或る少女の独白
『はーやれやれ、今日も疲れたな』
ほの暗い海の中を泳いでいると、彼の声が聞こえました。どうやら終わったようです。私はぐるりと体の向きを変えて水面に顔を出し、彼の声に耳を傾けながら「お疲れ様」と口にしました。
彼は信者と面会する部屋を後にして、広く長い廊下を歩いています。途中で声を掛けられたのか、『何?』と言いながら足を止めました。この声は秘書さんでしょうか。凛とした声で『明日の予定ですが』と続けます。確か明日は双子ちゃんと一緒に遊びに出かける約束をしていたと思いますが、急な仕事が入ってしまったみたいですね。彼は少し弱ったように言いました。
『困るなあ。明日は二人と出掛ける予定だったのに』
『ですが相手は……』
『わかってるよ。ふたりには私から謝っておく。後で詳細送ってね』
『承知しました』
ありがとうと言ってから、彼はまた歩き始めます。そしてぽつりと口を開きました。
『どうしようかなあ。ふたりはすごく楽しみにしてたし』
うーんと考え込むようにつぶやき、問いかけます。
『どうしたらいいと思う? 宙』
私は答えました。
「そういえば駅前に、新しいケーキ屋さんが出来てたってふたりが言ってたよ」
『ケーキか。なるほど』
彼の心は決まったようで、うんうんと納得するように頷きます。
『宙も、選ぶの手伝ってね』
「もちろん」
私は穏やかに答えました。
あの満月の夜から早2年。夏油くんはその後とある宗教団体を乗っ取り、そのトップとして忙しく活動しています。彼の理想の世界を作るために。
この2年、色んなことがありました。志を同じくする仲間が増え、住む場所も変わり、そして何より私たちの関係が変わりました。高専にいた頃はここまで四六時中一緒に居られるとは思っていませんでしたから。本当に、夢のようです。
私は再び水中に深く潜りながら、静かに嬉しさを噛みしめます。暗い海には私の他に、いくつかの仲間が泳いでいます。姿かたちは違いますが、彼らは皆私たちの仲間であることに変わりはありません。深く深く潜りながら水の心地を肌で味わうのが、私のお気に入りです。
思うままに泳ぎながら、私は考え事をしていました。時々、こうして思うことがあるのです。高専のみんなは今頃どうしてるかなって。みんな無事に卒業できたでしょうか。怪我や病気をすることなく元気に過ごしているでしょうか。
風の噂では硝子ちゃんは進学、五条くんは教師になるために奮闘しているのだとか。硝子ちゃんはともかく、五条くんは意外だなあと思ったのを覚えています。だって、あんなに毎日大喧嘩してた彼が先生になるだなんて。ふふ、やっぱり可笑しい。やっぱり人は変わっていくものなのだと改めて思わされます。
――『お前、傑に言わなくていいのかよ』
前に言われた五条くんの言葉がふと頭を過りました。呪いの進行を抑えるための呪符を作るのに協力してもらってる時に、言われた言葉です。共有スペースに向かい合って座りながら、私はへらりと笑います。
『なんのことかな』
『とぼけんなよ』
五条くんはこちらをじろりと見ながら言いました。その手に持っている私の術式が刻まれた呪符にわずかに皺が寄ります。
『お前だって薄々わかってんじゃねえか? 自分にかかってる呪いがどういうやつか』
私は否定も肯定もせずに微笑んでいました。私が誰にも言っていなかったことを、彼はその目で見抜いていたようです。
……呪いが進行し、最終的に自らも呪霊になってしまう。その変えられない未来を。
『言わないよ』
『なんでだよ』
『心配させたくないの。夏油くんを』
きっと私の呪いが完全に解けることはない。それは少し前からわかっていたことでした。
私が庇った男性の彼女……つまるところの私を襲った女性が亡くなったという報告を聞いて、夜蛾先生と共に病院に向かった日を思い出します。調べた結果、彼女に施された術式は人間を呪霊に変えるものであり、それは呪霊が死んだところで解除されるものではないということがわかったのです。先生は励ましてくださいましたが、私は驚くほど落ち着いていました。なんとなくそんな予感はしていたので、自然と覚悟はできていたのです。
『言わねえほうが残酷じゃねえのか』
『そうかもしれないね。……でも私は、言いたくないの』
その続きを言おうとして。そういえば、これを誰かに言うのは初めてな気がするなあと思いました。でもまあ、いいや。五条くんになら、言っても。
『だって私は、夏油くんが好きだから』
もちろん、みんなのことも大好きだよと付け加えます。驚いたように目を丸くした五条くんがなんだか間抜けで、私は思わず吹き出してしまいました。
『……マジ?』
『冗談でこんなこと言わないって』
こんな大切なことに関して嘘をつけるほど、私は出来た人間ではありませんから。私は彼から差し出される呪符を受け取りながら静かに釘を刺します。
『だから五条くんも言わないでね』
『……どうだかな』
それきり、私と五条くんはこのことについて話すことはありませんでした。けれどあの夜の夏油くんの反応からして、きっと五条くんは私との約束を守ってくれたのでしょう。彼は普段は意地悪だけど、そういうところはちゃんとしていたから。
これでよかったのです。私は、これで。静かな暗い海に深く潜りながら、私は独り言ちます。呪われてしまったその時は確かに辛かったけれど、正直今は少し感謝すらしていました。何故って、だってそうでしょう? こうして呪霊として彼の側に……文字通り、一番近くにいられるのですから。
私は人間だった頃から彼のことが好きでした。それこそ1年生の春。出会った瞬間から、私は彼に恋をしたのです。同じ任務になるたびにそわそわしたり、授業中にこっそり横顔を覗き見たり。その時ばかりは少女漫画の主人公になったような気持ちでした。その時は、ですけど。
時が進むにつれて仲も深まり、彼も私のことを多少なりとも意識してくれていたことはなんとなく感づいていました。けれど正直、彼から告白されたところで受け入れることは出来なかったと思います。
……何故なら、私は彼の隣にいていいような人間ではなかったから。
私には何もない。世界をひっくり返すような力も、誰かを治す術も、整った容姿も、私は持ち合わせていません。そんな人間が、あの夏油くんと釣り合うはずがないのです。何もない私には、彼の隣にいる資格すらないのです。私は彼のことが心の底から好きで。でもだからこそ、彼の隣にはいられない。ずっとそう思ってきました。ですがあの呪いにかかってから、私の運命は一変しました。
人間としては無理だったとしても、呪霊としてなら。それなら彼の側にいられる。たとえこの命を捧げてでも彼の力になることが出来る。それはなんて、ありがたいことでしょうか。
呪術師の立浪宙は死にました。
ですが私は後悔なんてしていません。
彼の側にいられるなら人間でなくても……いいえ、私としてはむしろ、人間でない方がいいのです。
『『夏油様!』』
私が考え事をしていると、可愛らしい声が聞こえました。夏油くんが最後の任務で助けた、双子の女の子です。村の住人から酷い扱いを受けていたせいで初めは怯えてばかりだったふたりも、今ではすっかり元気になりました。彼はふたりの身長に合わせるように膝を曲げて屈みます。
『どうしたんだい美々子、菜々子』
『ねえ、宙ちゃん出して! 宙ちゃんと遊びたい!』
おや、ご指名ですか。私はぐるりと身体をひねり、水面に向かって泳ぎました。
『うん、いいよ。ちょっと待ってね』
夏油くんはそう言って、術式を発動させます。途端に、暗いばかりだった空間に明るい光の穴が出現しました。水面の、そのまた上にぽっかりと開いた光の穴。私はそれに向かって泳ぎ――
「わあ!」
顕現した私を見て、ふたりは目を輝かせました。私はゆうるりと空中を泳ぎ、久しぶりの外の世界の眩しさに目を細めます。
「宙ちゃん、背中乗せてー」
せがまれるままに少し低い位置に降りてやれば、嬉しそうにふたりは私の背に乗りました。そのままぷかりと夏油くんの目線くらいの高さまで浮かぶと、きゃあきゃあと楽しそうに歓声を上げます。その時のふたりの愛らしさといったらたまりません。ここまで楽しんでくれると、私まで嬉しくなります。
私の上にごろりと寝転がり、頬杖をつきながら菜々子ちゃんが言いました。
「そういえば夏油様、なんでこの子だけ名前がついてるんですか?」
「夏油様のお気に入りだから名前つけたの?」
続くように投げかけられたふたりからの問いに夏油くんは答えます。
「私が名前を付けたんじゃないよ。元々彼女の名前は『宙』だったのさ」
不思議そうにしているふたりに、「もう少し大きくなったら話してあげる」と夏油くんは微笑みました。ふたりの頭を撫で、そしてそのまま私にそっと額を寄せます。
ああ、幸せだなあ。しみじみ思います。きっとこれも傍から見れば救いのない
「ねえ、宙」
――なあに、夏油くん。
「愛してるよ」
――うん、私も。