さっきから何度目になるだろうか、こうして頬をつねるのは。じんじんとした熱と痛みを帯び始めた頬がこれは夢ではない、紛れもない現実なのだと突きつけてくるようで涙が浮かんできた。
「いい加減、諦めろよ」
「いいえ諦めませんよ!ここは、絶対に夢の中です。悪夢です、悪夢以外の何物でもありません」
半ベソをかきながら未だ頬をつねる私を、壁にもたれ呆れたように見ているのは、にっくき敵対組織であるポートマフィアの幹部、中原中也だ。何だってこんな状況になってしまったんだろう。私が一体何をしたというのだ。昨日の夜は、普通に寝た、はず。多分。いつも通り太宰さんからの心中の誘いを断り、探偵社から帰宅していつも通りご飯を食べてお風呂に入っていつも見ているテレビ番組を見て、歯を磨いて寝た。そして目が覚めたら、このシミの1つも見当たらない真っ白な箱の中にいたのだ。そう、箱の中に。扉も窓も柱もない、綺麗な立方体の密閉空間の中に閉じ込められていた。この男、中原中也と。
四畳半にも満たないであろうこの箱は、一体何なのか。
「オイ」
「、、、」
「オイっつってんだろ!」
「私はオイじゃありません。みょうじなまえという私のお父さんとお母さんが三日三晩悩みに悩んでつけてくれた立派な名前があるんですぅー」
「じゃあなまえ」
「ギャッ!気安く名前で呼ばないで下さいよ!私の事は通行人Cとでも呼んでください」
「手前本当面倒くせえ奴だな」
「で、何ですか自動帽子掛け機さん」
「太宰の野郎に吹き込まれたんだな殺す」
「冗談ですよ。それで、何ですか、蛞蝓さんじゃなくて中原中也」
ピシリと、額に青筋を浮かべ「手前、、」と大変ドスの効いた声で呟く蛞蝓さんもとい中原中也だったが、直ぐに聞いてるこちらまで陰鬱な気分になるような溜息を吐いた。溜息を吐きたいのはこっちだって同じだ。
「何となく、わかってるんだろ手前も」
「、、さあ何の事ですかね」
「惚けんじゃねえよ」
狭い狭いこの箱の中では、互いの息遣いまで聞こえてしまう。ああもう、本当に最悪だ。
この男の言う通り、この箱の中から出る術を、私は目が覚めた時から何となくわかっていた。シックスセンスが告げたとでもいうべきか、恐らく中原中也も同じだろう。
キスをする事、それがこの空間から出る唯一の方法だと、誰に教えられたというわけでもなく、私たちは知ってしまっている。
「本当、最悪ですよ。こんなに最悪な1日は生まれて初めてです。太宰さんにパンツ見られた日に勝るくらい最悪です」
「なっ、手前、彼奴にパンツ見せたのか?!」
「違いますよ見せたんじゃないんです見られたんです転けた時に見られてしまったんですよ言わせないでください!」
思い出しただけでも顔から火が出そうだ。「あ!今日のなまえちゃんのパンツ苺柄だ!」とわざわざご丁寧に大きな声で言われた時は、本当に泣いた。未だに許してないし未だに揶揄われる。今の所我が人生最大の汚点だ。そう、今の所は。
この箱から出る為には、このイヤに洒落た帽子を被った小さな男とキスをしなくてはいけない。そんな事をした日にゃ、人生どころではない末代までの恥だ。
「で、どうするんだよ」
「どうするって、、」
「このまま永遠にこの中にいる気か?俺ぁ真っ平御免だぜ」
ただでさえ狭い空間なので一歩近づかれては、もう私たちの間の距離はほぼないと言っても過言ではない。間合いを取るため、一歩下がるが直ぐに壁が背中に当たってしまった。相手は異能持ちな上にマフィアきっての体術使い、戦闘能力が一般人よりやや上の私にはどう考えても勝ち目はなかった。
顔の横に手を突かれ、いわゆる壁ドンというものをかまされる。脈打つ心臓はその音が聞かれるんじゃないかと思うほど、バクバクと忙しなく動き、今にも口から飛び出てきそうだ。
「目ぇ瞑れよ」
「ううっ、屈辱、、」
初めてなのに、ついポロリと出た本音にしまったと思ったが時すでに遅し。吐息がかかる距離にある中原中也の顔がピシッと石のように固まった。あ、これは、ひいてるな。私がまだファーストキスを経験してないという事実に、大潮のようにひいてるなこの男。
「初めて、なのか」
「そうですよ悪いですか!大事にとってたんです!ああこんな事になるならとっとと好きになった誰かとチューしとけばよかった!」
情けなさと悔しさと恥ずかしさでヤケになった私は、気づいたらポロポロと泣いていた。不甲斐ない、探偵社の皆さんの前でも泣いた事なんかないのに。敵の前で涙を流すなんて、不覚だ。
ところが壁の横に突いていた手をそっと離し、私の目尻を拭い出す中原中也の行動に次は此方がギョッとした。なんだ急に優しくなりやがって。
「安心しな、責任はきっちり取ってやるよ」
やけに熱を帯びた目で見つめ、どういう意味かよくわからない台詞を吐く中原中也は、私の頬に手を添えたままゆっくりと顔を近づけてきた。帽子の鍔がコツンと額にぶつかり、それを合図のように私は目を固く瞑る。
ファーストキスは甘酸っぱいというのは迷信らしく、涙とタバコのせいで塩っぱくて苦い口付けは、如何にも忘れられそうになかった。
君は桃色
ビッグバン
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