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午後8時を過ぎ、もうそろそろ店仕舞いかという頃だった。
カランコロンと控えめに鳴るドアベルが、客の訪れを知らせた。テーブルを拭いていた僕は顔を上げ、いらっしゃいませと言いながら入り口に視線を向ける。そこに立っていたのはスーツ姿の彼女だった。僕はすっかり板についた人好きする営業スマイルを浮かべて話しかける。
「こんばんは心央さん。お仕事帰りですか? それにしてはいつもより随分遅いですね」
「はい、今日は少し長引いてしまって」
「そうですか。お疲れ様です」
店内に僕しかいなかった事を確認すると彼女は勝手知ったる様子でいつもの席に座った。ふうと息を吐いてハンドバッグを傍に置く。
注文するメニューはいつものだろうか見当をつけて早速準備に取り掛かろうとすると、食い気味にアイスティーとナポリタンを注文された。思わず彼女の方を見れば、彼女は僕と目を合わさずに言う。
「きょ、今日は、気分を変えようかと……思いまして」
そんな彼女に僕は小さく笑って了解し、早速準備に取り掛かり始めた。
この間メニューのことを指摘してからというもの、彼女は毎日なるべく違うメニューを選ぶようになった。知らぬ間に把握されていたのを気にしていたのかもしれない。悪いことをしたなと思うと同時に、律儀に注文するメニューを変える彼女がなんだか健気で可笑しかった。別に気にしないという選択肢もあるだろうに。
先に用意できたアイスティーを彼女の元に持って行けば、静かに礼を言われる。
さて麺を茹でている間に他の材料の用意をしようかと厨房へ足を向けたその時、彼女に声を掛けられた。安室さん、と少し戸惑いがちに彼女が僕の名を呼ぶ。
「はい?」
「……その、仕事で何かあったんですか」
思わず僕は足を止めた。
仕事、と言われて頭を過るのはこの間の一件。組織に僕がノックだとバレて危うく処分されそうになったりした、例の一件だ。あれからもうすぐ3日ほど経つが、あのことを思い出すと今でも色々と複雑な気持ちになる。
そういえば彼女は調査対象のひとりでもあった、と瞬時に僕は思い出す。今までどんなに調べても平凡な経歴しか出てこない上に、積極的にコミュニケーションをとってもそういった素振りすら見せなかったため、あの時の僕の感じた違和感は勘違いだったのだろうかと思っていたのだが……もしかして遂に気を緩ませて尻尾を見せたのだろうか。
「……どうしてそう思ったんですか」
まさか、何か知っているのか。
振り返りつつ、そんなニュアンスのことを声色に含ませて尋ねる。彼女の一挙一動を見逃すまいと、彼女へ視線を一心に注ぐ。
だがそんな僕とは対照的に、彼女は涼しい顔でけろりと白状した。
「いや、顔に怪我してるから」
「あ、ああ……」
思わず頬に手をやると、ザラりとしたガーゼの感触がした。そういえばそうだったと自身の今の状態を思い出す。すっかり忘れていたが、僕は今顔や身体のあちこちに怪我をしているのだ。
「探偵のほうでちょっと。別に大したことありませんよ」
「そうですか」
なだめるように笑っても、彼女の表情はぎこちない。厨房に戻り、パスタが茹で上がるのを待ちつつ作業を進めていると、安室さん、と彼女が再び話しかけてきた。顔を上げると、彼女は心底心配そうにおずおずと言う。
「気を付けてくださいね。……安室さんが怪我をしたらみんなが心配するんですから」
そんなことを言われ、思わず面食らったように固まってしまう。ぽかんとした表情を浮かべた僕を見て、なにやら彼女は慌て始めた。
「いやこれは別に深い意味ではなくて! そう! マスターとか梓さんとかコナンくんとか! 色んな人が心配するってことですから! まあ、勿論その中には自分も居ますけど……いや、これは本当に純粋に心配という意味で……!」
とかなんとか。
僕は一言も喋っていないのにひとりわたわたし始める彼女を見て、僕は内心決定的なものを感じていた。
うん。やはり彼女は何の変哲もない一般人だ。裏社会の闇などとは縁遠い、何も知らない保護すべき日本国民だったのだ。たった一度の出来事で裏があるのではないかと勘ぐっていた僕が間違いだった。……最近組織関係で疑心暗鬼になりすぎていたから安易にこんなことを考えてしまったのだ。
僕は静かに口角を上げて、仕事先のデスクにある彼女に関するファイルの削除を決めた。
慌てていた彼女がぜえはあと息を切らし始めたところで、手早く完成させたナポリタンを差し出す。
「お待たせしました、ご注文のナポリタンです」
「わーありがとうございます! じゃあ早速……って安室さん? なんでこっち見てるんです」
「いえ」
カウンターに右肘をつき、体重を預けるように軽く頬を乗せる。
「僕心央さんの食べる姿見るの、結構好きなんですよ」
「!?」
悪戯っぽく言えば、彼女は目を見開いて固まる。カシャンと手からフォークが滑り落ちた。
***
それからあまり実にならないようなたわいない話をしていると、気が付けば閉店時間を軽く過ぎていた。それに気づいた彼女は申し訳なさそうに何度も頭を下げる。今日は閉店の鍵締めを任されていたから多少時間をオーバーしようとも別に構わないのに。
入り口にかかったOPENの札を裏返しながらそういえばと彼女に尋ねた。
「心央さん、この後ご予定は?」
「家に帰るだけですけど」
「じゃあ送っていきますよ」
「いやそんな、いいですよわざわざ」
「そう言わずに。最近は物騒な事件も多いですし、ね?」
「でも」
「いいからいいから」
「……安室さんって、たまに強引で有無を言わさないところありますよね」
少し困ったように彼女は言う。そうだろうかと僕が過去の言動を思い返している間に答えは返ってきた。
「じゃあ、お言葉に甘えさせていただきます」
さっと閉店作業を済ませて店じまいをし、彼女を助手席に乗せる。お邪魔します、何て言いながらおずおずと彼女はシートに腰かける。ハンドバッグを膝の上に乗せてぎゅっと抱きかかえた。もしかして緊張しているのだろうか。そう思いつつ家の方向を聞いて、早速車を発進させる。
道中では積極的に会話をするようにした。無言だとただでさえ緊張気味に見える彼女がリラックスできないだろうという配慮故だったが、結果オーライだったようだ。彼女のハンドバッグを抱きしめる手がわずかに緩まるのを確認し、口角が上がりそうになったのを堪えたのは僕だけの秘密である。
そうこうしている間に愛車は彼女の自宅についた。一見どこにでもありそうな、何の変哲もないアパートの駐車場に車を停める。
「本当に今日はありがとうございました」
「いいんですよ、僕が買って出たことですし。それよりもう遅いですから、戸締りはきちんとしてくださいね」
「ふふ、了解しました」
彼女は口元を抑えながら小さく微笑む。
「おやすみなさい安室さん」
「はい。おやすみなさい」
車から降りた彼女を見送る。彼女が部屋に入ったのを見届けたら帰ろうと、僕はシートにもたれて腕を組んだ。
……そういえば、ここまで頭を使わずにリラックスした状態で誰かと長く会話したのはかなり久しぶりかもしれない、と先ほどの彼女との会話をふと思い出す。最近は組織の方で神経をすり減らす疑心暗鬼な会話ばかりだったからだろうか。彼女との会話はシンプルで余計な行間読みを必要としないから、とても楽に話せるのだ。そのうえポアロの女子高生たちのようにぐいぐいと来るでもなく、一歩引いたような落ち着いた態度で接してくれる。それが尚更話しやすさに拍車をかけているのだろう。
一応今まで疑ってかかった分の詫びという気持ちで送迎を買って出たのだが……案外悪く無かったなと思っている自分がいるから不思議だ。今までのように常連ポジションに戻ろうかと思っていたけど、少しだけ踏み込んだ関係……そう、友人くらいには昇格してもいいのかもしれない。丁度、”安室透の友人”というポジションの人間を探していたところだったし。彼女のような裏の無い人間ならば、最適だろう。
そんなことをつらつらと考えながら彼女の姿を目で追う。彼女はロビーにあるポストを確認しているようだが、ここでふと違和感を感じた。郵便物を手にしたまま固まっている。明らかに先ほどまで接していた普段通りの彼女の様子とはかけ離れている。
何となく嫌な予感がしたので、僕は車を急いで降りて彼女の傍へ駆け寄った。
「心央さん」
どうかしましたか、と声を掛けようとしたところで彼女が持っていたもの……おそらく郵便ポストに入っていたのであろう茶封筒を取り落とした。封が既に開いていたそれは地面に落ちると、辺りにぱさりと中身を撒き散らす。辺りに広がる彼女を映した写真――どれも彼女の目線はカメラを向いていない――が、僕らの足元を取り囲む。彼女は震えていた。
「……心央さん」
もう一度声を掛けて軽く肩に触れると、大げさなほど肩を震わせてこちらを見る。その眼は怯えきっていて、まるで捕食されることを恐れる小動物のようだった。僕はその態度で大方のことを察し、慎重に言う。
「詳しい話を、聞かせていただけませんか」