ノンアルコールに溺れる 01
浅い眠りにまどろんでいたところを、やけに電子音じみたカメラのシャッター音で目が覚めた。
時刻は深夜に差し掛かるころ。俺は仕事の時間がくるまでの暇潰しとして、組織お抱えのバーで絵をひたすらに描き殴りながら過ごしていた。今回のお仕事は深夜から取引場所への下見。見事に下っ端の仕事だ。まあ、俺自身下っ端なのだけれども。
朝方近くまでかかりそうだなと予想し仮眠でもとっていたほうが良いかと睡眠を欲している瞼が落ちるのに身を任せていたら、近くというか目の前でシャッター音が聞こえた。おかげで軽く目が覚めたが、まだぼんやりする頭でなぜ俺の寝顔なんかを撮ったのだろうかと疑問に思う。
このときすぐにでも目を開けて寝顔撮りやがった人物の顔を拝んでやれば良かったのだが、残念なことに睡魔に弱い俺はそのまま仕事の時間になるまで目覚めることはなかった。次回があれば、目を閉じるだけで様子を見てみようと決意する。また眠ってしまいそうだけど。
数日後に、そのイタズラをしてきた人は現れた。いつものように絵を描いている途中で眠ったかのようにペンを右手にカクテルグラスを左手に睡魔に負けないように目をつむっている。そんな俺のもとへ近づく足音。丁度俺の手が届きそうな場所にまで近づき、その音は止まる。さて、この人は俺に何が目的で近づいたのだろうか。俺の組織の情報なんてめぼしいものは持っていないし、あったとして昨日ベルモットが買っていた下着の色とブランドくらいだ。
衣擦れの音がやけに響く。俺に手でも伸ばしているのかと思えば、自分の頬に柔らかく濡れた、だけど暖かいそれが触れる。一瞬だけ香る濃いタバコの匂いが印象的なその何かは、その人物の唇だったのだと気付く。俺は、知らない誰かにキスをされていた。
熱の籠った低く艶っぽい吐息の声で眠りかけていた意識が完全に覚醒する。俺の耳がいかれていなければ、この人物は間違いなく男だ。
後日。俺はまた、狸寝入りをする。
前回は混乱しまくっていて相手が誰だか見るのを忘れていたからだ。いや、実際は怖かったのかもしれない。あんなに強く煙草の臭いをさせるような人物は、組織では幹部あたりしか俺は知らない。下っ端にもヘビースモカーはいるが、このバーには幹部が多く来ることからあまり立ち寄らないし寄ってもすぐに立ち去るのが普通だ。俺は幹部の足役として動くことがあるからここに長居することが多々あるだけで。この人が酒の名前を持つ可能性がかぎりなく高いからこそ恐ろしい。
もうそろそろ深夜になるだろうか、と薄目で時計を眺めた。また睡魔に負けそうだとうとうとしていたらあの足音がやってきた。店内に広がる静かなBGMに紛れて、それは近づいてくる。数瞬おいたあとその人物は、俺の頭もとい髪へキスを落とした。リップ音をさせずに、俺の毛先を撫でるように弄ばれる。ぱさ、という音とともに俺の膝へ何かが落ちてきた。隣から身を引き慌てるような足音や息を飲む声が聞こえた。感触から考えるに、あれは長い髪の毛だ。俺へのイタズラに集中するあまりに、自分の髪が俺に落ちて慌ててしまったのだろうかと考える。
ずっと男だと思っていたがそれは勘違いで実は女だったのだろうか? 俺が目を覚まさないことを確認したかのように行動を起こさず黙っていたそいつは、静かに立ち去ったために確認はできなかった。
俺が起きないか警戒していただろうし、何より幹部が多く来るこのバーで煙草を好むロンゲの男は心当たりがあるが、俺は考えないことにした。物騒な顔の人物が思いついたがすぐにこのことは忘れることにした。恐ろしいことは考えたくない。
今日もまた、顔も知らぬあの人がやってくる。うとうとしていて本当に眠りかけていたが、あの音が耳に届いたので睡魔を振り払う。いつものように足音は俺の前でとまる。恐らくこいつのものであろう指先が俺の頬に触れる。輪郭をなぞるように撫でられたあと、強いタバコの香りと服が擦れる音がする。瞼へ柔らかい感触がして、またキスをされていると理解できた。今回はそれだけでなく、瞼から流れるように耳へと口付けが繰り返される。
どこか冷静なようで呑気な頭が、キスする場所にはその人の欲望が隠れているとか聞いたことがあるなとか、よくこんな場所で人の目を気にしないでこんなことできるなとか考えていた。いや、たしかここは店の中でも奥のほうに配置されたテーブル席で、観葉植物とかで見えにくくなっているって前ベルモットが言ってたっけ。
頬に添えられた熱い指先を無視しながらそんなことをずっと考えていたら、ようやく離れていく。帰っていくだろう足音に今日こそはと意を決して目を開く。角を曲がって消えていく後姿だけが見えて、その人物を詳しく見ることはできなかった。唯一わかったのは、長い黒髪だったこと、上質そうな黒いズボンと靴。……そんな特徴の人物なんてこの組織では腐るほどいる。
今日は狸寝入りなどせずにずっと起きていることにする。なぜかといえば、本業のデザインの仕事がたまってきているからだ。せめてラフだけでも仕上げなくてはいけない。色の配置なんかを試行錯誤しながらある程度考えて、あとは家で仕上げよう。気づけば仕事の時間になっており、スケッチブックやペンを片づけてバーを出る。カウンターを通った時に残り香のように、あのタバコの匂いがした。あの人と同じタバコの種類だ。でも俺が軽く店内を見まわしてみてもそこにいたのは組織の幹部が数名と普段タバコを吸わないような下っ端が数名だけ。……まさかな。
デザインの仕事がようやく終わった。だがそれを終わらせるために費やした時間は残酷な犠牲になった。睡眠が足りない。なのに今日も任務がある。寝たい。
今日はもうあのイタズラ犯のことなど忘れて、仕事に供えるためにテーブルへ顔を伏せて、自らの腕を枕代わりに眠る。悲しい腕枕だ。起きたら体が痛くなりそうだがそんなことを気にする余裕などなく、目を閉じれば速攻で眠気が襲い掛かる。
仕事の時間の頃には眠気もマシになっており、最近冬が近づいているために寒さ対策のマフラーをつける。家に帰って鏡を見たとき、俺の首筋には吸引性皮下出血もといキスマークがあった。
今が肌寒い季節でよかった。マフラーをつけてから店内を行動してよかった。心底そう考えた一日だった。
こんな痕を残していった人物は、どういった思いでこれをつけたのだろうか。
今回は長期任務があった。下っ端の仕事は辛い。かといって幹部の仕事も大変そうだからのし上がろうとは思わないけどさ。なんで俺こんな組織にいるんだろうと悩んでいる毎日だが、最近仲良くなった新人のバーボンに愚痴ってもどうにもならないしなあ。ベルモットの助手仕事が多い俺と最近ベルモットと組むことが多いバーボンは同じ苦労を味わうことも多く、気が合うだけでなく話上手だから相手をしていて楽しい。人がいると会話していたり他人の気配が近くにある分眠気に襲われることも少なくなり、それに比例してイタズラが無くなって来た。
ある日、バーボンが任務のために盗聴器を使っているのを見て、俺も自分のスマートフォンで寝ているときの自分を撮っていればイタズラの犯人を撮影できるのではないかと考えた。デザインの資料を見るかのようにスマートフォンを立てかけて、録画モードにする。こういった機械に弱いために時折バーボンに聞きながら試行錯誤したかいがあった。気が付いていたら眠っていた俺は撮影された映像を確認することもなく仕事のために急いで車へ乗りこんだ。
任務へ向かう俺の車にバーボンを拾って走り出す。これから他の幹部のもとへ向かうためにハンドルを操作していると、バーボンが撮影したものもといイタズラの犯人について興味があるらしく、俺からスマートフォンを借りて操作していた。たいしたものは入っていないうえにそのスマートフォンは絵描き仕事用のだから問題ないだろうと放置していたら、隣から変な声が聞こえた。
「何、どうしたのバーボン」
「いえ、その」
「お化けでも映ってた?」
「むしろお化けのほうが良かったですよ」
「お化けよりひどいものとはなんぞや」
車を脇に寄せて停車し、その動画を見せてもらう。
そこに映っていたのは、俺にキスしている長髪の黒い男……ライの姿だった。カメラの角度やライの長い髪で表情はあまりわからなかったが、頬や耳が赤くなっているのが見えて言葉にできない。惜しむように俺の手を撫でたあとに、慣れたような動作でカメラの外に姿を消すのを見届けてから動画を止める。
「……なにこれ」
「こっちが聞きたいですよ」
「え、待って俺これからライ拾ってジンのとこ行くんだけどどういう顔すればいいのかわかんない」
「僕だってそうですよむしろどうしてくれんだこれ!」
後日談
ライは撮影されていたことなど気づいていなかったのかいつも通りの様子で俺の車に乗り込んで来たが、俺とバーボンはずっと気まずい空気で任務を終えた。気づかなくってよかった本当によかった。その後、バーボンとは妙な友情が芽生えた。それからほんの数日後に、ライがノックだとバレて組織を抜けてからは比較的平穏な日々をすごしている。
仕事のない休みの日ができたので、いつも通っている組織のバーとは別の店にやって来た。雰囲気などが個人的に気に入っており、休みの夜はよくここに来る。そこでお気に入りのカクテルを口にしていると、いつもの習慣のせいかうとうとしてきた。酒を飲んでペンを握っていると眠りやすいから気をつけろってベルモットに最近言われたばっかりなのに。
そこへ、聞き覚えのある足跡。靴の種類は違うが、歩き方などがよく似ている。まさかと思い視界を店内へ向けるがそこにいるのは想像していた人物ではなく、明るい髪色に眼鏡をかけた糸目の男。別人だ。気のせいだったかと安心しまたうとうとしはじめていたら、その既視感しかない足音がまた聞こえてきた。嗅ぎ慣れてしまったあのタバコの匂いがする。ライはいつのまにここへ来たんだろうかと考えていたら、いつもと同じように俺の前で立ち止まる。薄目で開き狭い視界の中で、目の前の人物が俺に向かって手を伸ばしているのが見えたから、その腕を掴む。
「っ!!」
「……あれ、違った」
こんなところで何をしているんだ、ライ。そう口にしようとして目を完全に開けて見るがそこにいたのはライではなかった。先ほど見かけた、あの眼鏡の男だった。サイフが目的かそれとも俺を組織の人間と知って情報でも得ようと思っての行動かと思ったが、掴んでいる腕の持ち主の様子がおかしい。
よくよく相手を観察すると、違和感がある。男のくせにメイクをするのかと思ったがベルモットがよくするそれに似ていたために変装のためかと考えて納得する。メイクのせいなのかわかりにくい顔とは別に、赤い耳をさらしている糸目の男は、あの印象的な緑色の虹彩やスナイパーらししくがっしりした体格から間違いなくライだと確信できた。
え、まってライって死んだんじゃあなかったっけ?
「っあ、えっと。その。ちが、これは」
そんな声を漏らすだけで文章にもならないような言葉ばかりを漏らすライ(仮)。きっとひどく混乱していると思う。
さあてどう来るか。ただの知らない人だというにしても俺には上司のベルモットを相手に変装を見破る技術だけは磨いてきた。論破をする準備はできている。
さあどこからでもかかってこ「好きです」……。……は?
この男の緑色の目が潤み頬にまで薄らと赤みがかっていくのが鮮明に見えた。いやそうじゃなくて。ええと、その。
俺は考えた。すごく考えた。いや今までのこいつの行動から思考すればわかりきったことなんだろうけど自己防衛のために脳が自然と放棄していたからどうしようもないんだ。考えた結果、ライは死んだことにした。今目の前にいるのはまったくの別人だ。ライはもういない。うん。俺はライの存在を無視して別人として接することにした。助けてバーボン君の噂に聞いていたライはこんな男じゃあなかったはずだが。
きっと俺もひどく混乱していると思う。
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