霧雨ときみと



いつだったか。出先で雨に降られて、彼と一緒に雨宿りをしたことがあった。
細い路地の中、小さな空き店舗の狭いテント看板の下。
肩が触れるか触れないかくらいの距離で、私たちは立っていた。
誰に言われたわけでもないが、ひとところに留まるときは人目につかない場所を選んでしまうのは職業柄だろう。
隣に立つ彼と私は、警察庁警備局警備企画課の同僚だ。

「あと少しで本庁に戻れそうだったのにね」
「車で出れば良かったな、萱島も戻ったら雑務が山積みだろう?」

厚い雨雲を見上げながら前髪の細かい雫を払い落す。
時間が勿体ないと言わんばかりの言葉とは裏腹に、彼、降谷零の表情は穏やかだった。

「書類ね。つい溜めちゃうから」

へら、と笑って、可能なら後回しにしたい事務的な作業のことを思った。
本庁に戻ったら、しばらくは硬い椅子に座ってPCの画面に向かわなくちゃいけないところだったのだ。
でも、ここで足止めを食らったことで業務消化が遅れる理由ができるなら、この時間も苦にはならない。

「まあ、天気に関してはさすがに不可抗力でしかないからな」

と、普段の私の様子を知る降谷も同調の言葉をくれた。しばらくはこのまま休憩できそうだ。


***


空はどんよりと鉛色をたたえていて、霧のような雨はまだ止みそうにない。
背後のシャッターにもたれたいけれど、スーツに埃がつきそうで諦める。
せっかくだから、この雨宿りを理由に隣にいる同僚との距離を縮めてみてもいいかもしれない。
好奇心が湧いた。

「ねえ、一度聞いてみたかったこと聞いてもいいかな」

目線は前方に向けたまま、隣の降谷に声をかけてみた。
彼の目線が私の方を向いたのを気配で感じてから続ける。

「降谷は、なんで警察に入ろうと思ったの」

一度尋ねてみたいと思っていたことだった。
容姿端麗、頭も切れる。人当たりよく振る舞うこともあまり苦ではなさそうな彼にとって、この場所以外にもたくさんの選択肢があったはず。接客はもちろん、モデルだってこなせそうだ。
その肩書や待遇を理由に公僕を選ぶ者もいる中、なんだか彼は違っているように見えたから。

「んー、ここなら僕の求める答えが見つかると思ったから」
「うわ、なんか気障」
「うるさいな」

顔を歪めた私に対して、目を細めてじろりと鋭い目線を向けてくる。
まあ確かに所轄の刑事をやるより、諜報や情報収集のスペシャリストがいるここの方が比べ物にならないほどの量の情報に触れられるだろう。とことん合理的な男だなあと、目を伏せた。

ゼロに所属している以上、違法な作業に関わらざるを得ないのは心苦しいが、システムとして必要ならそれを全うするまで、と降谷なら思うのかもしれない。

「僕は、知りたいこともやりたいことも多かったから。それが叶うのは警察だと思ったんだ」

隣から私が頭の中で巡らせていたことと同じ答えが返ってきた。なんだかんだで私もけっこうな合理主義者で、すでにこの組織にしっかりと染まっているのかもしれない。

「逆に聞くけど」
「うん?」
「萱島はなんで警察に?」

私がここにいる理由。

「私には家族もいないし、誰かに守ってもらうばかりの人生だったから。
これからは守られるだけじゃなくて守る側になりたいって思ったんだよね」

(何かあれば自分の命は二の次だから)

結婚や、特定の大切な人をつくるつもりはなかった。
というか、親密な相手のつくり方を知らずに生きてきた結果なのかもしれない。ものすごく自然に身についた思考だった気がする。
もし特定の依存先があったとして。それを失ったときのダメージを考えるなら、初めから存在しない方がきっと楽だと思うようになったのは、いつからだったか。

「私は誰かを守れるならそれでいいかなと思って。
それで気が付いたらここにいたよ」

仕事はなかなかきついけどね、と笑って見せる。
彼もふっ、と小さく息を吐いて、目線は下を向いたまま口元を緩めた。

「確かに命を削ってるって思うことは多いな」
「だよね、扱う案件ひとつひとつが重すぎるんだよ」

たしか降谷は、長期の潜入捜査の任も負っているはずだ。
同じ部署にいても、お互いの担当する案件については深く知らないことの方が多い。なんとなく勘づいたり、ふと耳に入ったりするくらいなものだ。
長期の捜査はカバーの設定にぼろが出ないように、整合性に矛盾が生じないようにとひどく気を遣うのだと聞く。常にそれを保ちながら降谷零としてゼロにいるのだから、この男、本当に恐ろしい。

「ここにいる以上それはしょうがないと思ってる。萱島もそうだろ?」
「…そうだね。命削った結果がちゃんとあるなら、私はそれでいいかな」

視線は斜め上、薄くほのかに明るさを持った雲が近づいてくるのを見つめながら言った。

軽く聞こえる物言いだっただろうか。
でも私にとって自分の命が第一ではないことは、警察に入ったときからのポリシーみたいなものだったから。まずは自身の安全確保を、と訓練の場で口酸っぱく言われてきたものの、実践では別だろうと割り切って聞いていたのだから可愛げのない生徒だったろうな。教官の眉間のしわと鋭い眼光を思い出す。

「でも、僕は誰も死なせたくないんだ」

部下も、もちろん萱島のことも。
そう続けた降谷の声色の真剣さに、ふわふわと警察学校時代の記憶をたどっていた私の思考がすとんと現実に引き戻された。

「軽んじるなよ。僕にとって国を守ることと身近な人間の命を守ることは同義なんだ」

ちらりとこちら側に顔を向けて、身長差のあるところから降ってきた目線が私のそれとかち合った。
おそらく私の考えなんてお見通しなのだろう。それでいて、私に生きろと言っている。
まったく、真面目な男だ。
そのまっすぐな意思をたたえた瞳には、逆らってはいけないような気がした。
この男と同じ場所で働くうちは、きっと私は死なないだろう。
ふふ、と笑って私は返した。

「私に生きろと言うなら、降谷、あなたも生きなくちゃ。
知りたいこともやりたいこともあるんでしょ」

リスクも負担も大きい任務に当たっているだろう彼に、死ぬんじゃないよ、との思いを込めて。

彼の目元と口元に柔らかさが戻り、「そうだな」と一瞬年相応の笑顔を見せた。
そう思うと、ん、と空の方を見上げる。
優しい霧雨の向こう側は徐々に明るさを取り戻していて、空の青が見え隠れしてきた。
きっと、もうすぐ雨も上がるだろう。

雨が上がったらまた日常のリスタートだ。
ひとときの休息をくれる雨を、どす黒い感情を晒しつつもそっと隠してくれるような雨を、自身の心を洗い流してくれるような雨を、私は嫌いになれないんだ。
彼みたいだな。
冷たくもなく、ただただ自身の輪郭を掠めるように落ちてくる霧のような雨。

「そろそろ行こうか」
「いい頃合いだな」

足元にできた薄い水たまりを避けて革靴の一歩を踏み出す。
頭を仕事モードに戻しつつ、なんだか悪くない雨宿りだったな、と私は心の中で笑みを浮かべた。





(かんかん照りや澄み切った青空よりも、優しい雨の方が嫌味がなくて好きだ)



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