※『だめだよ』つづき



暴れ狂う心臓を落ち着かせたくて、ふー……と腹から息を吐き出した。そんな簡単にこの緊張を鎮める事が出来れば苦労はしない。当然心臓はまだバクバクと騒ぎ立てている。指先が冷たい。少しだけ、逃げたくなった。
でも、今日こそ言うと決めたのだ。
切島は決意に満ちた表情で顔をあげた。

「苗字!聞いてくれ!!」
「う、うん……」

半ば叫ぶように放たれる切島の言葉に苗字が戸惑いがちに耳を傾ける。
不安そうで、でもどこか期待しているような表情。自分のシャツの裾をきゅっと握る両手。上目遣い。緊張しているのか紅潮した頬。ああ、目が潤んでいるように見えるのは気のせいだろうか。可愛い。とにかく可愛い。何はともあれ可愛い。べらぼうに可愛い。
切島の胸の高鳴りは最高潮に達した。心臓の音がこの教室を揺らしてしまうのではないかと疑ってしまうほど煩い。震える手で苗字の両肩を掴み、ごくりと唾を飲み込んだ。

「お、俺、俺……っ!わ、分かってっと思うけど、俺、お、おおお、お……っ」
「………」
「お前のことぎゃっ……」

さっと青ざめる。終わった、と思った。大事なところで噛んでしまった事に絶望し、がくっと項垂れる。
恐る恐る苗字の顔を見ると、赤い頬のまま彼は困ったように笑っていた。

「切島……あの、えと……か、帰ろ?」
「………、おう……」

わりぃ、という小さな謝罪に返事はない。怒りも呆れも慰めもせず、何事もなかったかのように振る舞おうとしてくれる苗字の優しさが痛かった。

切島が苗字に告白をしようとして失敗するのは何もこれが初めてではない。
あの夜、男同士の恋愛映画をうっかり観てうっかり一線を越えてしまった2人。
越えたと言っても所謂《抜き合いっこ》をしただけなのだが、好きな相手とする行為の気持ちよさと快感に打ち震える苗字の姿は切島にとてつもない衝撃を与えた。
男同士だから、クラスメイトだからと頑なに否定していた恋心を認めるには十分すぎる衝撃だ。
告白しよう、と関係を変える決意をした。切島なりに一生懸命考えた結果だ。
苗字が何を思ってあんな事をしたのかは分からないが少なくとも嫌われてはいないと分かる。可能性はゼロではない、いやむしろ期待しても良いはずだ。例え断られたって良い。身体の関係だけで曖昧に終わらせるような真似は漢らしくないと思う。

(や、今の状況もスッゲー漢らしくねぇけどな……)

何度も何度も言おうとして失敗した。その度に苗字は上手く流してくれている。
ある時は学校のチャイムに邪魔をされ、ある時はくしゃみをしてしまい、ある時は鼻血が流れ、またある時は爆豪を怒らせ逃げて来た上鳴が乱入……。これまでの散々な告白の数々を思い出し、切島は少しだけ泣きたくなった。

「ね、切島。コンビニ寄ろうよ。アイス食べたい」

こちらを覗き込むように見上げながらそう言って笑う苗字が眩しい。
何時までも落ち込んでいては折角気遣ってくれている彼に失礼だろう。切島は気持ちを切り替えて笑顔で返事した。



△▼△▼△▼△▼



寮にある共有スペースには珍しく誰もいなかった。
ソファに座り、コンビニ袋からアイスを取り出す。隣に苗字が腰掛けたせいでソファが少しだけ沈んだ。それだけでドキリとしてしまうこの気持ちに彼は気付いているのだろうか。

「テレビ、面白いのやってないねー。再放送のドラマとニュースばっかりだ」
「この時間は仕方ねえだろ」
「あっ、でも7時からヒーロー特集の番組ある!切島も観る?」
「トーゼン!」
「だよね〜!」

リモコンでチャンネルを切り替えながら喋っていた苗字が、手に持っている棒アイスをぱくりと口に咥えた。
思わずその様子を穴が開くほど見つめてしまう切島。大きく喉が鳴り恥ずかしくなった。切島の視線に気づいた苗字が一瞬驚いたような顔をしたあと、気まずそうに目をそらす。

「み……見すぎ……」
「え、あ、わりっ!」
「…………変な想像、したんだ」

苗字がアイスの先端に舌を伸ばした。ちろ、と少しだけ舐めて口の中へと戻っていく赤い舌に誘惑されているような気がして唾を飲み込む。
思わず前のめりになって苗字を見る切島の唇に、ゆっくりとアイスが押し付けられた。少しだけ開いた唇の隙間から溶けたアイスが侵入し、ミルクの味で満たされる。甘い香りにくらくらした。

「おいし?」
「んむっ……」

頷くと苗字が嬉しそうに微笑んだ。くちゅ、と塗り付けるようにアイスを動かす彼から凄まじい色香を感じる。

「俺も食べたいな……」
「っ……ん、」

はあ、と熱い息を吐く彼の顔は赤い。苗字も興奮しているのだと分かって切島は今すぐに押し倒したい衝動に駆られたが必死に我慢する。

苗字は、ずるい。
こうやって悪戯のように誘惑するのに明確な答えをくれない。切島が言い出すのを待っているのに、なんとなく言えないように仕向けているのも彼だった(もちろん切島の間の悪さにも原因はあるが)。そのことに気付いていながらされるがままになってしまう切島はどうしようもないほど彼に惚れ込んでいる。

「いっしょに、たべよ、」

苗字が動いた。
切島に押し付けているアイスにキスをするように唇を寄せ、吸い付く。唇と唇が触れ合ってしまいそうな距離に心臓の動きが加速する。
ちゅ、ちゅう、くちゅ、ちう、ちゅ。
角度を変え、舌を使ってアイスを食べる苗字が目の前にいる。溶けだした甘い液体が切島の口内へ次々に入り込んできた。甘い。甘い。甘い。
――――アイスごと食っちまおうか。
腹の底から顔を出した何かが切島を突き動かした。

「ンッ」

溶けて小さくなったアイスもろとも噛み付くように苗字の唇を奪った切島は、間にあるアイスをべろりと舐めあげるとその舌で苗字の舌先を突いた。
ミルクと唾液がぐちゃぐちゃに混ざり合って2人の間を行き来する。アイスだか涎だか分からない液体が苗字の手を汚すのが見えた。
真っ白な布を染めるような、綺麗なものをこの手で穢しているような、背徳感。静かな空間に響く厭らしい水音。視界を埋め尽くす苗字の顔。すべてが興奮剤となって切島を掻き立てる。

「んく、ぅ……ふはっ、んんぅ」
「っはあ……、ん」

さりげなくシャツの中へと侵入した切島の手が、するりと苗字の脇腹を撫でた。その時だった。

「あっちぃ〜〜〜アイスぅ〜〜〜」
「冷凍庫になんか入れてた気がする」
「まじかよ瀬呂神じゃん。セロシンじゃん」
「なんじゃそりゃ。しかもやるとは一言も言ってねぇ」
「私ならくれちゃう?」
「あ!アタシもアタシもー!」
「葉隠と芦戸にはあげちゃう」
「でた!ジョソンダンピ!」

賑やかな話し声が近づいてきた。ビクッと身体を揺らし、反射的に勢い良く離れる2人。
姿を見ずとも声だけで上鳴、瀬呂、葉隠、芦戸の4人だとすぐに分かった。

(あ、あっぶねぇー……!)

切島は冷や汗を流しながら胸を抑え、ソファに顔を沈めた。
クラスメイトに苗字とのキスシーンを見られそうになった事だけが原因ではない。むしろ上鳴たちが来てくれて助かったとさえ思う。あのまま誰も来なかったら、きっと。

「おっ、苗字と切島!お疲れ〜。何やってんの?」
「えっと……なんだろう?」
「?てか苗字くんアイス食べんの下手すぎない!?べったべただよ!」
「う、うん……苦手なんだ。恥ずかしい……」
「やだぁ、か〜わ〜い〜い〜〜!」

芦戸と葉隠に囲まれた苗字が苦笑いと共に曖昧な返事で場を濁している。先ほどのキスのせいで口周りだけでなく手や腕にまでアイスだったものが付着してしまっていて何とも間抜けだ。いたたまれない気持ちになりそわそわしながら素知らぬ顔でテレビをみていると、肩に腕がまわされた。

「切島、アイス溶けてんじゃん」
「あ?うおっ!わ、忘れてた……」

上鳴に言われて初めて机の上に置いたカップアイスがジュースのようになっている事に気が付く。どれだけ自分が夢中になっていたかを示されているようで顔に熱が集まった。何か言われたらどうしようかと思ったが上鳴は特に気にしていないらしく、どこから取り出したのかUNOと書かれたカードケースを掲げた。

「せっかく人数集まったしよ、アイス食いながらUNOしようぜUNO!だべろ!」

盛り上げ上手な上鳴に賛成する声があがる。その中には苗字の声もあった。話題が自分達から逸れた事にほっとしつつ、切島もその輪に加わる。
やりやすいようにと無意識に隣との距離を詰めると苗字の脚に膝が軽くぶつかった。謝ろうとした切島の視界に赤く染まった肌が入り込む。

「苗字」

誰にも聞こえないほど小さな声で名前を呼んだ。彼の表情を見てわざとぶつかったのだと気づいてしまったからだ。目が合って、苗字の口元がゆるゆると歪む。恥ずかしさと緊張と喜びが綯い交ぜになった、不器用な微笑みだった。
とく、とく、とくとく、とくとくとく。
鼓動が加速する。
わずかに動きだした唇から目が離せない。

「きもちかったね。……また、しよ」

ほとんど音を乗せていない囁きだった。
呆然としながら無意識に鈍い動きで頷いた切島。力が抜けた手から持っていたカードがすり抜けて床に落ちていき、まるで今の自分みたいだ、と漠然と思った。
漢らしくとか、ちゃんと言葉にしなきゃとか、曖昧じゃ駄目だとか。真剣に悩んでいた事がどうでもよく感じてしまうほどの誘惑。
すぐ傍にUNOで盛り上がる友人達がいるのに今この瞬間だけは2人だけが切り取られた空間に居ると錯覚する。
膝から伝わる苗字の温もりがもっと欲しくなり、少しだけ、また距離を詰めた。