずくまっている。
店主に伝えたのとちょうど同じくらいの身長で、手足が枝の様にか細いのが印象的な少女だ。
メイ、という名前らしい少女はこちらと目を合わせた途端に一目散で檻の隅に隠れてしまう。店主の檄が飛ぶが、そんなことはお構いなしの様子だ。
「すみません、ああいう子なんです。人見知りが激しくて……」
すぐさま俺の機嫌を取るために店主が困ったように取り繕う。そんな店主の声はほとんど耳に入れずにジンはひとり考える。あれくらいの身長ならちょうどいいだろうし、それに怯え過ぎなくらいの方が手懐けやすくていいだろう。自身の口角がフッと上がるのが分かった。
「こいつを貰おう」
「ありがとうございます」
店主の男がにやりと笑った。
出荷の準備があるというのでしばらく待っていると、胸ポケットに入れていた携帯が音も無く震えた。画面を確認すればウォッカである。
「何だ」
『すいやせんアニキ、急に掛けて……今どちらですかぃ』
「○×って人売り屋だ」
『○×? 一体何を』
「野暮用でな。女のガキを一匹買った」
『へ、へえ。そりゃまた急で』
「それより何の用だ」
『ああ、そうでした』
ウォッカの要件は明日の取引の時間が少々早まりそうだという報告だった。脳内の予定表を書き換えながら適当に返事をして通話を切る。
携帯をポケットにしまい、そろそろ準備は済んだだろうかと店主の元へ行く。ちょうど少女が目隠しをして箱に入れられるところだった。別にそこまで頑丈に梱包しなくても構わなかったが、今更である。
少女が入った箱は俺の車の後部座席に載せられた。店主に見送られるまま人売り屋を後にする。箱は暫らくガタガタと揺れていたが、数分もしないうちに大人しくなった。中で少女が眠ってしまったのだろう。
そのまま車を走らせ、滞在先のホテルの駐車場へ向かう。車を駐車してエンジンを切り、後部座席へ移動した。店主に渡されていた箱を開けるための器具を利用して、蓋を閉じている頑丈なホチキスの針のようなものを外していく。が、思った以上に頑丈な造りのようだ。
少々苦戦しながらもなんとか全て外し終わり、蓋を開ける。中には大人しく少女が膝を曲げて収まっていた。一先ず手始めに目隠しを外してやる。ゆっくりと目を開きしばらく眩しそうに目を細めていたが、こちらと目を合わせた途端に怯えるように逸らしてしまった。
次に、どこが縛られているのか把握するために少女を持ち上げて箱から出してやる。縛られているのは手首と足首のみであった。それもさっさと外してやり、最後に猿轡を外す。少女が大きく息を吸ったのがわかった。
さて早速部屋に向かおうかと思ったが、少女が靴を履いていないことに気付く。裸足でもたもた歩かせるのも面倒だろうと考えたジンは、あろうことか少女をひょいと抱き上げた。まともな食事を与えられていなかったせいだろうが、嫌に軽い。展開が飲み込めていない少女を他所に、彼はそんなことを思いながらさっさと車を後にして部屋に向かう。
最上階に取っていた部屋につくと少女をベッドに座らせた。どうしたらいいのかわからないようで、おずおずと視線をこちらによこす少女。
だがジンにそんなことに構っている余裕はなかった。一刻も早く床につきたい。なんだか今ならうまく眠れそうだと、根拠もなく思っていた。帽子とコートを脱いで備え付けのクローゼットにしまっていく。下着以外の服を全て取っ払った――こうすると深部体温が下がって眠りやすくなるらしいと聞いて以来、そうしている――ところで少女に視線を戻した。気まずそうにこちらに背を向けた少女に声を掛けると大げさに肩を震わせてこちらを振り返る。そして面白いくらいに顔を真っ赤に染めると、そのまま顔を伏せてしまった。
「寝ろ」
ジンがそういうと少女はゆっくり身体をベッドの端に移動して、ころりとベッドに寝転がる。背を向けて寝転がるその姿はあまりにも幼く頼りなかった。
彼はベッドに腰かけ、ベッドサイドにある電灯の明かりを消す。暗くなった室内では、カーテンの隙間から洩れる僅かな月明かりだけが唯一の光源であった。
少女の背後に横になれば、ベッドがぎしりと音を立てる。
まず手始めに、少女のわき腹を撫でた。それから少女を抱き枕の要領で抱きかかえてみる。
自身よりほんのり高い体温のそれを抱えていると、肌が触れている腹や胸のあたりがぼんやりと温くなっていった。
徐々に意識が揺らいでくる。身体全体にのしかかるのは、どろりとした倦怠感。横たわってすぐに意識がまどろむのは初めてかもしれない。なるほど、これは寝酒よりも効き目がありそうだとジンは思った。あの女の情報にしては中々である。癪だが、今度改めて礼を言っておこう。
そんなことをごちゃごちゃ考えながら、沈みゆく意識に身を任せて、ジンは数十年ぶりに長く深い眠りに落ちて行った。
***
腕の中が妙に寒い。
そう思ったのと同時に肩をぱたぱたと叩かれるような感覚がして、長く横たわっていた意識がゆるりと首をもたげる。
「……きて、おじ」
僅かな声が聞こえて、ジンはぱちりと目を開いた。カーテンの隙間から洩れる光が存外眩しくて、眉間に皺を寄せながら目を細めていると「ぴゃっ」という小さな声が聞こえる。
よく見ると身体を起こした少女が覗き込むようにこちらを見ている。目に涙を浮かべて、困ったように眉を下げてあわあわと口を開閉していた。なるほど。どうりで腕の中が寒いわけだとジンは納得したらしい。だが正直、まだ眠気はしっかりとそこに居座っている。
「(――もうしばらく、付き合ってもらうぞ)」
ジンは少女の腕を引いて、その胸に抱きとめる。茹ったように真っ赤な顔でこちらを見る少女。
そんな少女を腕の中にしっかりと閉じ込めてしまえば、触れたところからじわじわと体温が移り、眠気を誘う。自然に瞼が落ち、彼は人生初の二度寝を存分に味わったのだった。
***
再び眠りに落ちてから一時間もしないくらいだろうか。身体をゆすられて再び意識が浮上する。なんだと思いながらジンが瞼を持ち上げれば、あの少女がそこにいた。
こちらが目を覚ましたのを確認すると、すかさず何かを俺に押し付ける。それはベッドサイドに置いておいた自身の携帯だった。
渋々受け取り、画面を見ると通話中の表示。しかも相手はウォッカだ。『アニキ?』という声が聞こえたので耳に当てる。何度も応答したのに出ないとか、新しい任務が入っただとか、そんなことを矢継ぎ早に言われジンの中にだんだんと苛立ちが募っていく。折角熟睡できたってのに台無しにされた気分だ。舌打ちをひとつして早々に通話を切る。
とりあえず支度をしようとベッドから起き上がり、シャワーを浴びた。髪を乾かし、服を身にまとう。最後に帽子を被れば身支度は終了だ。さて仕事に行こうかと思ったところでふと、今まで忘れていた少女の存在を思い出す。
予め二つ貰っておいた鍵の片方を少女に渡せば、少女はぱちぱちと瞬きを繰り返した。渡された鍵とジンの顔を交互に見る。恐らく意味がよく理解できなかったのだろう。
「何をしていても構わねェが、0時には必ずこの部屋に居ろ。居なかったら殺す」
そう言った途端に少女は首がもげそうなほど勢いよく首を縦に振った。その必死な様子が面白くて思わず笑みが零れそうだったのをなんとか堪えると、そのまま少女の居る部屋を後にした。
ホテルの駐車場に向かえばウォッカがそこにいたので、合流してさっさと車に乗り込む。新たに舞い込んだ仕事の取引場所に向かう途中でウォッカは口を開いた。
「アニキ、なんだか嬉しそうですねぇ。何かあったんですかぃ?」
「……ああ、良い枕を手に入れたんだ」