わたしがお兄さんにこいをしていると教えてもらったあの日からしばらく。
久しぶりに先生がわたしの元へやってきた。
「元気そうだね、メイちゃん」
「ひ、ひさしぶり、です。先生」
へへ、とわたしは笑った。ここのところ仕事が忙しくて、来たくても来られなかったらしい。ごめんねと謝られたけど、わたしは先生に会えただけで十分だった。久しぶりに会えた先生が元気そうだったから、それで。
会えていない間に先生からの本や部屋の中でついているテレビなんかで勉強を続けていたことを伝えれば、先生はすごいとほめてくれた。先生はいつだって真っすぐにほめてくれるから、それを聞いたわたしはいつもくすぐったい気持ちになってしまう。
「それならちょうどよかったかな」
そう言いながら先生は持ってきた鞄から1冊の本を取り出した。
「今日はこれを使ってみようと思ってたんだ」
先生が言うにこれは「かんじどりる」、というものらしい。なんでも、えんぴつを使って自分で本に書き込みながら文字を覚えていくための本なんだとか。今までは読むことばかり練習していたけど、文字は読むだけじゃなく書くことも大切だろう。ごくり、とつばを飲み込む。
「僕も精一杯教えるから。がんばろうね」
「う、うん」
まずはえんぴつの正しい持ち方を教わり、それからお手本の文字をなぞって線の引き方を覚える。慣れてきたらお手本の文字を見ながら、白いマス目に文字を書いていく。最初は力の入れ方とか線を引く順番とか、むずかしいことばかりだったけれど、先生に教わるにつれて少しずつわかるようになってきた。次のページへ移るたびに、ちょっとずつ線もきれいになっている気がする。
「うん、よく書けてる。流石だね」
「ほんと? よかったぁ」
「メイちゃん目がいいから、線のバランスを捉えるのが上手いんだよ。きっと練習すればもっと良くなる」
「えへへ……」
先生にほめられるとうれしくて、つい顔がふにゃふにゃになってしまう。それを見られるのはちょっぴりはずかしいけど、勝手になってしまうからしかたがない。そんなわたしを見た先生がふいに質問を投げかける。
「メイちゃん、勉強するの好き?」
「うん。すきだよ」
わたしは素直に答える。先生にこうして文字を教わるのはとても楽しいし、自分の知らないことが少しずつわかるようになるのはすごく面白い。なんだかワクワクして、大げさかもしれないけど世界がちょっぴり広くなるようなきもちになるのだ。そんなことを思っていると先生はちょっと難しいことを考えるような顔をした後に「メイちゃん」と聞いてきた。
「学校に行きたいって、思うことはある?」
「え?」
わたしは思わず目を丸くして固まってしまう。
「がっ、こう……?」
「外にはここと比べ物にならないくらいとても広い世界があるのに、こんな小さな部屋に閉じ込められて、ただ彼の……ジンの帰りを待っている毎日が、嫌になったりしないかい?」
「えと……」
「外の自由な世界に行きたいって、考えたことはある?」
部屋の外の、自由な世界……。そう言われてわたしは静かに想像する。真っ先にわたしの頭に浮かんだのは歩美ちゃんたちだった。確かあの子たちは小学校に通っているって言ってたっけ。わたしもみんなと同じ学校に通って、一緒に遊んで、勉強して、もっと仲良くなれたなら。……うん、きっととても素敵だと思う。
けど、……でもやっぱり。
「もし君が望むのなら、僕は……」
「先生、大丈夫だよ」
「っメイちゃん」
「わたしはね、お兄さんと一緒に居られるだけでいいの。しあわせなの。だから大丈夫」
わたしは思ったことをそのまま口にする。大丈夫だよってきもちが先生にしっかり伝わるように、にっこりと笑ってみせた。
「わたし、お兄さんのことが、すきだから。それでいいの」
「……好き?」
「うん」
目を丸くする先生に向かってわたしはこくりとうなずく。そしてちょっぴり迷った後に、先生の耳元に口を近づけて、あのね、とこっそりとわたしの大切な秘密を打ち明けた。
「わたし、お兄さんに……こい、してるの」
「恋……?」
「うん。この前、お姉さんが教えてくれたの。このきもちは、お兄さんにこいをしてるんだって。こいはとってもすてきなものだって。だから毎日がすごく楽しいの。お兄さんといられるだけで幸せなの。……あ! でも、お兄さんにはナイショだよ、だってこんなのはずかし、い……」
そう言おうとしてわたしはふと気付いた。
……わたしの話を黙ってきいてくれる先生の顔が、だんだん困ったようなものに変わっていくことに。
「せん、せい?」
「あのね、メイちゃん」
ちょっとだけ目をそらして「本当はこんなこと言いたくないんだけど」と言ってから、少しだけ間をあけて先生はもう一度わたしの目を真っ直ぐに見る。
「あいつを……ジンを、好きになっちゃダメだよ」
その言葉をきいた途端、まるでがつんと殴られたようなきもちになった。時が止まって、わたしの心臓だけが動いている。頭の中が真っ白になって、なんて言ったらいいのかわからない。先生はそんなわたしのことを静かに見つめていた。はくり。わたしはなんとか口を動かして、声を出す。
「……なん、で?」
「僕だって出来ることなら君の恋を応援してあげたいよ。ジンは特別君に気を掛けているみたいだから、君が好意を寄せるのもまあ、わからなくはない。だけどあいつは……あいつだけはだめなんだ」
君は絶対に幸せになれない。
まるで予言のように、初めから決まりきったことのように、先生が言う。その言葉たちがうわん、と、頭の中でひびいた。
あいつだけは、だめ。
お兄さんに、こいをしては、……だめ。
「僕はひとりの大人として、その気持ちを応援できない」
「……そ、んな」
わたしの声はふるえていた。だって、お姉さんが恋は素敵だって。色んな恋をしてきたって。だからわたしはこの気持ちを受け入れることができたのに。毎日がとてもとても楽しくなったのに。それなのに、……なのに。
少し冷たくなった自分の指先をにぎり込んで、わたしは先生にきいた。
「……やっぱり、めいわく、ですか」
「そういうんじゃないんだ。そういうわけじゃなくて。でも、……やめたほうがいい」
先生は視線を下げながら言う。先生にしては珍しい、はっきりしない言い方だった。そんな、とわたしの口から出たのと同時に、ぽろりと目から何かがこぼれ落ちる。あれ。
「メイちゃん」
先生はわたしの名前を呼びながらそっと抱きしめる。先生の胸のあたりに自然と顔が押しつけられて、そこではじめて自分が泣いていることに気がついた。ぽろぽろ、ぽろぽろ。涙は次々とわたしの目からこぼれて先生のシャツをぬらしていく。ごめんね、と先生は言いながら抱きしめる力を強くする。
「僕のことはいくらでも嫌いになってくれて構わないから。……そのかわり、僕の言ったことだけは覚えていて」
ごめん、ごめんね、といつまでも謝りながら先生は私の背中を撫でていた。わたしは何も言わずに、ただただ涙をこぼし続けている。
お兄さんにこいをしてはいけない。先生が言うってことは、きっと本当にしてはいけないことなんだろう。わたしにはわからないけど、たぶん大人にしかわからない何かがあるんだ。だからやめなくちゃ、いけないんだ。
くるしいなぁ、かなしいなぁ。
でも、……仕方ない、んだよね。
「(……やめなくちゃ)」
お兄さんが好きなのを、やめなくちゃ。