15 よくできました

「……む」

 ふと目を開く。
 そして数度まばたきし、寝ぼけ眼のまま辺りを軽く見回した。

 現在地は工藤邸の書斎の机。目の前には開きっぱなしのハードカバー。……どうやら、本を読んでいる途中でついうとうと船を漕いでいたらしい。昨日夜更かししていたのが響いているのだろう。慣れないメガネを直し、むずがゆい首を回す。これによって少し目が冴えたのはいいが、それと引き換えになんだかタバコが吸いたくなってきた。読みさしの本をそのままに、俺は椅子から立ちあがって簡易灰皿を片手に書斎を後にする。

 赤井秀一が死に、沖矢昴が誕生してから早くも1週間が経とうとしている。

 潜伏生活は自分が想定していた以上に快適だった。当初塒に考えていたアパートが火事になり家財もろとも全焼するというトラブルがあったものの、結果として保護対象である彼女の隣に越してくることに成功したわけだし。
 その彼女との関係は良好とはいいがたいが、その周りの人物……少年探偵団を結成する子どもたちや保護者である博士、この家の家主である工藤夫妻との関係は至って順調であった。どれくらいこの生活が続くか見当もつかないが、なるべく必要以上の面倒ごとは増やさないためにも関係は良いものであった方がいいだろう。

 書斎から離れた廊下の一角。ここならいいだろうかと俺は少し窓を開けて、吸いなれた煙草とマッチを取り出した。滑らかに火をつけ、煙で肺を満たす。外は柔らかな日差しで溢れていて、ある程度手入れの行き届いた庭にはひらひらと蝶などが舞い、麗らかな午後を演出していた。

 沖矢昴になるにあたって、気がかりだったのは少女のこと。
 俺のことを心の底から愛していると笑ってみせる、年端も行かない少女のこと。

 少女とはあの夜に『また明日』と言って別れ、それから一度も会っていない。次の日の夜には来葉峠での一件があったのだから、当然といえば当然だ。
 ……俺は結局、少女と交わした約束を守ることは出来なかった。

 それからのことはボウヤ伝いにしか聞いていないが、俺の……赤井秀一の死を知らせたのはボウヤだったらしい。約束をしたにも関わらず一向に病室に現れない俺を不審に思い、ボウヤに俺のことを尋ね、そこでそのことを知ったのだという。

「美琴姉ちゃん、来葉峠のことはニュースで見て知ったんだって。『もしかして、あのニュースで言ってたのが秀一さんだったりしないよね』って。『今日は別の仕事で忙しいから来れないだけなんでしょ』って。それで、僕がどう言おうか迷ってたら、ちょっとだけ笑って言ったんだ。『そっか』って。その時は面会時間ギリギリで、そのまま帰らされて。その後は僕も色々あって会えてないんだ。まだ入院してるみたいで、学校にも来てないんだって蘭姉ちゃんが言ってた」

 少しだけ申し訳なさそうに告げるボウヤの言葉が脳内で再生される。その言葉に俺はどんな表情で、なんと返したのかは覚えていない。
 灰皿に灰を落とし、壁にもたれながら煙を吸い込む。先端に点る赤が、呼吸に合わせて強弱を変えていく。

「……」

 これでよかったのだ。俺はそう考えながら煙を吐く。

 有能な探り屋とはいえ、これ以上一般人を危険に巻き込むわけにもいかなかったし。自分の気持ちに区切りをつけるという意味でも、丁度良い機会だったのだ。そう、これが最善策。最適解だ。
 俺にとっても、……少女にとっても。

 ――ピンポーン

 唐突にチャイムが鳴った。
 静寂に満ちたこの建物に我が物顔で響くその音は、俺を思考の渦から現実に引き戻すには十分である。灰皿に煙草を押し付けてもみ消し、玄関に行く途中に通るリビングのテーブルに灰皿を置いた。もう一度変装と首元を確かめてから、スリッパから外に出る用の革靴に履き替え、玄関の扉を開く。そして来客者がいるであろう、門の向こうに視線を向けた。

 そこに立っていたのはひとりの少女だった。
 肩のあたりで切りそろえられたさらさらとした明るい茶髪が、少女が動くたびにふわふわと揺れる。身にまとっているのは、ここのすぐ近くにある帝丹高校の制服。手には通学鞄まで下げていた。その瞳には以前と全く変わらない強い意志の光が宿っている。

 ……ああ、もう退院したのか。

 そんなことを思っている俺を他所に、少女はこちらと目を合わせると、唇を少し尖らせながら開口一番にこう言った。

「約束破るなんて酷いよ、秀一さん」
「えっと……どちら様でしょうか?」

 あからさまに困惑した表情を浮かべながら俺は言う。沖矢昴と目の前の少女は紛れもなく初対面だ。この対応が妥当だろう。だが少女は俺の言葉に答えることなく、門をゆっくりと開いた。ぎしり、と鉄同士がこすれる音がする。

「秀一さんが死んだって聞いてからすぐに、隠し持ってたPCを使ってFBIのデータベースに潜った。わざわざ夜に、監視の目をかいくぐりながら、Wi-Fiとか通信電波の影響しない棟まで移動してね。そうしたら、公表しているデータでは死んだことになっているけど、実際にはまだ籍が残ってたんだ。そこで私思ったの。死んだって言うのは表向きだけなんじゃないかって。実際はまだ生きているけど、止む負えぬ事情で死んだことにしているんじゃないかって」

 1歩、また1歩と少女は確実に俺との距離を縮めてくる。対する俺はその場から動くことも出来ず、ただ黙って少女の言葉に耳を傾けていた。

「その考えが浮かんでから早速、私は秀一さんが死んだ例の事故についての情報を集め始めた。ジョディさんに事件の概要とか私が眠っていた時のことをさりげなく聞いたし、詳しい捜査資料を見るために日本警察のデータベースにだって潜った。これをバレないように病院でやるっていうのがすごく大変だったんだけどね。絶対秀一さんは生きてる。きっとこの事故には裏がある。そう思って調べ続けた。そしたらね……気付いちゃったんだ。この事故に隠された、大胆なトリックに」

 その言葉を皮切りに、少女の口から詳細なトリックがすらすらと淀みなく飛び出してくる。死体の入れ替わりから指紋のコーティングに至るまで、まるで初めから全て見てきたのではないかというほど、それらは正確であった。

 これをたった一週間足らずで……しかも入院中に病院の監視を潜り抜けながらやってのけたというのだから驚きだ。恐らく、本気で俺のことを思ってここまで調べ上げたのだろう。……愛の力というか、執念というか。
 一通り少女の話を聞き終わり、俺はわざとらしくふむと相槌を打った。

「……なるほど。それは興味深い話ですね。でも、その彼が私だという証拠はあるんですか?」
「そうだなあ。私の部屋にほとんど秀一さんの指紋が残って無いとか、そういう間接的なものしか無かったよ。さっきまでは、ね」

 少女が過去形を使用していることにおや、と思いつつ話を聞いていく。少女はおもむろに俺の首元を指さした。

「その首元に着けてる変声器、喉の振動を利用しているんでしょ? だからね、じっと耳をすませば微かにだけど聞こえるんだ。秀一さんの声がね」

 さっと取り出したのはボイスレコーダーだ。見たところ、既に録音は開始されているようである。

「これを解析すれば出てくるはずだよ。あなたの声に混じった、もうひとつの声――秀一さんの声の波長が」

 話している間も少しずつ距離を縮めていたが、今ではもう数歩で互いに手が届くほどの距離にまで近づいていた。この距離ならば確かに、変声機の合間から漏れる俺本来の声も録音されているかもしれない。だが本来の声といってもごくわずかだし、何しろここは屋外だ。他の雑音が混ざってかき消される可能性の方が高い。俺は決して表情には出さず、落ち着き払って少女の挑発ともとれる言葉を受け流していた。

「それにこの匂い」

 大股で数歩一気に距離を詰め、すんと鼻を鳴らす。思わず後ずさって間合いを取ったが、それを見て少女は悪戯っぽく微笑むだけだった。

「秀一さんの好きな銘柄の煙草のにおいだ。……見た目は変えられても、嗜好ばっかりはどうにもならないよね」

 少女の言葉にほんの少し動揺するが、顔には出さない。ついさっき喫煙したばかりだからか、尚更強く香るのだろう。
 だが、煙草の銘柄がなんだ。それくらい被ったって特に支障は――

「あと秀一さんと同じ左利きでしょ。さっきドア開けたとき左手で開けてたし。あ、ドアくらいなら反対の手で開けるかもって思ってる? でもその左手についた擦れたインクの跡は誤魔化せないよね。左利きの人が横に書こうとすると、どうしても乾き切る前にインクが擦れて手についちゃうんでしょう? それくらいの知識なら誰だって持ってるし。それから立った時にちょっとだけ重心が右にズレてるのも同じ。秀一さん無意識のうちに右足に体重をかける癖があるから、どうやってもズレちゃうんだよね。歩いてる時もそのせいで靴の底が右のほうがすり減るのが早いんだ。うん、見たところそこも同じだね。あと煙草のにおいに混じってコーヒーのにおいもする。多分さっきまで飲んでたんだ。秀一さんの好きな銘柄のコーヒーをブラックで。香りが特徴的だからあの銘柄わかりやすいんだよね。それと右腕の肘のところ。小さなほくろがある。実は秀一さんも同じ位置にあるんだよ。同じように左手の中指の付け根と、顎の下あたりのほくろも同じ位置にあるね。変装したとしても、流石にそこまでは隠さなかったんだ。迂闊だったね。それから」

 ――思わず背筋が震えた。

 俺がこうして恐怖している間にも、少女は未だに喋るのを止めない。話しても話してもキリがないほど言葉が溢れてくるようだ。息継ぎをする間もなく告げられる己の知らない身体や嗜好の特徴に、背中の冷や汗が止まらない。何とか表情に出さないように努めてはいるものの、気を抜いたらすぐに顔が引きつってしまいそうだ。

 ほんの一瞬でそこまで共通点を見つけてしまう観察眼の鋭さもさることながら、そもそも俺についてそこまで細かい記憶を有しているのが非常に恐ろしい。ほくろの位置まで把握されていたとは誰だって思うわけがないだろう。

「とまあ、見たところこんな感じかな? ぶっちゃけあと1時間くらいはあなたと秀一さんの共通点を上げられるけど、まあそんな時間も無いし」

 あと一時間も語られたら恐怖で俺の身が持たないからやめてくれ。
 とは面と向かって言えず、心の中で思うのみだ。

「まあ正直DNA採取して照合すれば一発だけど、それは流石に反則って感じだよね」

 にゃは、とお気楽そうに笑って恐ろしいことをのたまう。少女の明るい茶髪を、風がふわりと揺らした。

「秀一さん、私を遠ざけるつもりだったんでしょ。あの時の誘拐犯なんて目じゃないほどの他の犯罪組織とか、例の組織の色々に巻き込まれたらって」

 少女の澄んだ瞳が俺を真っすぐに射抜く。日差しが強まり、逆光で少女の顔に影を落とした。

「それに私の身体のこともある。だから、あの作戦を私に教えなかったんだ。本当に死んだと思わせて、私が秀一さんから自然に離れていくように。FBIの協力者なんかじゃなく、普通の高校生に戻れるように」

 そこまで言うと不意に、ふは、と噴き出すように笑った。

「でも、残念でした! そんなことで私は秀一さんの傍から離れたりなんかしない」

 少女の白い歯がきらりと光る。俺は目を逸らせないまま、黙って少女の言葉を聞いている。

「もう二度と、秀一さんから離れたりなんかしない」

 そして、少女は勝ち誇ったように言い放った。

「秀一さんと会うためなら、たとえ火の中水の中。地の果てだって飛んで行って、探し出して見せるんだから!」

 清々しいほど真っすぐで決意に満ちたその言葉を聞き、俺は思わずため息をついた。
 なるほど。彼女のためを思って距離を置くのが最適解だと思っていたが、それはとんだ間違いだったようだ。しかもかえって逆効果であったらしい。彼女はたとえどんなに離れていようが、追いかけてきてしまうのだから。

 ――参ったな。これでようやく気持ちにけじめがつけられると思ったのに。

「……全く、君には敵いそうもないな」

 変装しているのを忘れ、思わず素の口調になりながら俺は言う。

 その言葉を聞いた美琴は、一瞬固まったかと思うと、満面の笑みを浮かべて思い切り俺の胸に飛び込んできた。俺の胸に顔を埋め、ぎゅうと音がしそうなほど抱きしめてくる。

「もうどこにもいかないで」

 ぽそりとつぶやかれた言葉は、今にも泣きだしてしまいそうなほど震えていた。やれやれと思いながら彼女の背中にそっと手を回す。

「ああ。約束する」

 柔らかな日差しが、俺たちを祝福するように温かく照らしていた。