今やあの噂も大分無くなっていた。代わりに、どこそこの窓がゆるゆるになってるとか、あの先生はヅラだとか、しょうもない噂話が出てきている。つまりもう嘘を吐き続ける理由は無くなったわけだが。吐かなくたって過去が付きまとって、俺の印象は黄瀬涼太を凄く嫌ってる人になっている。
 ……あんなにも涼太を傷付けた俺に、もう傍にいる資格は無い。いたいだなんて、やっぱり厚かましい。
 始めはこれが正解だと思ってたけど、過ごしていくうちに本当にこれが正しいのか分からなくなっていた。
 そして、

『(忘れるなんて出来なかったよ)』

 慣れたように見せかけて、本当はまだ求めてる自分。
 どんだけ面倒臭いんだ俺は。溜め息を吐いた。
 よし、こんな時は図書室にでも行こう。もりもり本を読もう。
 何事もなかったかのように海野と高山と一緒に昼御飯を食べ終えて(何故か二人の方から寄ってきた)、俺は教室を出た。
 涼太は今日も食堂だろう。多分バスケ部の人達と一緒だ。そう噂で聞いた。
 もし傷があるのなら、そのうちに癒えてくれたらいい。お前はまだ治療薬がある。傷のままで放置しておくのは、俺だけでいい。

 思わず口許を覆った。
 駄目だ、たった少しの事でも破裂してしまいそう。何でも引き金になってしまいそうだ。
 その時、前から歩いてくる三人組の男子の会話が耳に入った。一人が偉そうに口を叩き、後の二人はおどおどと機嫌取りをしているかのようだ。

「折角アレで黄瀬の評判落とせると思ったのによー、水城だっけ? あいつ余計なことしやがって」
「で、でもさ吉川、結果的に黄瀬のメンタルはボロボロなわけだし……」
「ま、そうなんだけどさぁ。次は女についてでも流すか? それともあいつがレギュラーになったのは先輩相手に媚売ったから、とか?」

 ピタリと足が止まった。
 あいつ……今何て言った?
 アレって何だよ。涼太の評判を落とす? 次も流す?
 ざわざわと身体中に気持ち悪い感覚が広がる。
 ……もしかして。
(何でも引き金になってしまいそうだ。)
 振り返って大口を叩く奴の肩を掴んだ。

「……何だよお前」

 何も答えず、掴む手に力を込める。するとそいつ(吉川、だったか?)は舌打ちをした。

「離せよ!」
『お前が謝るって言うなら離す』
「はぁ? 何言ってんだお前」

 訝しげに俺を見る両目には苛立ちがこもっている。
 いつもの俺ならきっと怖じ気付いて視線を逸らしていただろう。でも今は違う。恐怖より何より、怒りで満ちていた。
 こいつが噂の発生源。ようやく見付けた。
 きつく睨み合っていると、隣に立つ取り巻きの一人が吉川に耳打ちした。途端、そいつの口角がにやりと上がった。

「へぇ、お前が水城響か。聞いた通り貧弱そうな奴だな」

 ……黙れ。

「つーかさぁ、黄瀬のメンタルをやっちゃったのはお前だろ? 何で俺に怒り向けんのよ」

 黙れ。

「それとも何、適当な事言って評判を落とそうとしてる事? ……ハハッ、あいつは気にしてなんかねぇだろ」

 っ、黙れ黙れ黙れ!!
 力任せに思いっきり顔を殴った。ニヤニヤと笑っていた吉川はよろけて後ろに傾いたが、俺の拳には大した威力もなかったせいか一歩後ろに足を出しただけで止まった。

『分かってるよそんな事は! 一番殺してやりたいのは俺自身だ……でも、例え涼太が気にしてなくても、有る事無い事言って涼太の事を傷付けるお前も俺と同じで許せない!!』

 一気に吐き出してハァハァと肩で息をする。
 次の瞬間、目の前には吉川の拳があった。俺のなんか比にならないくらいの強さ。がたいが違えば強さも違う。俺はバランスを崩して転び、背中を壁に強かに打ち付ける。その強さに思わず噎せた。

「自分は謝らねぇくせに人には謝れとか、とんだ我が儘野郎だなぁ水城くんは」

 ……そうだな、俺は我が儘だ。それでいて狡い。
 自分から遠ざけたくせに、怖くて怖くて簡単に謝るなんて出来ない。
 結局全部自分の為だよ。これ以上俺が傷付きたくないが為に、噂と涼太を利用した卑怯者だ。最低な奴だ。
 そんな事は、分かってるんだ。それでも。
 立ち上がって吉川の胸ぐらを掴んだ。俺を見てるようで吐き気がする。

『謝れこのクズ野郎!!』

 自分に言い聞かせる。
 カッとなって口から出たのは、もしかしたら初めて吐き出したかもしれない言葉。今の俺にぴったりな言葉。
 どんな結果になったって、謝らなきゃいけない。もし、もし許されるなら、涼太を傷付けた分だけ、傷付いて、償って……。そんな都合のいいIFの妄想を繰り広げる頭を振った。
 気付いたら俺達の周囲には沢山の生徒が集まってきていたが、俺も吉川も頭に血が上っていて野次馬にまで気を回すことは出来なかった。


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