少し前からなんだか、いやな予感はしていた。
今までとはちがう、なにかが起こりそうな……そんな予感が。
夜。いつものようにお兄さんと一緒にベッドで眠っていると、ふと背中にいるお兄さんが動く気配がした。もぞもぞと布がこすれる音がして、お兄さんがわたしからはなれる。それからぼそぼそと話す声。なんだろう。わたしがそっと目を開けると、だれかと電話をしているみたいだった。しばらくすると電話を終えて、それで初めてわたしに気がつく。少しびっくりしたみたいにお兄さんはちょっとだけ目を大きくした。
「起こしたか」
「……しごと、ですか?」
「あぁ」
それだけ言うとお兄さんは出かけるしたくをし始めた。わたしはその姿を見ながら目をこすりつつ体を起こして、それからぬいぐるみをぎゅうと抱きしめる。今までもこういうことはあったけど、最近はちょっと、多いような気がするのはわたしのかんちがいなのかな。少しさみしいけど、でも、お兄さんが忙しいのはわたしにはどうにもできないし。そんなことを思いながらむぎゅむぎゅと顔をうずめていると、「おい」とお兄さんの呼ぶ声がした。
「は、はいっ!」
声をひっくり返しながらわたしが顔を上げると、思ったよりも近いところにお兄さんの顔があっておどろいてしまった。ぶわわとまた顔があつくなっている感じがする。お兄さんはひざを曲げてわたしと目線を合わせながら静かに言った。
「何があってもここから出るな。わかったか」
その顔はとても真剣で、わたしはお兄さんから目をそらさないまま、こくりと首をたてにふった。それを見たお兄さんは少しだけうなづくと、そっとわたしの頭に右手をのせる。それはあまりにも突然で、思わずえっと声が出そうだった。
「必ず戻る」
そしてお兄さんはさっさと部屋を出て行ってしまった。ばたん。とびらの音が部屋に響く。
それからそこに座ったまま、わたしはさっきお兄さんがさわった自分の頭をそっとさわってみる。
「なで、られた」
そうしてまたさっきのお兄さんを思い出して、勢いよくぬいぐるみに顔をうめた。お兄さんが出て行く前にこんなことをしたのは、これが初めてだった。だからなおさら、胸のまんなかがくすぐったくなる。変な声が出そうになる。口元がにまにましてしまう。
「大丈夫だよ、お兄さん」
わたし、ちゃんと待ってるから。
お兄さんが帰って来るまで、ちゃんと。
そうしてわたしはひとり待ち続けた。先生からもらったドリルをやったり、テレビを見たり、本を読んだり……、いつもと変わらない日を過ごしていた。けれどいつもと違うのは、夜遅くなってもお兄さんが帰ってこないことだけ。
大丈夫。いつも待ってるんだから、こんなことはなんてことはない。大丈夫。今日はたまたま、お仕事が忙しいだけ。言ってたもん、絶対帰って来るって。だから、大丈夫。……大丈夫。
「……お兄さん」
さみしいよ。
はやくかえってきて。
***
どれくらい待っただろう。
ふいにドアの方からガチャガチャと音がして、いつの間にか眠ってしまっていたわたしはぱっと目を覚ました。
「帰ってきた!」
お兄さんが帰ってきたんだ! そうとわかるなり、わたしはぬいぐるみも放り出してドアの方へ走っていく。とびらの向こうにお兄さんがいるのに、待ってなんていられなかった。
早く、早く会いたい。お兄さんに会いたい。そう思っていると扉が開いた。
「お兄さ――」
その時、わたしは思わず固まってしまう。
そこに立っていたのはお兄さんではなく、知らない男の人だったから。
その人はお兄さんと同じくらい背が高くて、黒い短い髪をして、コナンくんと同じようにメガネをかけていた。知らない。こんな人、知らない。その人はその場から動けずにいるわたしを見るなり、左耳をちょっとさわりながら「発見しました」と言う。そしてわたしの方に手を伸ばしながら、部屋へ入ってきた。
「さあ、もう大丈夫だ。こちらへおいで」
優しそうな声を出しながら近付いてくる。そこでわたしの足はようやく動くことが出来るようになった。ずり、ずりと後ろに進む。
「い、いやだ」
進みながら、なんとかわたしの考えを口にする。怖くてたまらなかった。いつの間にか手も足も、小さくふるえていた。
「いかない。わたしは、いかない」
「怯える必要はない。私は君に危害を……痛いことや酷いことをしたりしないから」
君を守りたいんだ。男の人はぎこちない笑顔で言う。手足が冷たい。心臓がバクバクなっている。怖い、怖い。お兄さん助けて。
「あっ」
後ろ向きに進んでいたのがいけなかったんだろう。足元にあったぬいぐるみをふんでしまい、ずるりと身体がかたむく。転んでしまう! そう思ってぎゅっと目をつむった時、わたしの手を強く引く感覚があった。びっくりして目を開くと、男の人がわたしの手を掴んでいる。男の人は心配そうにわたしの顔をのぞきこみながらたずねた。
「怪我は無いかい」
「な、ないで……ッ!」
男の人はわたしの答えを聞く前に、ひょいとわたしの身体を軽々持ち上げてしまった。えっ、と思った頃にはもう遅い。男の人は私を肩にかつぐと、そのまま部屋から出ていこうとする。
「保護しました。……はい、外傷はありません」
そう言いながらスタスタと歩き始める男の人に、わたしはあわてて身をよじらせた。
「やめて! はなして!!」
「こら、暴れるな! 危ないだろう!」
そんなことを言われたくらいで、暴れるのをやめるなんてするわけがない。わたしはあの部屋でお兄さんを待たなくちゃいけない。だから、なんとしてでもこの人からはなれないと。そこでふと、さっきまで見ていた動物番組を思い出した。これしかない。わたしは男の人の腕に思い切りかみついた。
「い゛ッ!?」
びっくりしてゆるんだ腕からすばやく抜け出して、わたしはなんとか着地する。そのまま部屋の奥へと走った。「待て!」と男の人が大きな声で叫ぶ。わたしはそれを聞かずにトイレへと入り、そのまま鍵をかけた。ドンドンとドアが叩かれて、向こうから呼びかける声がする。けれどわたしはそれに答えなかった。しばらくして音がしなくなると、わたしはとびらにもたれるようにしてへたりと座り込んだ。
「びっくりした……」
まさか知らない人がこの部屋に来るなんて思わなかった。お兄さんが帰ってきたと思っていたのに……。それにあの人、わたしをここから連れ出そうとしてた。あのまま連れて行かれていたらどうなっていたんだろう。考えただけで怖い。
とにかく、しばらくここに隠れていれば大丈夫だ。鍵もあるし。それで、あの男の人がいなくなったらここから出よう。そーっと出れば大丈夫、のはず。
わたしはとびらにぺたりと耳をくっつけて外の様子を調べる。布がこすれるみたいな足音と、男の人の声。電話してるのかな。しばらくしたら声がしなくなって、足音が近づいて、また遠くなる。そしてそれから、外へ続くとびらが開いて、閉じる。少し遅れてガチャンと鍵の音がした。そのまま待ってみる。音はしない。
「(いなくなった、かな?)」
いくら待ってみても外の音は聞こえてこなかった。わたしはゆっくりつまみを回してかぎを開けて、そーっと顔を出す。それからそのまま右を見て、左を見た。誰もいない。あの人は本当に帰ったみたいだった。いつの間にか止めていた息をゆっくり吐き出す。
「よかった……」
これで、誰にもじゃまされることなくお兄さんを待つことができる。そう思ったその時。
「!?」
急に後ろからにゅっと手が伸びて、白い布のようなものでわたしの口と鼻をおおった。いきなりのことでびっくりして、じたばたとあばれる。ちらりと後ろを見るとあの男の人がわたしを抑えているってわかった。なんで、帰ったはずじゃ。
なんとか抜け出そうとしたけれど、こどものわたしが男の人にかなうわけもない。
結局わたしはそのまますとんと眠ってしまった。