08 姫君に告ぐ
もう何度も来ている彼のセーフハウスのインターホンを鳴らす。数秒の沈黙の後、スピーカー越しに「はーい」というこれまたすっかり聞きなれた少女の声がした。
「美琴? 悪いけど、ちょっと鍵開けてもらえないかしら」
『ジョディさん? うんわかった、ちょっと待っててね』
その言葉通り、程なくしてガチャリと扉が開いた。部屋の中から外を窺うようにひょっこり顔を出した制服姿の少女は、ジョディとその肩に担がれた男を見て驚いたように目を丸くする。
「秀一さん!? 何、どうしたの?」
「今日は同じチームのメンバーで食事をしていたのだけどね、同僚のひとりが調子に乗っちゃって……」
「それで、お酒を飲みすぎちゃったってこと?」
「ええ。珍しくね」
黙って支えられている彼にちらりと視線をやりながらちょこっと苦笑する。
彼がここまで酔い潰れる姿を見るのはこれが初めてだった。最近組織関係で忙しくしていた彼のストレス発散もかねて食事会に誘ったのだが、思った以上に疲れにアルコールが効いてしまったらしい。FBI随一の切れ者だとか、シルバーブレッドだとか揶揄される彼も、こうしているとただの人間なのだと痛感してしまう。
「とりあえず部屋まで運んじゃうわね。ちょっとだけ手伝ってくれる?」
「もちろん」
美琴は大きく扉を開き、ジョディを室内に招き入れる。ジョディの指示に従いながら、肩に担いだ彼の靴を脱がせたりして補助していた。ぐだぐだと足元が覚束ない彼のもう片方の肩を担ごうと、美琴がぐるりと回り込む。気を付けてねとジョディに声を掛けられながら肩を支えると、美琴はその重みにぐぐっと顔をしかめた。
「ジョディさん、よくひとりで抱えてこれたね……」
「あら、これでも結構鍛えてるのよ?」
「にゃはは、さっすが〜」
えっちらおっちらふたりで協力しながら彼を部屋に運んでいく。だが途中でぐらりとバランスを崩して、彼がぐわりと美琴にもたれかかってしまった。
「美琴、大丈夫!?」
「大丈夫大丈夫……。あはは、秀一さん重たいよー」
潰されそうになりながらもなんとか抱き留めるように支えた彼女は、そんなことを言いながら困ったように笑っていた。よっこいしょ、と廊下の壁を使ってなんとか身体を起こそうと試みる。
するとその時、今までずっと閉じられていた赤井の瞼がゆっくりと持ち上がった。自然と赤井と美琴の視線がぶつかる。
「秀一さん、気が付いた?」
ここどこだかわかる?なんて心配そうに尋ねる。だが赤井は答えない。ぼんやりと焦点の定まらない目で美琴を見つめたまま、微かに、だが確かに呟いた。
「あけみ」
放たれたのは。この場にいない彼女の名前。
その言葉を聞いた瞬間、ジョディはわずかに固まった。美琴はあまり表情を変えずにいる。そんなふたりを他所に赤井は、あまり呂律の回らない言葉をうわごとのように吐き出し続けた。
「……まない、すま、ない……」
まるで迷子のように頼りなく弱々しい言葉がぽつりぽつりと部屋に落ちる。どうしたらいいかわからず戸惑った様子のジョディは目の前の美琴をそっと見やる。美琴はしばらく赤井の様子をじっと見た後、ふっと優しく微笑んだ。
「大丈夫だよ秀一さん」
そっと、優しくなだめるように背中に腕を回してトントンと叩く。
「大丈夫、大丈夫……」
まるでぐずついた赤子を寝かしつけるように、一定のリズムで、ゆったりと。そのうちまた赤井は意識を失ったようで、すっかり静かになってしまった。その様子を確認した美琴はこそこそと小声でジョディに話しかける。
「ジョディさん、こっちから肩まわして……そろそろ本当に限界、潰れる……」
「え、ええ」
それからふたりでなんとか寝室に運び、ベッドにごろりと転がす。赤井はすっかり瞼を下ろして何事も無かったかのように穏やかな寝息を立てていた。
「酔っ払いの介護なんて初めてやったよ」
大変だねー、なんて笑ってみせる美琴。だがジョディは対称的に、どこか浮かない顔をしている。
「美琴、大丈夫?」
「何が?」
「いや、その……」
もごもごと言葉尻を濁す。それで美琴は何となく察したらしい。
「明美さんのこと?」
少女はいたってなんでもない表情で言った。寝室の間接照明が、仄かに少女の顔を照らす。
「やっぱり、彼女のことも知ってたのね」
「当たり前じゃん。秀一さんのことは何でも知りたいから」
勿論ジョディさんのことも知ってるよ、と言ってのける。わかっていたとはいえ、複雑なのには変わらない。ジョディは慎重に言葉を選ぶように、少女に問いかける。
「嫌……じゃないの?」
「嫌?」
「ほら、昔の恋人のことなんて知りたくないって人の方が多いじゃない」
そう。普通ならば恋人の過去の人のことなんてほぼ確実にタブー。絶対に触れられたくない地雷中の地雷だという人も少なくない。
だが今目の前で寝息を立てる彼は、無意識下とはいえその地雷を思い切り踏み抜いたのだ。しかも少女の目の前で。大体の人ならば、多少なりともショックを受けるものだろう。少なくとも自分ならばそうではないかと考えながら、ジョディは心配そうに美琴を見やる。
少女はジョディの心配をよそに、うーんと軽く考えるような様子を見せながら言った。
「そういう人もいるね。でも私はそこまで昔の恋人さんを邪険にしたりしないよ。だって、他の人との関係もその人を構成する大事なものだと思ってるから」
そうっとベッドに腰かける。スプリングがしなやかに変形して、音もなく少女を受け止めた。
「私、秀一さんのことが好き」
ぽつり。
言葉が宙に浮く。
その視線の先には、瞼を下した彼の姿。
「秀一さんが過去にどんな人と知り合ってきたかも、全員じゃないけど、知ってる。ジョディさんと付き合ってたことも、知ってる。……明美さんが忘れられないってことも、知ってる」
でも、と少女は言葉を切る。
「そんな秀一さんを、ぜーんぶひっくるめて私は大好きだから」
ちゃり、とネックレスに触る。
わずかに瞳を潤ませ、うっとりと視線を伏せながら、頬をほんのり赤らめて、口元に小さな笑みを浮かべて。その表情は初めて恋を知った幼い少女のように可憐で、それでいて幾度も経験を重ねてきた女性のように凛としていた。
「……だから、嫌なんかじゃないよ」
少し嫉妬はするけどね。と照れたように笑ってジョディを見上げる。
ジョディは静かに、己の中のこの少女に対する認識が変わるのを感じていた。
初めは本当に身勝手で我儘な幼い少女だと思っていた。偶然探り屋として一流の技術を持ち合わせているだけの、ただの少女だと。
だが、とんでもない。目の前の彼女は自分よりもずっと大人びていて、全てを受け入れて包み込んでしまう寛大な心の持ち主だったのだ。過去の彼も現在の彼も……おそらく未来の彼でさえも、全てまとめて愛していると言ってのけるほどに。
自分はどうだろう。彼女のようにはっきりと言い切ることができるだろうか。
……そんな彼女が、なんだか少し羨ましく感じる。
「あなたのこと、少し誤解していたみたいね」
「そうなの?」
美琴はきょとりと目を丸くする。ジョディの言った言葉の意味がよく分かっていないのだろう。そんな彼女を他所に、ジョディはそうだ!と何か思いついたようにポンと手を叩いた。
「今度、時間があったら食事にでも行きましょう! シュウやボスも一緒に」
「!」
ぱっと、わかりやすく美琴の表情が輝く。ジョディもつられるように決まりね、と笑みを零した。
「美味しいお店、探しておくわ」
「うん! 楽しみにしてる!」
にっこりと笑って美琴は答える。さて、そろそろ帰らなければとジョディが部屋のドアに手をかけた。
「シュウのこと、よろしくね」
「もちろん。任せといて」
***
目が覚めると自室のベッドに横になっていた。確か昨日は……ジョディたちと一緒に食事に行ったはずだが。帰ってきた記憶が無いな……流石に飲みすぎたようだ。ずきずきと痛む頭を押さえながらゆっくりと上半身を起こす。
すると、タイミングよくガチャリと部屋の扉が開いた。そこに立っていたのはエプロン姿の美琴。どうやら俺の様子を見に来たらしい。俺が起きているのに気づくと、ぱっといつも通りの笑顔を向けてくる。
「おはよう秀一さん!」
「……おはよう」