願うこと



乾いた空調の音だけが静かに繰り返される暗い部屋。ゆるりと彼の双眼が開かれた。
物音に気を張る必要がなくなったこの空間で、こんな夜中に目を覚ますのは降谷にとって久しぶりのことだった。
シーツの中でわずかに身じろぎをして、体にかかる圧を逃がす。それから、隣で寝息を立てているあかりの睡眠の邪魔をしないようゆっくりと上半身を起こした。
微かに衣擦れの音がしたが、彼女が気付く気配はない。それに安堵して、ベッドサイドから少し冷えた床に足底を降ろした。

じとり、と首元に気持ちの悪い汗をかいている。
あの頃の夢を見るのは、久しぶりだった。
夢なのにひどくリアルで、ついさっきの出来事のように感じられる。
引き金を引いたときの硬く重たい感触を、反動を堪えるために力を籠める腕を。
それから四方に飛び散る赤い点々。自身の足元にじわりじわりと寄ってくる血溜まり。

組織と対峙するための潜入だったが、無為に人を傷つけることを望まない自分にとってはまるで茨に縛り付けられているようだった。動けば動くほど棘が刺さり血が滲む。
苦悩し、消えてしまいたい衝動に駆られることも少なくなかった。

大切な人も亡くした。すぐそばにいたのに護れなかった。
もし自分が同じ立場にあったなら、確かに同じ道を選んだかもしれない。
それでも、どうしても護りたかった。

悔やむ気持ちは尽きることがなくて、時折こうして思考のすべてを奪われてしまう。
上がった心拍を鎮めようと、ふう、と深く長く息を吐いた。

からからの喉を潤したくて、スウェット生地のズボンに足を通してからキッチンへ向かう。
冷蔵庫を開けると、麦茶、水、牛乳が一通り。ふと棚の奥の方にある缶ビールが目につき、自分でも珍しいと思いながらもその銀色の缶に手を伸ばした。
普段はあまり飲まないけれど、仕事終わりの彼女が時々無性にほしくなるというので、常にいくつか買い置きをしている。メーカーには特にこだわらないらしいが、警察学校時代の仲間とよく飲んだドライな飲み口のそれをつい選んでしまっていた。

ダイニングテーブルにその缶を置き、片手でプルトップを起こす。ぷしゅ、と小気味よく炭酸が噴き出る音がした。
時計を見遣ると、午前2時を少し過ぎたころ。明日は動き出すとしても午後からだから、この時間に多少アルコールを摂取しても問題ないだろうと踏み、缶から直接喉へ流し込む。
冷たさと炭酸の刺激が喉を通抜け、後から追いかけてくる独特の苦み。
ふ、と息を吐き出すと、そこから一緒に靄が抜けていったような気がした。

「れい、どうしたの」
ぺたぺたと足音を立てて、ゆっくりと彼女がダイニングに入ってきた。その目はいつもの3分の2くらいの大きさで、普段よりも幼く見える。
「ごめん、起こしたな」
「ううん、私も今日はなんだか眠りが浅くて。それ、ビール?」
珍しいねと告げるあかりに、降谷は軽くうなずいて見せた。

「夢見が、あまり良くなかったんだ。だから開けてみた」
「ふふ、そっか。私も貰っていい?」
「もちろん」

席を立ち、冷蔵庫の奥からもうひとつ同じものを取り出す。
その間に彼女は戸棚から丸く足のあるブランデーグラスを持ってきて、テーブルの向かい側に腰かけていた。グラスを彼の方に傾けて、強請るような仕草をしている。
降谷は口の端で小さく笑い、そっと缶を開けてグラスの内側を沿うように優しく優しく注いでやった。

「いただきます」
「どうぞ」

缶とグラスで小さく乾杯をする。
こんな夜中、差し込む月明かりだけでビールを酌み交わすのは初めてだった。
こくり、こくりと喉を鳴らしてあかりはそれを一口、二口と飲み下していく。グラスが濡れた唇から離れ、ふう、と息を吐いた。

「それ、なんだか色っぽいな」
「なに言ってるの」
二人で、ふふっ、と笑いあった。

寝起きのビールなんて、不謹慎な気もする。
でも今それを責める者は誰もいないし、二人して悪いことをしているようで少しだけ気分がいい。

「零はさ、大丈夫?夜がつらいこと、ないの」
「え?」
「だから、大丈夫なのかなーって」

組織が壊滅に至るまでの間、数年にわたりトリプルフェイスを演じてきた彼にとって、もちろんその目的を達成できたことは大きな成果だっただろう。
反面、彼がその間に作り上げ、失ったものも少なくはないとあかりは思っていた。
生活も一遍した。その大半はもちろん良い方向への変化だけれど、自分自身の一部として落とし込み、動かしていた人格を消し去るのはおそらく簡単な作業ではないだろう。
自身で肩をつけるべきものだと覚悟している彼は、一人でそれを抱えているはずだ。

「ああ、…うん。さすがに、多少は」
俯いたまま、呟くように降谷は答えた。
「そうだよね、零だって人間だもんね」
あれだけいろんなことがあれば、感情くらい揺さぶられて当然。あかりはそう続けて、視線を窓際へ向けた。
グラスを傾けて月の光に透かし、底から立ち上る細かな泡を見つめている。

「私は、一人の夜は寂しかったよ」

陽の光の届かない夜は、不安や孤独を強めるから。
彼なら簡単には死なない、帰ってこないなんてことはない、って思うけど。

「零のことが心配で、もし何かあったら、遠くにいってしまったらって思うと眠れなかった」
「…そうか」
「夜はだめだね。いろんなことが増幅しちゃう」
「君でも、そうなんだな。心配をかけて、本当にすまなかった」
「もう終わったことだから、私は大丈夫。終わったら終わったなりに、整理したり片づけたりが必要でしょう。今の零にはそれが重たいんじゃないかって、そっちが心配かな」

目元から頬にかけてをほのかに赤く染めて、首を傾げるように彼女は薄っすらと笑った。

たとえ大きな目的の達成のためであっても、あなたは一人で苦しんでいたんでしょう。
その一切を背負うつもりで、弱音も吐かずに。

自身を見透かすような彼女の深いこげ茶色の瞳は、とても柔らかく優しい表情をしていた。
ああ、彼女は僕の孤独を、哀しさをちゃんと知っていてくれていた。

「…確かに、これまでのことを噛み砕いて過去にするにはまだ時間がかかりそうなんだ。
やっとの思いで荷物を降ろせたと思ったけど、これからが大変なんだって身に染みているところだよ」
「だろうねえ」
「でも今は、ここで降谷零として、あかりとともに居られるから。
僕は一人じゃないし、きっと大丈夫だよ」

彼女は嬉しそうに、口の端を緩ませて微笑んだ。
ビールを飲み下すと、細い首で喉が小さく上下する。その仕草すら愛おしく、それがすぐそこにあることをが彼にとっては嬉しくて堪らないことなのだと、きっと彼女も理解している。

「零とこうやって落ち着いてお酒飲めるようになったの、私も嬉しいんだ。
ゆっくりでいいから、一緒に、これからを生きていこうね」
「…ああ、ありがとう」

きっとこれからも、身動きの取れない事態に巻き込まれたり、彼女の身に何かあったときに一番に駆け付けられないなんてことが当たり前のように起こるのだろう。
それでも、降谷の大事なものを共に大切に思い、受け止めてくれる存在があることがどれだけ力になってくれるだろうか。
何よりも、己の命を投げ出さないためのブレーキに、彼女はなってくれるはずだ。

「あかりがいるから、僕は僕でいられるよ」
「そんな、大袈裟だよ。零はずっと零だった。ぶれずにここまで来られたんだから、しばらくはちょっと力抜いてもいいくらいだよ」

軽く唇をとがらせつつ、少しだけ照れているような、嬉しそうな表情で笑む彼女。
アルコールのせいか、彼女の方こそ力が抜けて気分よさげだ。それは彼にとって、他の誰にも見せたくない姿でもある。

ふ、と鼻で笑って、降谷は缶に残っていた数口分のビールをぱっと呷った。
血液中で適度にアルコールが巡っているんだろう。少しだけ末梢が温まったように感じる。それから、徐々に眠気も戻ってきた。

「たまにはいいな、こういうのも」
「うん、いいねえ」

ひとつのグラスに水を注ぎ、ふたりで半分ずつ口内と喉を潤してから、彼女の手を取ってベッドに戻った。
さっきまでの温もりがわずかに残った布団の中に滑り込み、抱き寄せる。徐々に、微睡みの中へゆるりゆるりと落ちていく。
一人の夜じゃない。二人同じベッドで夜を過ごせることを、朝を迎えられることを噛みしめつつ、
体と思考ががゆるく蕩けていく。




こんな日が来るなんて、思いもしなかった。
いつかまた、誰かの気配を気にする生活に戻ってしまうかもしれない。
だからこそせめてもうしばらくは、こんな時間が続きますように。
力を抜いて穏やかにいられる日々が、少しでも長く続くように。
願うことは同じだった。


(どうか叶いますように)
(願わくばそれが永遠に続くことを)



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