紙束の森とカレーライス


 きんこんかんと鐘が鳴る。
 本日の授業がすべて終了し、教室から子どもたちが一斉に解き放たれた。校舎の内外問わず楽しそうなざわめきに満ちていた。こちらまで意味もなくそわそわと浮足立ってしまいそうな放課後、私はまだ随分大きなランドセルを背負いながら隣の席の彼に笑いかける。

「コナンくん、帰ろー」
「おう」

 そう言いながらコナンもランドセルを背負った。教室を後にして、ふたり並んで歩く。明らかにいつもと違う状況に、私はつい笑みを漏らしてしまった。

「ふたりで帰るなんて初めてだね!」
「確かに、いつもあいつらが一緒だもんな」

 一応人目を気にしながら子どものテンションで言う私と、取り繕う様子も見せない彼。いつか本当にバレても知らないぞ?と私は内心思いながら、視線を前に戻した。

 いつでもどこでも、何をするのにも基本的に一緒探偵団だが、今日は違う。歩美は母親の誕生日に合わせて自分で料理を作るから、光彦は姉の知り合いが当てたという映画の試写会に家族で行くから、元太は歯医者へいくから……とみんなそれぞれ用事があるらしく、ごめんねと謝りながらさっさと帰ってしまったのだ。それで私と彼はふたりきりで帰路につくことになったのである。
 そこそこ学校から離れただろうかという頃合いを見計らって、私は素の口調に戻しながら彼に視線を投げかけた。

「さて、これからどうする?」
「どうするったって、普通に帰るだけだろ」
「なんだぁ、随分面白みがないなあ」

 はーやれやれと大げさにため息をついて見せると、「下校に面白味も何もないだろ」との言葉が返ってきた。ごもっともだな。
 だがこのまま帰るのも面白みがない。だって初めて彼とふたりきりの帰宅なんだ。こういう特別な時には、その時にしか出来ないことをすべきだろう。今しか出来ない事。今だからこそできること……。

 そこまで考えたところでふと、あることを閃いた。そのまま反射的に口に出す。

「そうだ。うちに来るか?」
「……え?」

 隣を歩くコナンは一瞬目を輝かせたが、それはすぐに戸惑ったようなどこか遠慮がちな表情に変わってしまう。その表情のまま再度質問を投げかけてきた。

「うち、って……葵ちゃんの家か?」
「そこ以外にどこの家があるというのさ」

 それなりに稼いではいるが、まだ別荘は購入してないぞ。

「……いい、のか?」
「なんでそんなこと聞くんだい」
「だって家ってことは、仕事場もあるんだろ? そんなとこに部外者の俺がホイホイ行ってもいいのかよ」

 その言葉でようやく彼が言わんとしていることがわかた。どうやら彼なりに色々心配してくれているらしい。

「構わないよ。タツには私から説明するし」

 それに、と言葉を切る。
 にやりと目を細めて笑いかけた。

「秘密なんて今更、お互い様だろう?」

 私の言葉を聞いた彼はなんか複雑そうな顔をしている。……仕方ないなあ。ならばこれでどうだ。

「じゃあ今度君の家にも行かせてくれ」
「お、俺の?」
「うん。優作先生のお宅に行ったことはまだなかったからな……先生の仕事場は一度でいいからお目にかかりたいと思ってたんだ」

 交換条件だ。それならいいだろう? 私がそう言えば、彼は呆れたようにため息をつく。

「……わかった」
「決まりだな」

 彼からの返事を聞いて私はにっこり笑う。

「じゃあ早速行こう」

 こっちだ、と私は彼の手を引いた。


***


 彼の手を引いて歩くこと数分。私たちの前にごく普通の庶民的なアパートが現れた。新しすぎず古すぎず、言ってしまえばそこまで印象に残らない白い外観のそれを見上げて、彼はへえとつぶやく。

「俺の家割と学校に近いから葵ちゃんの家って初めて見るけど……意外と普通なところに住んでるんだな」
「まあね」

 オートロックを解除し、自動ドアをくぐってエレベーターに乗り込む。私は迷わず5のボタンを押した。静かに扉が閉まり、私たちを乗せた鉄製の箱が昇っていく。

「一度豪勢なところに住んでたこともあったが、あまりに私が落ち着かなくて、普通の場所に変えてもらったのさ。ただしセキュリティだけは他の部屋よりも厳重にしてもらってるけどね」
「はは、そらそうだよな」

 チン、と控えめに音が鳴って扉が開く。エレベーターから降りて数十歩。503の部屋の前で足を止めると、私はポケットから携帯を取り出した。不思議そうにするコナンの横で、慣れたように携帯を操作するとガチャリと解錠する音がした。

「ハイテクだな……」
「すごいだろう? タツがどこかのサイトから見つけてきて取り付けたんだ。初めは戸惑ったが、今となってはかなり便利に活用させてもらってるよ」

 がちゃりと扉を開ける。すっかり見慣れた我が家を背に、私は彼に笑いかけた。

「さて……ようこそ我が家へ! 我が仕事場へ!」

 招き入れるようなポーズをとって見れば「大げさだな」と苦笑された。

「ちなみに君が私の家に招いた友達第一号だよ」
「……まじかよ」

 それを聞くなり彼はちょっと緊張した様子で小さく、おじゃまします、とつぶやいた。
 靴を脱いで廊下を進み、正面にあるキッチンとリビングを通り過ぎた突き当りの部屋。立以外の人間を一度も居れたことがなかった仕事場である部屋の扉を、私は躊躇うことなく開け放った。

 カーテンが閉められ、電気の消された薄暗い部屋。そんな部屋の窓以外の壁すべてを覆う本棚と、そこにおさまる膨大な量の本。床がほとんど見えないと言っても過言ではないほど散乱した紙切れと、うず高く積み上げられた原稿用紙の束。インクと紙の混じり合った独特な香りが部屋いっぱいに充満している。そんな紙の森かと思ってしまいそうな部屋の奥の壁にぴたりとつけられた、重々しい机と回転椅子。机の上もこれまた紙と本で溢れかえっており、椅子の近くにある原稿用紙は半分ほど文字で埋まったところで止まっている。ご丁寧にその近くにはふたをされた万年筆が転がっていた。

 慣れたようにさっと部屋に入り、ランドセルを置いてカーテンを開ける私を他所に、部屋の入り口に立ち尽くしたままのコナンは目を丸くして言った。

「……すげえな、これ」
「そうか? 私としてはこれが普通だからよくわからないな」

 あっけらかんと言う私を見ながら、彼は恐る恐る部屋に入ってきた。足の置き場を探すその姿がなんだか新鮮で面白い。
 彼は物珍しそうに部屋の中を見回すと、本棚に並んだ背表紙を視線でさりげなくなぞり始めた。彼も本が好きだと聞いていたから、本好きの性が出てしまったらしい。

「あ、探偵左文字シリーズ全巻揃ってる」
「おっ君も好きなのかい」

 彼のひとことを聞き逃さず私は言う。探偵左文字シリーズとは、テレビドラマ化までされた大人気の小説作品だ。居合い抜き探偵で、犯人を暴いた後刀を抜いて犯人に一句詠ずるという独特なスタイルが人気であるらしい。

「実はそれサイン入りなんだ」
「えっ! 新名先生の!?」
「うん。確か私にってタツを経由して贈ってくれたんだよ」

 本棚の一番上にある本を取るために、近くに立てかけてあった梯子を利用して最新刊を手に取る。戻ってきて表紙を捲れば、内側にサインと共に『生天目葵先生へ』と書き記してあった。

「すっげ……」

 コナンはそれを覗きこみながら素直に感心した様子を見せる。嬉しくなった私はふふんと得意げに笑った。

「こういうことってよくあるのか?」
「頻繁にではないけど、あるにはあるね。新名先生や火浦先生……あとは優作先生からもタツを通して何冊かサイン本を頂いたりしてるんだ」
「父さんからも?」
「ああもちろん。優作先生は私の正体を知った日から新刊を出すたびに送ってくれるんだよ。手紙付きで」

 今度はそれを見せようと場所を移動しようとしたところで、誤って足先が積み重なった本に触れてしまった。ぐらりとバランスを崩したそれはどさどさと鈍い音をたてて崩れ、上に重ねて置いていた原稿用紙も周囲に散乱させてしまう。幸いにしてその波が他の紙束や本たちを倒さなかっただけましだが、先ほどにくらべて随分と部屋の散らかり度合いが増してしまったことは否めない。戦犯である私は苦々しい表情をしながらつぶやく。

「あちゃー やってしまったな」
「ぜってーやると思った……」

 コナンは呆れたようにため息をつく。

「ちっとは整理したほうがいいんじゃねえの?」
「いやーどうにも、そういうのが苦手なんだよね」
「苦手とかそういうレベルじゃねえだろ……」

 そう言いつつ、ふたりがかりで倒してしまった紙束と本たちの修復にかかる。散らばった原稿用紙を手にすると、彼はそれが未使用ではなく記入済みであることに気付いた。

「これって……」
「ん? ああ、それはボツったやつだな」
「え」

 驚いたような顔をして再び原稿用紙に視線を落とす。すると数秒して「……確かにこれ、読んだことないやつだ」とつぶやいた。

「はりきって書き始めたはいいけど、途中で手が進まなくなってしまってね。でもなんとなく処分するには惜しいと思って取ってあったんだ」

 そういえばこんなところに置いてあったかと原稿用紙を拾い集めながら改めて思う。そこでふと私の脳内にある考えがひらめいた。

「そうだ、君これ読んで意見をくれないか?」
「え!?」

 ばっと、それこそ音がしそうなほど勢いよく彼がこちらを向く。その表情があまりにも驚愕に満ちていて、私は思わずふっと噴き出しそうになってしまった。

「純粋な読者の反応が知りたくてね」
「……俺、父さんにもこういうことしたことねえんだけど」
「はは、別に難しいことをしなくてもいいよ。単純にこれを読んでどう思ったのか聞かせてくれればそれでいい。それをどうフィードバックするかは私の仕事だ」

 やってくれないか?
 私がそう言いながら持っていた原稿用紙を彼の方に差し出すと、彼は少しだけ気恥ずかしそうな表情を浮かべて原稿用紙を受け取った。

「感想、楽しみにしているよ。未完なのは申し訳ないが」
「そこは気にしねえよ。それに、俺の感想次第では最後まで読めるかもしれねーんだろ?」
「そうだね。その点では君次第と言ってもいい」
「責任重大だな」

 彼は少し得意げに笑う。顔見知りの読者ってやっぱりいいなあ。覆面作家であることに不満を抱いたことはないが、私は内心そう思った。


***


 それから優作先生の新刊の話をしたりしているうちに、玄関の鍵がガチャリと開く音がした。ぱちりとふたりで目を見合わせる。

「ただいまー……ってあれ? 靴がふたつある」

 聞こえてきたのは馴染みのある立の声だ。ふと時間を確認すると、もう夕方を通り越して夕食時と言っても過言ではない時間に差し掛かっていた。思った以上に時間が経っていたらしい。
 すたすたと真っすぐリビングにやってきた立は、開きっぱなしになっていた扉から私と一緒にいるコナンを確認し、おやと目を丸くする。

「確か君は、この間の……」
「江戸川コナンです。こんにちは」

 猫かぶりモードを発動し、少々緊張しながらも礼儀正しく挨拶する。ちなみに立とコナンは以前幽霊屋敷の時に初対面を果たしており、それ以来だった。あの時の彼の慌てぶりと言ったら……思い出しただけで笑みが零れてしまいそうになる。
 そんな私を他所に立はあららご丁寧にどうも、とにっこり穏やかに微笑んだところで、私たちが仕事場に足を踏み入れているのに気付き、さっと顔を青くする。

「ってちょっと!? その部屋は……!」
「ああ、心配無いよタツ。彼にはもう何も隠す必要は無い」
「え? ……もしかして、まさか」
「ああ実は――」

 すると、私が全て言い終わる前にぐんとこちらに詰め寄ってきた。その表情は今にも泣きだしそうである。

「あれだけ気を付けてって言ったのに!!」
「ちょ、タツ落ち着け」
「ああどうしよう、まさかこんな簡単にバレるなんて思ってもいなかった! それ今にもマスコミや週刊誌がどばっと駆け込んでくるぞ……! ああどうしよう、どうしよう!?」

 あわあわ、わたわた、そわそわ。絵に描いたような動揺っぷりに、私も隣にいるコナンもぽかんとするばかりだ。やがて見かねた彼が落ち着いた口調で立に言い聞かせる。

「安心して立さん。葵ちゃんの正体を知ってるのは僕だけだよ」
「……え?」

 コナンの言葉を聞くと、立は不安そうな顔でこちらを見つめる。その瞳は完全に潤んでおり、今にも雫が零れ落ちてしまいそうだ。
 話が出来る状態になったところでコナンが実は優作先生の遠縁にあたる人で、ペンだこの件や名前なんかから私の正体を言い当てたのだということを伝えた。すべてを聞き終えた立はなんとか落ち着いたようで、安心したようにため息を吐く。

「てっきり学校中に広まっちゃったのかと思ったよ……」
「だからいつも言ってるだろう? ちゃんと話を最後まで聞けと」
「うう……ごめん」

 まったくだと言いながら腰に手を当てて呆れる私と、しょんぼりと気落ちした様子の立。傍から見ていたコナンはそのアンバランスな光景にはは、と小さく乾いた笑いを零した。
 気を取り直したらしい立は膝を曲げ、視線を合わせるようにしながら改めてコナンに向き直る。

「そうか、コナンくんは優作先生の親戚だったんだね。なるほど、賢そうなわけだ」

 賢そう、と言われてちょっとだけ嬉しそうな彼を他所に、立は続けて言う。

「それに、面影がちょっと新一くんの小さい頃に似てるしね」
「え”?!」

 コナンはわかりやすくぎくりと顔を強張らせた。対する立は彼の地雷を踏み抜いたことに気付いていない様子で、昔会った時に幼い頃の写真を見せてもらっていたことを話している。へえ、意外と鋭いところあるんだな。彼がが完全に固まってるのが実に面白い。すると立はそうだと明るい声である提案をしてきた。

「そうだ! コナンくん、夕飯食べてくかい?」
「え、いいんですか? でも流石にそこまでは……」
「大丈夫! 材料は多めに買ってあるから1人分くらい増えても問題ないよ」
「そうだな、折角だし食べていくといい。タツの作る飯は絶品だぞ」

 さあさあと迫る私たちふたりの誘いに負け、彼は半ば折れるように了承したのだった。


***


「ここでいいかい?」
「うん」

 探偵事務所の前の側道に車を止め、立は後ろを振り返った。

「ごめんねコナンくん、こんな時間になっちゃって」
「ううん。ちゃんと蘭姉ちゃんに連絡入れてあったから大丈夫だよ」

 あれから3人で夕食のカレーライスを食べたのはよかったのだが、思いのほか話が盛り上がってしまい、小学生にはちょっと遅い時間になってしまったのだ。それで子どものひとり歩きは危ないからと車での送迎を買って出たのである。
 道路側のドアを開けて外に出たところで、助手席に乗っていた私は窓を開けた。

「今日は楽しかったよ。何分、友人を家に呼ぶというのが初めてだったもんでな。いい経験になった」
「はは、そりゃよかった」

 ばたんと彼はドアを閉めながら言う。

「んじゃまた明日な」
「ああ。また明日」

 そう言うと彼は満足げに微笑み、探偵事務所の階段を上っていった。その背中が見えなくなるのを確認したところで、立がさてと息を吐く。

「僕らも帰ろうか」
「そうだな」

 ギアを切り替え、滑らかに車は道路を走り始める。夜の米花町の景色を眺めていると、不意に立が言った。

「それにしても、葵が家に友達を呼ぶようになるとはなあ……」
「意外だったか」
「しみじみと娘の成長を噛みしめてるんだよ」
「大げさだな」

 はは、と私は笑う。すると立はぽつりと言葉を零した。

「実はね、ちょっとだけ嬉しかったんだ。葵の正体がコナンくんにバレたって聞いた時」
「え?」

 どういうことだとばかりに立の方を見れば、彼は真っすぐ前を見たまま言葉を続ける。

「葵、基本的に外では年相応の子どものフリをしているだろう? 自分が作家の生天目葵だと知られないために。それって本当に疲れると思うんだ。ずっと気を張りっぱなしで緩む隙も無いというか……」

 信号が赤に変わり、立の顔がこちらに向けられる。口元には優し気な笑みが浮かんでいた。

「だから、僕以外にも本来の姿を見せられる相手が出来ることで、葵が少しは楽になるんじゃないかなって思ったんだ」

 静かな車内で立の言葉だけが響いている。素直な彼の言葉は真っ直ぐに、それでいて優しく私へ伝わっていた。だがそれを正面切って彼に言えるほど、私は素直ではない。

「……へえ。たまには親らしいことを言うじゃないか」
「たまには、って……」

 僕そんな風に思われてたの? 微妙な顔をしながら立は言う。ぱっと信号が切り替わり、車が再び動き始めた。車窓の景色に視線を移しながら物思いにふける。

「(楽に、ねえ……)」

 別に今までの生活が苦しいのかと言われればそうではない。むしろ充実していたと胸を張って言えるが、コナンが来てからさらにその度合いは増した気がする。

「(意外とタツが言ってたのも間違って無いのかもしれないな……)」

 私はふっと口元に笑みを浮かべながら、流れていく夜の町を眺めていた。

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