朽ちる前に、もうひとつだけ
「頼むから、ドンキホーテ・ドフラミンゴを殺してくれ」
縋るような目つきで、男が言った。机の上には依頼料としては随分少ない紙幣が何枚か叩きつけられている。男は髪からはフケが舞い、唇はカサついていて、まるで浮浪者だった。
しかし身なりは草臥れているのにも関わらず、高価そうな腕時計や泥のこびりついた革靴が目につく。
机に置かれたランタンの頼りない灯りが、もぞりと動く少年の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせていた。
「ドフラミンゴはあんたに何をしたんだよ」
「あいつの、あいつのせいで家族も仕事も故郷も、何もかも失った! あの海賊団、許さねェ……!」
「ええと——ああ、パムラリー島の出身だって言ってた? 少し前に町が滅んだって……よく無事だったな」
少年は手元のスクラップファイルに視線を落とす。かの島はこの辺りにしては広大な小麦畑を有している穏やかな島だった。しかし二週間ほど前に原因不明の壊滅状態となったという旨の新聞記事がある。
「凄腕の殺し屋を雇う金も人脈もない。頼めば何でもやってくれるってウワサのお前だけが最後の頼みの綱なんだよ! 金だってもうそれが全部だ」
「……わざわざおれを探してこんな島まで来るくらい恨んでるのか。こんな子どもに頼らなくちゃいけないほど」
薄暗い部屋には少年と、萎びた男がひとりずつ。机を挟んで向かい合っている——と言っても視線は交わっているものの、少年はソファへ身を横たえていた。
顔色はお世辞にも良いとは言えず、声に覇気もない。ただ特別痩せ細っているかと言えばそうでもなく、例えるならば酷い船酔いに見舞われているようだった。
「もう、このまま誰にも会えず本当に野垂れ死ぬのかと思ってたから。その話、……ええと、お受けします」
「……本当か……!」
「ただ、依頼の成功は確約できません」
相手が悪すぎるので、という言葉を飲み込んだ少年は小さく呻きながら重たそうな身体をなんとか起こす。男の方は「そこをなんとか」と食い下がろうと口を開いたのだろうけれど、己が差し出した少額の依頼料が目に入ったところでバツの悪そうに視線を逸らす。
「それから、殺しの依頼は『お願いごと』だと困る。困ります、か」
「どういうことだ」
「殺してくれ、よりは『殺せ』と言われた方が助かります」
男は不思議そうに首を捻ったが、背に腹は変えられぬ状況ではある。食うや食わずでその日暮らしを送る男は一週間先ひと月先にまともに生きていられる自信がなかった。
だが、なけなしの金銭を食料よりも依頼料に回すほどにドフラミンゴを許せないでいた。男の抱えた怨みや怒りは判断力を鈍らせてはいたが、身を焼くほどの感情のどれもが奴を道連れにしたくてたまらないと彼の背を押す。
「じゃ、じゃあ……ドンキホーテ・ドフラミンゴを、殺せ」
悪意に塗れた声音で男は言った。
一般家庭で平和に暮らしていた男にとって、殺しを命じるのは初めてのことであったし、殺しを命じろと指示を受けることだって初めてだ。
自分を見ている顔色の悪い少年のぼやけた焦点が、徐々に定まっていくのを見る。弱くて浅い呼吸が少しずつ整っていくのを聞く。
少年が机に置きっぱなしにされていたグラスの中身を飲み干したところで、カーテンの開け放たれていた窓から朝日が差し込んできた。
「かしこまりました。これよりドンキホーテ・ドフラミンゴの暗殺任務にあたります」
男はそこで初めて少年の容貌を目にする。暗い部屋でも彼の頭の色素が薄いのは見て取れたが、真っ白で長い前髪の隙間から爛々と耀くまなこが覗いていた。
先程まで自分と同じく死人のようであったのに対し、打って変わって生命力に溢れている。その変わりように息を呑んだ。噂は本当だったのだと確信したからだった。
「ほ、本当に子どもじゃないか」
「承知の上でいらっしゃったのでは」
「そりゃそうだが、半信半疑、で」
かつて、どこかの国が抱えていたと言われている暗殺を生業にしていたらしい一族の生き残りがこの島にいる。男はたったそれだけの噂を耳にして貨物船に忍び込んでここへたどり着いたのだったが、己の判断は間違いではなかったのだと実感する。
命じられることに喜びを感じ、任務を遂行することだけに尽力する生き物。その片鱗を垣間見た男は生唾を飲む。
「どうしてこんな島にひとりで? 引く手数多じゃないのか」
「それは——ひとつ前の旦那様が、ここで死ねと仰ったので」
「…………そんなことで?」
「命令は絶対です」
「でもあんた、さっき確約はできないって」
「……相手が悪すぎると判断したからです。無茶な命令に対して『できる』とは言えません。ですが死力を尽くします。いつだって、なんだってしますから」
淡々と告げる彼の言葉は難解なものではなかったが、男には理解しかねた。いや、言っている意味は分かるが、それでも。
「死ねと言われたら死ぬのか」
「はい」
「俺が今死ねと言っても?」
「はい。ただ、まあ……俺は死にたいわけではないので、今日と同じように飲まず食わずで横になっているくらいしかできないと思いますが。多分、貴方はおれの王様ではないので」
ふたりの生きて来た環境があまりにも違いすぎている。違いすぎるが故に、男の常識が通用していなかった。「普通」の枠から大きく逸脱した少年があまりにも極端な話をするので、開いた口が塞がらない。理解できないこの生き物の生態には迂闊に踏み込むべきではないと直感した。
「任務に失敗したらどうなる?」
「さあ? 状況によると思います」
「め、命令に有効期間のようなのは、あるのか」
「長くて……今の具合だと二週間。もし同行してくださるなら倍は保つかと思いますが」
命令に鮮度があるような言い方に違和感があったが、値踏みするような視線とかち合う。男は「思いますが?」と言葉の先を促すので精一杯だった。
「あまり勝算のない、賭け事のような仕事になりそうですね。ご覧の通りおれはまだ未熟者なので。それでも同行されますか?」
「…………ああ!」
男は殺せる可能性があるならそれに賭けたかった。藁にもすがる思いだった。どの道他の手段など選び取れるはずもない。金もなければ時間も余裕もないのだから。
「そうですか。ならすぐ支度します。まだ北の海に居ると思うので、大きな町に行って聞き込みから始めましょう」
そう言ってソファから立ち上がる少年を見上げ、男は問う。
「あんた、名前は?」
「ありません。必要のないものですから」
◆
二週間程かけて、ふたりは船を乗り継ぎとある島へとやってきた。地道な聞き込みを続けた結果に辿り着いた港町。並んでしまえば、少年の背丈は男の腰ほどもなかった。
なのにここまでの船賃や宿代、食費雑費に至るまで全ての会計は少年が済ませてしまっている。使えど使えど厚みの減らない財布を見るたび、言いようのない気味の悪さが男を襲った。
北の海の夏にしては生ぬるい風が、男の肌に滲んだ汗をからかうように吹いていく。
「暑いな」
「少し休まれますか」
「いいや、奴を探そう」
「……かしこまりました」
男は、自分の半歩ほど後ろを行く少年を振り返った。彼は何故か昨日よりはぼんやりとした面持ちのまま、自然な動作で辺りに視線を振っているので、程なくしてなんの温度もないような眼差しと目が合うことになる。
よく観察すれば分かることなのだが、男は少年の呼吸が浅くなっていることに気づかなかった。ふいに声を掛けられたからかもしれない。
「何か?」
「きみ、いくつなんだ」
「今年で……、生まれて十年目です」
「……ウチの子よりも幼い」
船旅の最中で見せる少年が持つ異様に大人びた雰囲気が恐ろしいほどにちぐはぐに感じられた。
まさにあれは作られた、または生まれた時から徹底的に教育を施された結果の人間だろうと推察する。
男は彼に対して親しみを覚えることはなかったけれど、畏怖を感じると共に謎めいた危うさに興味をそそられていた。
とはいえ仕事の腕前はいかほどか測りかねる。本当に目の前にいる少年が古くから伝わる作り話のような一族なのだとしても、その実力をその目で見たことは無かったからだ。
「す、好きな食べ物はあるのか」
「特に、ありません」
「嫌いな物は」
「ありません……」
「家族はいまどうしてる」
「死にました」
多分——と呟いたところで、少年が焼けた砂の上へ膝をつく。驚いた男は弾かれたように駆け寄り、小さな子どもの身体を起こそうとした。
「ど、どうした。大丈夫か?」
「……はあ、いえ……はい、すみま、申し訳、ございません。すこし調子が」
男は初めて少年と出会った日のことを思い出す。そういえばあの日もこんな風に酷い船酔いに見舞われたような顔つきでソファに沈み込んでいたような。
「申し訳ございません、……おねがいが」
「お願い?」
小さな身体を抱えて人気のない建物の影へと飛び込んだ男の顔の前に、無遠慮にも少年はその顔をぐんと近づける。恵まれた整った容姿の頬にはだらりと冷や汗が伝い、浅い呼吸の合間になんとかか細く言葉を絞り出していた。
「殺せと、命じてください」
「え、……えっ?」
「できれば何度か。短い言葉で構いません」
はやく、と小さな手が男のシャツを掴む。微かに震えている指は握り込みすぎて冷えて白くなっていた。
はやく、おねがい。そう急かされているにも関わらず、男は少年の貌をたっぷり二秒は眺めていた。見入っていたのかもしれなかった。丁寧に仕立てられた人形みたいに見えるその顔が、徐々に歪んでいく様から目を離せなかったからだ。
縋りつかれるのも何故だか気分がいい。頼りになるのはお前だけだと言われているような心地は男に歪な優越感を与え続けている。もっとこの顔を見ていたい。もっと——
「殺せ」
次の瞬間、男の頬は熱された砂の上に落ちた。