あの夜からしばらくたって、心臓のドキドキはなんとか収まった。よかったとちょっと安心したけれど、それから生活のはしっこで時々思い出したように顔を出してくるようになってしまった。
たとえば、お兄さんの腕の中で眠るとき。
たとえば、渡されたご飯を食べるとき。
たとえば、お兄さんが帰ってくる時間が近づいてきたとき。
心臓がどきどき早くなると、胸の真ん中がくすぐったいような、ソワソワ落ち着かなくなってしまって。その度にわたしは大きく呼吸をくり返して落ち着くのを待たなくちゃいけない。どうしよう。こんなこと前にはなかったのに。
「(……もしかして、何か変な病気だったりして)」
その考えがふと頭に浮かんで、慌てて首を振る。そんなわけない、だって身体のどこも痛かったりしていないんだし。でも不安は完全に消えなかった。どうしよう、これは一体誰に相談したら……。
「メイ、どうしたの?」
「っえ、あ」
「もしかして、今日の料理は口に合わなかったかしら」
声をかけられてはっとする。目の前に座っているお姉さんは不思議像な顔をしてこちらを見ていた。
そうだった、今日はお姉さんに誘われてカフェという場所にご飯に来ているんだった。大きな窓からたっぷりと陽の光が入る店の中はとても明るくて、とても居心地がいい。目の前に並んだ料理は見たことが無いものばかりだけど、どれもびっくりするくらいおいしくて……っといけないいけない、考え事をしてる場合じゃなかった。ちゃんとしなくちゃ、せっかく誘ってくれたお姉さんに失礼だ。わたしが慌てて「なんでもないです」と言えば、お姉さんはそのきれいな瞳で真っすぐわたしのことを見つめてくる。
「何かあったの?」
「ぇ、と」
そのキラキラした大きな宝石みたいな目に見つめられて思わず言葉をつまらせてしまう。目線もウロウロと迷子になってしまってどこに向けたらいいのかわからない。
困ったなぁと思っていたところでふとひらめいた。わたしの悩んでいる心臓のどきどきについて、お姉さんは知ってるだろうか。もし知っていたら何か教えてくれるかもしれないし、知らなかったらどうしたらいいか尋ねることができるかもしれない。そうだ、そうしよう。わたしはちらりとお姉さんの方を見ておそるおそる口を開く。
「……笑わない?」
「笑わないわよ」
お姉さんはにっこり微笑んで言いきってくれた。少しだけ肩の力が抜けたわたしはちょっとずつお姉さんに心臓のことについて話し始める。話している間も色々と思い出してまた心臓がどきどきしていたけど、お姉さんがきちんと話を聞いてくれているのがわかったからなんとか落ち着いて話すことができた。
わたしの話がすべて終わって、お姉さんの言葉を待つ。どうだろう、やっぱりわたしは何かの病気なのかな。不安に思いながら膝の上に置いた手をぎゅっと握りしめると、お姉さんが突然ぷっと吹き出す。そして声を出して笑い始めた。まさかお姉さんがそんなことをするなんて思わなくて、わたしは顔が一気に熱くなるのを感じながら言う。
「わ、笑わないっていったのにぃ……!!」
「ごめんなさいね、あなたが可愛らしくて、つい」
お姉さんが目尻に浮かんだ涙を指先でぬぐう。自分でも知らない間に不機嫌そうな顔になっていたのか、「ほらほら拗ねないで」とお姉さんが微笑みながらわたしのほっぺたをつつく。ぷぅ、と空気の抜ける音がした。
「代わりと言っては何だけど……それ、なんだか教えてあげましょうか」
「知ってるの?」
「ええ、もちろん」
お姉さんはにっこり笑う。まさかこんなに早く答えがもらえるとは思わなくて、わたしはちょっと驚いてしまった。少しだけ考えた後にぎゅっと手を握りしめて「しりたい、です」とつぶやくように言った。お姉さんの口の端がすっと持ち上がる。
「それはね、恋よ」
「……こい?」
わたしは思わずお姉さんの言葉をくりかえしてしまった。「そう、恋」とお姉さんは微笑みながら言う。その顔はとても楽しそうだ。
こい……もう一度自分でもくりかえしてみるけど、よくわからない。わたしはお姉さんの方を見て素直に尋ねた。
「こい、って、何?」
「あなたがジンのことを心から愛して、大切に思っているってことよ」
大切。お姉さんの言葉がわたしの胸にすとんと落ちてくる。
確かに、心臓がどきどきし始めたのもお兄さんに頭を撫でられてからだ。それにあの時も、あの時も……心臓がどきどきしていた時はすべて、お兄さんが近くにいたか、お兄さんのことを考えていた時だ。どうして今まで気づかなかったんだろう。
……そっか。
「わたし、お兄さんに、こい、してるんだ」
そっかぁ、とつぶやいてみる。
初めは病気なんじゃないかと疑っていたけれど、正体がわかってしまえば全然そんなことなくて安心した。むしろこの気持ちに名前がついて、なんだかこの心臓のどきどきすら嬉しくなってきた。
「わたしは、お兄さんが、すき」
口に出すだけで胸の辺りがむずむずして、はずかしくて、ぎゅっとする。顔があつい気がする。ほっぺたを触ると本当にぽかぽかとしていた。その様子を頬杖をつきながら見ていたお姉さんに、わたしは思いついたように尋ねる。
「お姉さんも、したことあるの?」
「ええ、あるわよ。たくさんね」
「たくさん!」
それはすごいとわたしが驚いていると、お姉さんは色々な話を教えてくれた。恋には色々な種類があること、どんな時でも恋が始まることがあること……恋は、とても素敵で楽しいこと。わたしの知らないことを次から次へと教えてくれるお姉さんに「お姉さんは恋の先生だね」と言うと、とても嬉しそうに笑ってくれた。
それで?と楽しそうに言いながら、お姉さんはコーヒーカップを持ち上げる。
「ジンにはいつ言うの? あなたが好きだってこと」
「いっ、言わない! いわないよ!」
わたしは慌ててぶんぶん頭を振った。その様子を見たお姉さんが意外そうに目を丸くする。
「言わないの? どうして?」
「だって恥ずかしいし、わたしはまだこどもだし、こんなのお兄さんは迷惑かもしれないし、それに」
テーブルの上に置かれたココアの入ったマグカップを両手で包むように持った。その温かさがじんわりと指に伝わって、甘い匂いがわたしの鼻をくすぐる。
「わたしは、お兄さんを好きでいられるだけで幸せだから」
そう。わたしはこの気持ちを持てただけで、お姉さんが「恋は素敵なもの」だって言いきってくれただけで、もうじゅうぶん幸せなんだよ。
わたしの答えを聞いたお姉さんは、ふっと息を吐くように笑う。
「けなげな子ね」
その顔がとても優しくて、なんだかぽーっと見とれてしまいそうになる。
本当は……この気持ちをお兄さんに伝えて、嫌われるのが怖いって気持ちもちょっぴりあるけど、これはわたしの中にしまっておくことにした。
「だから、お姉さんも絶対言わないでね! 約束だから!」
「わかったわ。じゃあ、女同士のヒミツね」
そう言って笑ったのがあまりにもきれいで、嬉しくて、わたしも「ひみつ!」と真似して言った。