
生まれてくる無意味
"事実は小説よりも奇なり"、とはよく言ったものだ。
窓も扉もぴったりと閉ざされた部屋。机の上やその周りに原稿用紙やメモ用紙、本がうず高く積み上げられた、一見すれば足の踏み場も無いようなそんな4畳半ほどの狭苦しい部屋。机の上のスタンドライトだけが唯一の光源である埃っぽいその部屋で、私は一心不乱に原稿用紙に向かっていた。
私の小さな手に不釣り合いな太い万年筆は休むことなく原稿用紙の上をサラサラと走っている。頭の中に思い浮かぶ映像を文字に変換し、脊髄反射で書き起こしていく。この瞬間が一番、私の生を実感させるのだ。自然と笑みが零れる。
「ああ、またこんな暗い所で」
不意にそんな呆れたような声がして、ぷちりという小さい音と共に部屋全体が明るくなる。どうやら夢中になっていたせいで、部屋のドアが開かれる音にも気が付かなかったらしい。その声の持ち主は私の散らかった部屋に躊躇うことなく足を踏み入れ、器用に私の後ろまでたどり着いた。
「原稿するときは部屋の電気を付けろって言ったろ?」
「すまない。つい夢中になってしまってね」
声の持ち主である彼に返答し、私は手をとめて後ろを振り返る。
幼い身体には不釣り合いな大きさの回転椅子に腰かけた女児姿の私は、ニヤリと音のしそうな子どもらしからぬ笑みを浮かべた。
それを見た彼は、まったく、と溜息をつく。
「夢中になるのはいいけど、目が悪くなったらどうするんだい」
「眼鏡をかければいいだけの話だろう」
「それはそうだけどさ……」
そこでふと彼は、私の机の上の原稿用紙の束を見つける。机に近づき、それを手にとった。パラパラとそれを捲る彼に付け加えるように言う。
「少し前に言ってた新作だ。まだ半分しか完成してないがね」
「半分?! 相変わらず筆が早いな……」
「私は書くペースにムラがあるからな。書ける時に書いておかないと、後々不調になった時に自分で自分の首を絞めることになる」
「はは……葵は偉いね」
柔らかく笑って原稿用紙の束を机の元あった位置に戻す。さてもう一度原稿に戻るかと万年筆を手に取ろうとしたところで、彼がさっとそれを取り上げた。何をするんだと少し不満げに彼の方を見れば、にっこりとその笑みを崩さずに言う。
「でも適度な休息も必要だよ。ご飯が出来たから一緒に食べないかい?」
「今日のメニューは」
「カレーライス」
「すぐに向かおう」
食い気味にそう言って私はひょいと椅子から降りた。彼はそれを見てくすりと笑う。
仕方ないだろう、彼の作るカレーは絶品なのだから。
***
突然だが、君たちは前世というものを信じるだろうか。
馬鹿らしい、非現実的だ、と思う人もいるかもしれない。だが私は信じている。何故か? 答えは簡単だ。
私自身が前世の記憶を保有してこの世に生を受けたからである。
ここで私の半生について振り返ってみよう。
前世で男に生まれた私はそれなりに名の知れた小説家をしていた。本を出せば瞬く間に売れ、世間の話題をかっさらっていく、まあちょっとした売れっ子作家だ。
そんな私が住んでいたのは周りに電車はおろかバスもろくに走っていないような陸の孤島と揶揄される田舎町。その一角に一軒家をかまえ、気が向けば机に向かって原稿を書いていた。
だが私も人間。ネタが尽きる時だってある。
『生と死の狭間に立たされた時、真のアイデアが閃く』と謎の持論を掲げていた私は、ネタがすっからかんになるたびに自殺未遂を繰り返していた。様々な自殺方法を試し、アイデアを閃いては小説に還元する。その繰り返し。
自殺未遂を発見されるたびに編集に「もうやめてください」と泣きつかれていたが、私はへらへら笑うばかりで彼女の話を全く聞き入れようとはしなかった。思えば、あの時に彼女の話をきちんと聞いていればよかったのかもしれない。
ある日入水自殺未遂を試みた私は、それに失敗し、あっけなく命を落としてしまった。齢30。若すぎる死に私の読者は大変嘆き悲しんだそうな。
こうして私の一度目の人生はあっさりと幕を下ろされたのである。
――そして気が付いた時、私は生後一分も無いほどの赤子の姿に生まれ変わっていた。
先ほどまで水に沈んでいた身体が、次の瞬間に赤子の姿になっていたら誰だって驚くだろう。私だってそうだ。看護婦に抱き上げられる己の小さな身体。感情の高ぶるままに声を出しても、聞こえるのは自分のものとは到底信じられぬ幼い声。初めは夢かとも思った。だがそれから数か月経っても夢は一向に覚める気配を見せない。
私は渋々、ここが現実だと認めたのである。
「葵?」
「……ああ。すまない」
「大丈夫? ぼーっとして」
「なんでもないよ。少し考え事をしていただけだ」
「そう? ならいいけど……あ、じゃあこれ持って行って」
「分かった」
カレー皿を差し出して彼は微笑む。私は了解して素直に皿を受け取った。
彼の名前は篠目立(たつる)。この世界での私の父親であり、私の本質を知る数少ない人物のひとりだ。
初めは私も、彼に対して前世の記憶を保有していることを黙っていた。だってそうだろう。たったひとりの可愛い娘が前世の記憶を持っていて、中身は実質30歳のおっさんだなんて。誰も得しない。父親である彼に対して何も知らない女児のフリをするのは正直心苦しかったが、私の前世については一生隠し通すつもりだったのである。
だが数年前、私がもうすぐ3歳になろうかという時、唐突にそれはバレてしまった。保育園や家の中など、どうしても執筆欲が抑えられなくなった時に鉛筆で書きなぐっていた数編の小説。自由帳の奥に隠していたそれが、彼の手によって偶然発見されてしまったのだ。「これ、葵が書いたのかい?」と恐る恐る口にした彼の顔は今でも忘れられない。
その時初めて私は、彼に前世の話を打ち明けた。途端に流暢に喋りだした娘の姿を彼は初め信じられないような顔で見ていたが、私の話を聞くにつれてそれは段々変化していく。全て話し終え、私が顔色を窺うように覗き込むと、彼はびっくりするほどやさしく微笑んでくれた。
そっと私の頭を撫でながら、「話してくれてありがとう」「ようやく葵の本当の言葉が聞けて嬉しいよ」と呟いたのである。どうやら彼自身、私の様子が周りの子どもたちと違うことにどことなく気づいていたらしい。
「前世の記憶があったとしても、葵が僕の娘であることに変わりはないからね」
そう言って抱きしめられた時、胸のあたりがふわりと温かくなったのは私だけの秘密だ。私自身、受け入れてもらえるか怖くて仕方なかったのかもしれない。
それから彼は私の書きなぐったその小説を原稿用紙に清書し、私をある場所に連れて行った。本の編集者をしている彼の仕事場、○×出版社である。彼は迷うことなく社長室へ向かい、清書した原稿用紙を差し出しながらそこにいた社長へ向かって言い放った。
「この子をウチでデビューさせていただきたい」
社長は初め彼のことを信じられないような顔で見ていたが、私の事情を聞き原稿に目を通すと、途端に目の色を変えた。それからあれよあれよと話は進み、気が付けば私は条件付きではあるが立の出版社で華々しくデビュー作を出版していたのである。
人生2周目の今世においても小説家という仕事を選んだ私は、デビュー作から話題を巻き起こし、「新進気鋭の大型新人」「謎のベールに包まれた正体不明の覆面作家」なんて囃し立てられ、世間でもそれなりに名が知られるようになっていた。
――そうして、今に至るというわけである。
「お腹空いた〜 さて、食べよっか」
「そうだな」
皿を持って私の向かいに立が座る。ふたりで声を揃えて手を合わせた。
小さな手のひらにぴったりの子供用スプーンを握り、カレーを次々口に運んでいく。子どもの舌にも優しい甘口のカレーは、何度食べても飽きない不思議な魅力がある。スプーンを動かす手をとめることは出来ず、気が付けばすっかり皿は綺麗になっていた。
「早食いは身体に悪いよ」
「仕方ないだろう。タツの作るカレーが美味いのが悪い」
「えへへ、そうかな。ありがとう」
唇を尖らせて目を逸らしながら言い訳をする私に、立は眉を下げて嬉しそうに微笑んだ。そう言う彼の皿ももう3分の1しか残っていない。どの口が何言ってんだか。
「それにしても、葵が明日から小学生だなんて信じられないや」
リビングに置かれた新品の真っ赤なランドセルを見ながら立はしみじみと呟いた。私も、そうだな、と返す。
そう、6歳の私は明日から小学校に通うことになっているのだ。本当は先週の入学式に出席する予定だったのだが、原稿に不備が見つかり、それを修正するために泣く泣く(泣いていたのは立の方なのだが)出席を諦めたのである。そしてようやく明日から私の小学生生活がスタートするというわけだ。
「何か困ったことがあったら言うんだよ? それとくれぐれも」
「私の正体が作家の『生天目葵』だとバレないように、だろう? わかっているよ」
「ならいいんだけど……」
尻すぼみになりながら立は言う。
立が私をデビューさせる際に取り付けた条件が"素性を明らかにしない、覆面作家として活動させること"だった。立曰く、こんなにも幼い子供が作家だとわかれば世間はこぞって食いついてくる。そうすれば色々面倒なトラブルに巻き込まれかねない。だから素性を隠させて欲しい、とのことだった。正直過保護だと思ったが、彼の気持ちがわからなくもない。
ということで現在、『生天目葵』=篠目葵だと知っているのは立と社長など、口が堅く信用のおける限られた人物数名だけにとどまっているのだ。
「大丈夫。心配には及ばないさ。それに、私はむしろ感謝しているんだよ。子供の発想力は時として素晴らしいものを生み出すことがある。使えるものは全て利用してやるさ」
「ふふ、流石です葵先生」
立はふにゃりと笑った。
***
翌朝。小学校の校門前にて。
車で小学校まで送り届けてくれた立は、どこかそわそわと落ち着かなさそうに言った。
「大丈夫? ひとりで教室行ける?」
「……私をいくつだと思ってるんだタツ」
「けどさあ……」
「ほら、仕事に遅れるぞ?」
「……そうだね。終わったら携帯で連絡するんだよ? すぐに迎えに行くから」
「わかってる」
いってらっしゃいと互いに声をかけ、彼の運転する車は名残惜しそうに去っていった。彼の中古の白い軽自動車が見えなくなると、私はランドセルを背負いなおして小学校の門をくぐり、入り口のあたりにあった校内の地図を頼りに教室を目指す。
数分もしないうちに教室にたどり着き、私は教室へと足を踏み入れた。私が教室に入っても、中にいた子供たちの会話が中断されることはない。入学式から1週間ほどですっかり友達のグループも出来上がってしまったらしい。これはすっかり出遅れてしまったな。
内心苦笑しながら自身の席を探す。ちょうど真ん中の列の後ろ辺りだろうか。机に名前が張られているから間違いないだろう。
「あー! ここの席の子来た!」
ランドセルを机の上に置いたところで急に明るい女の子の声が耳に飛び込んでくる。声のした後ろの席を見れば、そこに立っていたのはカチューシャを付けた可愛らしい女の子だった。余程嬉しいのか、やや頬を紅潮させている。私がぽかんとしていると、女の子はこちらへ近づいてあのねあのねと話し始めた。
「入学式からずっとお休みしてたでしょ? だからどんな子なのかなーって思ってたんだ!」
「そうだったんだ」
「私は後ろの席の吉田歩美! よろしくね」
可愛らしく自己紹介をした歩美。私も負けじと子どもらしく微笑む。
「あおいは篠目葵! 葵って呼んでね。よろしく歩美ちゃん!」
そう言って右手を差し出せば、歩美はぱっと顔を輝かせて「うん! よろしくね葵ちゃん!」と私の手を取った。
***
それからというもの、私の小学生生活は目まぐるしく過ぎていった。
歩美経由で同じクラスの小嶋元太や円谷光彦とも仲良くなり、放課後一緒に遊ぶようになったのである。彼らはいつだって好奇心旺盛で、気になることがあると一直線に向かっていく。非常に危なっかしく目を離すことが出来ない。時に見守り、時に一緒にはしゃぎながら、私たちは同じ時間を共有して仲を深めていったのである。
放課後。いつものように並んで歩く帰り道の途中で、公園の前にパトカーがとまっているのが見えた。人だかりも出来ている。なんだろうと思って4人で近寄っていくと、そこにいた刑事らしき人にとめられてしまう。話を聞くと、どうやら中で殺人事件があったらしい。犯人はまだ逃走中で、現場もまだほとんどそのままだから入ることは出来ないのだとか。
事件、と聞いて好奇心の塊である彼らが黙っているはずがない。しきりにその刑事に事件について尋ねていたが、案の定簡単にあしらわれてしまっていたようである。私はといえば、その隙に気配を消してこっそりと黄色いテープをくぐり、人ごみの合間を縫って中に忍び込んだ。少しだけ興味があったのだ。前世で遂に見る機会の無かった人間の死体に。
取材のため取材のため、なんて内心呟きながら進んでいくと、現場らしきところにたどり着いた。お目当ての死体はもう回収されてしまったようだったが、地面には大量の血がしみ込んだ跡があった。おそらくあそこに死体があったのであろうと容易に推察できる。ナイフか何かで刺されたのだろうか? なんて思っていると、不意に視界に影が落ちる。
「こら。子供が入っていいところじゃねーんだぞここは」
そんな言葉と共に背後からひょいと持ち上げられてしまった。身体を捻って後ろを振り返ると、私を持ち上げているのはどうやら高校生くらいの少年らしい。帝丹高校の制服を着ているから間違いないだろう。……というか、彼は。
「高校生探偵の工藤新一?」
「おっ。俺のこと知ってんのか。そう、俺が工藤新一だよ」
そう言って新一は私の身体を持ち上げたままずかずかと歩き始める。これはさっさと追い出されてしまいそうだ。慌てて私は手足を軽くばたつかせながら口を開く。
「犯人、わかったの?」
「いんや。まだもう少しかかるかもな。だが大丈夫だ。いつもの通りぱぱーっと解決してやるよ! だから今日は真っすぐお家へ帰るんだ。わかったか?」
私を心配させないように白い歯を見せて柔らかく笑う新一。その笑顔が眩しい。私も負けじと鍛え抜かれた子供らしい笑みを浮かべて猫なで声を出す。
「うん! 探偵のお兄さんなら、子どものあおいなんかよりもずっと早く事件を解決しちゃうよね! 犯人さん絶対捕まえてね!」
その言葉を聞いた瞬間、新一はぴたりと足を止めた。どうしたのだろうかと思えば、彼は小さく「そういうことか……」と呟いたかと思うと、ぐるりと現場に引き返した。そして私を片手で抱きかかえるなり得意げに言い放ったのである。
「分かりましたよ何もかも。……犯人はあなただ!」
それから工藤新一の推理ショーが始まり、犯人は無事御用となった。警察に犯人が連行されていく中、ショーを特等席で見ていた私を下すなり頭を撫でながら新一は言う。
「ありがとう。君のおかげで事件が解決できたよ」
どうやら、私が何の考えなしに言い放ったあの一言がきっかけで事件を解決してしまったらしい。私にとってみればその思考回路は全く理解できないが、解決に貢献できたのなら嬉しい限りだ。
因みに、現場の外に置いてけぼりにしてきた彼らにこっぴどくなじられたのは言うまでもない。
それから3人と別れ、ひとりで帰り道を急ぐ。今日は立に駅前の本屋に来るように言われていたのだ。事件に巻き込まれてしまって思った以上に時間が無い。小走りで道を進んでいると、曲がり角から不意に現れた人にぶつかってしまった。思わずよろけて尻餅をついてしまう。
「ごめんね、怪我はないかい?」
そういって目の前の青年はそっと手を差し出して来た。褐色肌に金髪。蒼い目。グレーのスーツ。人のよさそうな笑みを浮かべる青年はいかにもイマドキの若者、といった風貌である。差し出された右手をありがたく使わせていただき、よろりと立ち上がる。ぽんぽんと身体の汚れを払うと、私はぺこりと青年に頭を下げた。
「ごめんなさい、ぶつかっちゃって」
「怪我が無くてよかった。けど、次からは気を付けるんだよ?」
「うんわかった! お兄さんばいばい!」
「ふふ、ばいばい」
手を振って別れを告げれば、青年も笑って手を振り返してくれる。私は気を取りなおして駅前の本屋へ急いだ。
***
それからまた少し時が流れたころ。いつものように教室へ向かうと、教室がなんだかざわついていた。
おはようと挨拶をしたついでに歩美に尋ねてみると、嬉々とした表情で言う。
「今日このクラスに転校生が来るんだって!」
どんな子かなー?と楽しそうにはしゃぐ歩美。光彦や元太もまだ見ぬ転校生に思いをはせていた。しばらくすると先生が入ってきたため、慌ててみんな席に戻る。先生の後に入ってきた少年の姿を見るなり、私は思わず目をまたたかせた。
大きなメガネをかけた、小柄な少年。その姿はまさしく、数日前に会ったあの高校生探偵工藤新一そのものだったのである。
「江戸川コナンです。よ、よろしく……」
少し気まずそうにそう名乗った少年。それを見て私は口角が上がるのを抑えられずにいた。
先生は私の隣の空席に座るように言う。少年は素直にそれに従って、私の隣の席にランドセルを下した。着席してこちらをちらりと見るなり、一瞬だけ顔を強張らせる。数日前に会った少女とこんなところで会うとは思わなかったのだろう。少年は困ったように笑みを浮かべ、ぎこちなく言った。
「よ、よろしくね」
「うん! よろしくねコナンくん!」
――これは、面白いことになりそうだ。