水葬

「いつぶりかなあ、外に出るのは」

 彼女は嬉しそうに言う。夜風に髪をなびかせながら呪霊から眼下の街並みに目を輝かせる彼女の隣で、私は静かにその笑顔を見ていた。
 彼女の『お願い』を聞いた私達は真夜中の高専を無断で抜け出し、東京の上空数百メートルを呪霊に乗って飛んでいる真っ最中である。きっとこんなことがバレたら大目玉だろうけど、まあそんなことは些細な事だ。彼女の願いを叶えることに比べれば、そんなこと。

「よかったよ。君が目を覚ましてくれて」

 噛みしめるように私はつぶやく。信じてはいたけれど心のどこかではやっぱり、このままずっと起きないんじゃないかって、何度も思っていたから。震えそうになる声をなんとか抑えるのが精いっぱいだった。

「本当に良かった」
「ごめんね、心配かけて。それから……色々迷惑も」
「いいよ。君がまたこうして……起きて、私と話してくれただけで十分だ」

 それよりも、と私は彼女の身体に視線を移す。

「身体は本当に大丈夫なの?」
「うん。今日はなんだか調子がいいんだ」

 ほら!と手を私に突き出した。最初に衰え始めた指先まで思い通りに動かせる様を見せつけられ、本当に調子がいいのだろうと実感する。感慨深い気持ちで見ていたらへへ、と宙が照れくさそうに笑った。その笑顔は従来の陽だまりのようなそれで、私は思わず頬が緩んでしまう。元気な彼女がもう一度見られただけで、今まで頑張って来た甲斐があったというものだ。だからつい、視界がぼやけてしまうのも、仕方のないことだ。

「夏油くん、泣いてる?」
「違うよ。目にゴミが入っただけ」

 ほんとかなあ、と宙はくすくす笑った。


***


「降りられる?」
「うん」

 先に降りた私が手を差し出して、それにつかまるようにして彼女は地面に降り立った。ありがとう、と控えめに微笑む。最初はふらついていたけれど少しコツを掴んだのか、今では補助的に私の手を軽くつかみながらも自らの足で立っていた。今まで置きあがる事すらできなかった彼女が、だ。

「本当に夢みたいだ……」
「それさっきも聞いたよ」

 大袈裟だなあと苦笑する。だってそうだろ。今までずっと眠りっぱなしで、いつ起きるのかもわからなかったのに。今こうして私の隣で話して、歩いているんだ。夢だと思わない方が不自然だろう。そんなわたしを他所に、宙は「それにしても」と辺りを見回す。

「あんまり変わってないね」

 よかった、と彼女はつぶやいた。彼女にせがまれてやってきたのは、1年前に悟たちとみんなで花火をした学校の屋上だった。普段なら子どもたちで賑わうはずのプールだが、時間帯もあってかひっそりと静まり返っていた。清掃が行き届いたプールには水が張られており、月光を受けながらゆらゆらと水面を揺らしている。それがまたこの状況の異質さというか、浮世離れ感を強調している気がした。

「でもなんでここに来たかったんだい? 確かにあの花火は楽しかったけど……」
「なんとなく、かな。ちょっと、水が見たくなったの」

 宙はプールサイドにしゃがみ込むと、そっと水に手を差し入れる。ちゃぷちゃぷと手で水を感じながら、私に話を振った。

「私が寝てる間のこと、聞いてもいいかな。みんな元気にしてた?」
「そうだね。悟も硝子も相変わらずだよ」

 宙の隣に歩み寄りながら言う。少し安心したように表情を緩める彼女に私はひっそりと胸を痛めた。このまま彼のことを言わない訳にはいかないことを、知っていたから。ただ、と私は言葉を切る。

「……この間、灰原が死んだよ」

 それを聞いた途端、水に触れていた彼女の手が止まった。その場に静寂が落ちる。私は静かに続けて言った。

「階級の高い任務にあたってしまって、それで」
「……そっか。灰原君が……」

 囁くような、微かな声。けど確かにそれは震えていた。彼女の表情なんて見なくても分かる。プールに差し入れていた手をぎゅっと握りこんだ。

「もっと長く生きていて欲しかったなあ……」

 彼女はそっとその場に膝を抱えて座りこんだ。完全に顔を膝に埋めて、こちらからは表情を見ることが出来ない。私もそれに倣って隣に胡坐をかくように腰かける。少し躊躇ったけど、彼女の背中に手を添えた。励ますように、少しでも元気が出るようにとゆっくり撫でさする。薄い背中がわずかに震えるのがわかった。

「私の所為だ」
「違うよ。君の所為じゃない」
「私が、任務に行けなかったから。だから」
「悪いのは全部、呪霊だ。君は何も悪くない」

 だから自分を責めなくていいんだよ。その想いが伝わったのかどうかはわからないが、彼女の言葉が途切れた。少しして、ぽつりと口を開く。

「みんなが任務に行っている間にね、いろんなことを考えてたんだ」

 それを皮切りに、彼女は静かに話し始めた。

「みんなどうしてるのかなとか、早く治したいとか……それこそ、任務を変わってもらって申し訳ないとか、ね」

 最初は普通だったんだよ、と彼女は言う。私は黙って彼女の話に耳を傾けている。

「でもなんか、どんどん悪い事ばっか考えるようになっちゃったの。初めの頃は、呪われてもあの人を助けたことに後悔なんてしてなかった。だってそれが私達呪術師の役割だから。当たり前のことだって。……でもちょっとずつ、出来ないことが増えていくうちに、思うようになったんだ。あのときもしも私が、あの男の人を助けなかったらって。そうしたら私は今頃、みんなと一緒に居られたのかなって。思っちゃって。……」

 彼女の膝を抱える手に力が入るのがわかった。

「そしたら、なんか自分が嫌いになっちゃった。こんな、こんなひどいことを考えちゃう私なんてって」

 感情的に声を震わせる彼女に、私はつい、口を挟む。

「君が自分を責める必要なんて」
「夏油くんは優しいからそういうことが言えるんだよ。私は違うの。自分のことしか考えられない、ちっぽけでみじめな卑怯者なの」
「そんなの、誰だってそうだよ。君だけじゃない」
「違うよ。だって私、」

 勢いよく顔を上げる。彼女の大きな瞳には水の膜が張っていて、こちらと目が合った途端に右目から一筋零れ落ちていた。

「非術師なんていなくなればいいって、……ちょっとでも、思っちゃったんだもん」

 無理矢理作ったような痛々しい笑顔を浮かべながら告白する宙に、私は思わず息を呑む。つい、背中に添えていた手をそっと引っ込めた。

「そ、れは」
「私ね、寝てる時、ずっと夢を見てたの」
「夢?」
「私が呪われなかった世界の夢……それどころか、呪いが存在しない世界の夢を」

 彼女はどこか遠くを見るようにぼんやりと視線を外す。感情的になっているせいか、今日はいつにも増して彼女の話が突拍子もない。ぽんぽんと思いもよらない方向に話が飛んで、こちらまで揺さぶられる心地がする。ゆらゆら、ゆらゆらと、とりとめもなく。

「誰も死なないし、呪われない。本当に、素敵な、理想の夢だった。……これが本当ならどれだけよかったかって、今もずっと考えてる」

 膝をぎゅっと抱えながら、宙はこちらに微笑みかける。けれどその笑顔はいつもの笑顔とは程遠い、とてつもない悲しみを背負っていた。見ているこちらの胸が苦しくなるような、そんな笑顔だ。

「私達、なんでこんな世界に生まれてきちゃったんだろうね」

 投げやりに言う宙を見ていられなくて。私は静かに心を落ち着けながら告白した。ずっと考えていた、理想の話を。

「……私も」
「え?」
「私も、同じようなことを考えていたんだ」

 それから私の考える理想についてと、その実行方法について話した。非術師がいなくなれば、呪いは生まれない。そうすれば呪術師が虐げられるような今の世界を終わらせることが出来る。夢にまで見た呪いの無い世界を作ることが出来ると。……本当は今こんなことを彼女に話すつもりなんてなかった。けれど、彼女と同じ考えかもしれないと思ったから。ついうっかり口が滑ってしまった。
 私の話を全てを聞いた宙は、静かに私に問いかける。

「そうすれば、本当に呪いはなくなるの?」
「おそらくだけど、理論上は」
「……そっかあ」

 宙はふっと柔らかい笑みを浮かべる。

「なら、それもいいかもね」
「え」

 彼女の返答に、私は思わず面食らってしまった。随分間抜けな顔をしていたのだろう。「なんで提案した夏油くんが驚いてるのさ」と宙は苦笑する。

「いや、……肯定されると思わなくて」

 私自身、これがいかに非人道的行為なのかは頭の端の方でわかっていた。わかっていたうえで、理想を語っている。だから流石に何か言われるだろうと身構えていたのだが……まさかこんな答えが返ってくるなんて。

「本当は止めないといけないのかもね。高専にもいられなくなるだろうし……」

 でも、と彼女は言葉を切って私に微笑みかける。

「私はやっぱり、夏油くんに笑っていて欲しいから。夏油くんがやりたいのなら……笑っていられるのなら、どんな世界でもいいよ」

 私は思わず目を見開いた。私が笑っていられるならそれでいい、なんて。これほどまでに彼女が肯定してくれるとは思いもしなかった。
 先ほどまで背中をさすっていたのは私の方なのに、気づけば彼女に背中を押してもらっているような、不思議な感覚がする。

「夏油くんになら、きっとできる」
「……宙」
「だって夏油くんは強いから」
「違うよ、宙」

 なおも私を肯定する彼女に、私は意を決して切り出した。

「私だけじゃない。私達で作るんだ」
「私、達?」

 きょとんと、彼女は目を丸くする。不思議そうにしているその顔がなんだか可笑しくて、愛おしくて。私は自然と彼女の手を取っていた。宙は驚いたように手と私の顔を交互に見ている。

「私の作りたい理想の世界には、君が必要なんだ。君が居なきゃ駄目なんだ。君は私が笑える世界が良いというけれど、私だって君に笑っていて欲しいんだよ」

 彼女の目を真っすぐ見つめながら私は言う。ほとんど愛の告白と言って差し支えない内容だったけれど、淀みなく言葉は口から出てきた。私の心からの言葉だったからかもしれない。目を見開いたまま固まる彼女に、懇願するように私は続ける。

「呪霊がいなくなれば、必然的に君にかかった呪いは解ける。そうすれば君は自由の身だ。だから」

 ……私と、一緒に来て欲しい。
 そう続けようとしたところで、彼女の様子がおかしいことに気付いた。

 先ほどまで私の顔に向けられていた視線は落ち、自身の手に向けられている。その顔からは笑顔が消えており、何かを見つけたかのような驚いた表情で固まっていた。

「宙?」

 違和感を覚えた私は彼女の名前を呼んだ。だが彼女はそれに答える事無く、私の手を解いてすっと立ち上がる。裸足だったため、ぺたぺたと頼りない音をさせながら私から離れるように歩いていった。
 ……まるで、満月に導かれるかのように。

「宙!」
「夏油くん」

 ただならぬ様子にもう一度名前を呼んで立ち上がったところで、彼女が私を呼んだ。月を背負うようにこちらを向く彼女は、先ほど見た表情が幻だったのかと思ってしまうほど微笑みを崩さない。夜風に吹かれ、彼女の伸びた髪が揺れる。

「ありがとう、夏油くん」
「え?」
「お願い、聞いてくれて」

 穏やかな彼女の口調に、私は若干違和感を感じていた。なんだろう、この、胸がざわつくような、突き放すような言い方は。

「みんなに伝えておいてね。私は幸せだったって」

 ――なんだかまるで。

「私、最後に夏油くんに会えてよかった」

 ――もう2度と会えない、みたいな。

「待っ――」

 慌てて駆け寄り、どこにも行かない様抱きしめるために彼女に手を伸ばした、その時。

 私のすぐ目の前に、宙はいた。

 こんなに近くで彼女の顔を見たのは初めてだった。今にも睫毛が触れ合いそうなほど一番近いところに、彼女の顔がある。彼女は少し背伸びをしてこちらを見上げるように顔を上げているが、その瞼はしっかりと下ろされている。私の頬を包み込むように触れ、そのまま自身に引き寄せていた。触れ合っているのは彼女の手と私の頬と。それから、もうひとつ。

「……」
「……ん、」

 少しして、彼女の顔が離れる。驚いた自分の間抜けな顔が、彼女の瞳に映った。でもそれもすぐに崩れてしまう。何故か。
 彼女が泣いていたからだ。

「……ごめんね、夏油くん」

 寂しそうに宙は笑う。口の中に残るのは、酷く馴染み深い味。彼女から決してするはずのないその感覚で、彼女がしようとしていたことの全てを理解した気がした。
 ……彼女が、決定的なことを私に言わずにいたことも、全て。

「大好きだよ」

 彼女はそれだけ言うと、再び静かに瞼を下ろした。ほろりと、涙がこぼれ、顎の先から伝って落ちていく。
 そうして、もう二度と開くことはなかった。

 力が抜けたようにぐったりと、宙がこちらにしなだれかかるのを支える。全体重をこちらにかけているのにもかかわらず、その身体は風が吹けば飛びそうなほど軽かった。まるで、抜け殻のように。

「宙」

 名前を呼ぶ。瞼は持ち上がらない。

「宙」

 もう一度名前を呼ぶ。唇は穏やかな微笑みを崩さぬまま静止している。

「宙……」

 何度名前を呼ぼうとも、その睫毛が震えることはない。ずるり、と。私は力なくその場に座り込む。

「っ……莫迦」

 そうつぶやいた途端、自身の喉が焼け付くように痛んだ。止めどなく涙が溢れ、彼女の頬にぱたぱたと落ちる。言うだけ言って、勝手にいなくなるなよ。さっきまで笑っていたじゃないか。私の隣で。いつもみたいに。陽だまりみたいに。言ってくれたじゃないか。私に笑って欲しいって。なのに。なんで。どうして。

「……君がいなくちゃ、意味がないのに」

 私は静かに彼女を抱きしめる力を強める。少しずつ冷えていく身体が、聞こえない心音が、容赦なく現実を突きつけてくる。化け物のように不気味な月だけが、私達を見ていた。私はどうすることも出来ず、その場に座り込んでただただ涙を流している。この世全ての悲しみを味わった気分だった。天国からいきなり地獄に叩き落されたような絶望感。つい数十分前まで夢心地だったのが嘘みたいだ。どうして、どうしてと、答えのない問いが頭の中をぐるぐると回っている。

 どれくらいそうしていただろう。悲しみに暮れる中でふと、口に残る味を思い出した。
 彼女がしたことが私の意図した通りならば、……おそらくそういうことなのだろう。

 震えをなんとか抑えながら私は彼女を抱えて立ち上がり、縋り付くような思いで術式を発動した。するすると立ち上った白い光の粒が、次第に集まり、はっきりとした形を作っていく。それが見覚えのあるものに近づいていくにつれて、私の目は徐々に見開かれていった。

「……あぁ、」

 ため息にも似た音が、自身の口から零れ落ちる。溢れる涙を拭うのも、まばたきすら忘れて、私はずっと空を見上げていた。
 ……こんなところで願いを叶えなくても、いいのに。

 日の出が近づきほのかに藍色に近づいた夜空を悠々と泳ぐのは、呪霊と呼ぶにはあまりにも美しい、白鯨だった。