15' "兄"として、

「……おや」

 俺はふとつぶやき、足を止めた。その視線の先には、自身よりもうんと小さな背中が見える。彼女は片手にメモを、片手に買い物かごを持ちながら店内を物色していた。相変わらず表情は乏しいが、あの頃よりもどこか人間味が増したように感じるのは気のせいだろうか。俺はさりげなく視線で追いかけながら思う。

 ライとして組織の潜入を終えてからしばらく。俺は色と一度も顔を合わせていない。
 戦闘員である彼女は幹部の護衛に駆り出されることも多いと組織内で聞いていた。だからまたあの日のようなことになったら面倒だと、それなりに警戒していたのだが……。

 ――まさかそれよりも先に、近所のスーパーこんなところで会うとは。

 買い物をするフリをして、商品棚の影からそっと色の様子を窺う。メモを見て商品を探し、お目当ての商品を見つけるとかごに入れて、メモに印をつけていく。そしてまた次の商品を探す……。この繰り返しのようだ。
 あたかもはじめて買い物に来た子どものように店内を歩く彼女が、"人形"の呼び名と共に裏社会で恐れられている人物だなんて、この場の誰も思うまい。俺だけが知っているそのギャップに、思わず笑ってしまいそうだ。

 だがなぜこんなところに色がいるのだろう? ひとり疑問に思ったところでふと、ある仮説に辿り着く。単純な話だ。次の調査対象――この間ボウヤに彼女の話を聞いたから恐らく安室くんだろう――がこの近くにいるのである。ジンの命を受けて幹部と生活をし、NOCであるかどうかを調査するという仕事を請け負っている彼女なら、ありえないことはない。

 ……現に、俺も彼女のおかげで組織を去らざるを得なくなったひとりだからな。

 脳裏に色と過ごした日々が蘇る。指示を出さなければ動くことも出来ず、今までどうやって生きてきたのか不思議に思ったこと。"ライ兄"と呼ばれるようになったこと。明美と知り合いだと知って驚いたこと。彼女の主治医であるアークとつながりが持てたこと。
 短いながらもそれなりに充実して過ごせていたのではないかと、今振り返って見るとそう思えるような気さえしてくる。

 彼女は覚えているだろうか。短いながらも寝食を共にしたライのことを。
 ……覚えているはずがないだろうな。何せ、ライは……赤井秀一は、組織内では死んだことになっているのだから。ジンに似て、死んだ人間の記憶を持たない彼女の脳内に、俺はもういない。

 ……なんとなく。
 本当になんとなく、声をかけたくなった。

 声をかけてどうなるのか、という気持ちもある。組織に居た頃ならまだしも、今の俺は彼女にとってただの赤の他人だ。声をかける理由がない。そう、理由さえあれば……。
 一歩、前に踏み出しながら理由を探す。彼女に声をかけるのは、色を通して組織の新たな情報を得られるのではという考えが半分。
 そして、もう半分は純粋に――

「……"兄"として、"妹"の様子が気になるから」

 自分で口にして、笑ってしまった。なるほど、そうか、そうだな。そうかもしれない。随分滑稽な理由だが、意外と悪くない気分だった。
 俺は都合よく彼女が地面に落とした財布を手に取り、小さな背中に声をかける。

「これ、落とされましたよ」

 その声を聞いて彼女は、ゆっくりと、その顔をこちらに向けた。


***


「……ということがあってね。後は君たちが知っている通りだ」

 全てを話し終え、俺はふうと息をつきながらパイプ椅子の背もたれにもたれた。
 目の前にいるのは病院服でベッドに腰かける色と、凄い顔でこちらを睨むスーツ姿の安室くん。……いや、今は降谷くんと言った方がいいのか? 彼は名前が多いから時々どれを呼んだらいいのか分からなくなる。

「思い出したか」
「……うん。思い、出した」

 俺の問いかけに色はこくりと頷いた。

 組織が壊滅してしばらく。ずっと病院のベッドで眠っていた色が意識を取り戻したという連絡をアークから受け、病室に駆け付けた。するとそこには既に安室くんがおり、俺の姿を見るなり敵意をむき出しにして矢継ぎ早に言葉を投げつけてきた。対する色は俺の姿を見て酷く混乱しているようだった。それもそうだろう、俺は今まで彼女の中では既に死んだ人間だったのだから。

 それから安室くんをなんとか落ちつけて、色とどういう関係にあったのかを話して聞かせ……今に至る、というわけだ。

「生きてたんだね、ライ兄」
「ああ。……そう呼ばれるのは、なんだか久しぶりで慣れないな」
「そ、か。じゃあ……なんて呼んだらいい?」
「いや、別に無理しなくても構わんよ。呼びやすいように呼べばいい」
「そう? ありがとう。じゃあしばらくは、ライ兄で」
「わかった」

 俺が頷くと、彼女は嬉しそうに目を細めた。

「それで? いつまでそんな顔をしてるつもりだ安室くん」

 一向に動かない安室くんに俺は声をかける。色のベッドを挟んで向かい側にいる彼は、パイプ椅子に腰かけ腕を組んだまますっかり言葉を失っているようだ。

「まさか、お前まで色と暮らしてたなんて……しかも、僕よりも早いうちから……!」

 先ほど話して聞かせたことが余程ショックだったらしい。その表情は嫉妬と憎悪と羨望が混じり合い、なんとも表現しがたいものとなっていた。確実に彼のような男がしていい顔ではない。

「今すぐ記憶を消してやりたい」
「君は彼女のこととなると随分熱くなるな」
「僕の知らない色をお前が知っているっていうのが気に食わないんだよ!」

 ぎゃんと安室くんが叫ぶ。おいおい病院だぞここは。だが俺の忠告を気にも留めず彼は「アークもそういうことは早く言ってくれればいいものを……」とつぶやいている。
 そんな彼の様子を見て色は静かに笑みを浮かべていた。

 何も写さないと思っていた漆黒の瞳に、確かに光が宿っている。

 ……どうやら、すっかり人間らしさを取り戻したようだ。それもすべて彼のおかげ、といったところだろう。俺には成しえなかったことを彼は成し遂げたということだ。その点は賞賛に値する。まあ、彼はそれを素直に受け取ってはくれないだろうが。

「彼女を泣かせたら"兄"として承知しないぞ、安室くん」
「癇に障るので兄を名乗るの今すぐ止めてもらえます?」

 実に不機嫌そうな声色で彼はこちらを睨みつけた。
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