適当な名前


リビングに大きな穴をこしらえてしまった2人の再会は、案外早かった。
その理由は、名前の部屋から漂う食事の匂いがキバナの鼻をくすぐるからである。

ジムリーダーとして活躍するキバナのオフは貴重で、夜はネズと酒を飲む約束をしていたはずだった。
しかしつい先刻タイミング悪くネズに急用が入り、話はお流れになってしまったのだ。
どうにもやるせない気持ちを抱くキバナにとって、誰かが作る料理の匂いはたまらなかった。

コン、コン、コン!

「おーい、名前ちゃーん」

壁を3回ノックすると、キッチンからガスを止める音が聞こえた。
穴にはいつ付けられたのかスカーフがカーテン替わりになっており、名前が近くを通ると反動で小さくなびく。
はーい、と間延びした返事が聞こえたあとスカーフがサッとどけられ、2人の目線が絡んだ。

「キバナさん、どうされました?」
「おれさま一生のお願いがある」
「な、なんでしょう?」

キバナはあれあれ、と言いたげに自身の部屋と同じ位置にあるキッチンを指さした。それにつられて名前もキッチンを振り返り、合点がいったように笑顔をこぼす。

「あー、なるほど。キバナさんお腹空いちゃったんですね! じゃあごはんにしましょう! タッパーに移して持っていきますから」
「よっしゃー、サンキュー」

よいしょ、と立ち上がった名前はキッチンに向かい、食器棚からタッパーを探しに行った。
10代で家を出てから長らく一人暮らしをしていたキバナにとって、母親以外がキッチンに立つ姿は新鮮。ぼうっと眺めそうになるのをグッとこらえ、まくったスカーフから手を離した。

「はい、キバナさん」

次に穴からにゅっと出てきたのは、名前の手とピンク色の蓋が可愛らしいタッパー。
作りたてだからか、料理からはホクホクと湯気が立ち、それがタッパーをくもらせていた。

「おー、うまそう! 魚料理?」
「はい。お買い物に行ったらニャスパーが魚コーナーから動かなくなっちゃって。今日のメニューはレモンソテーです」
「最高! ひさしぶりにちゃんとメシ食うぜ」

名前は照れ臭そうに笑った。なんたって異性に料理を振る舞うのはこれが初めての経験。
まだ食べてもいないのに喜び勇むキバナのリアクションは、名前の心をむずがゆくした。

「あ、そうだ。名前ちゃん、ワイン好き?」
「好きですよ。飲みたいですか?」
「いや、とっておきの白があるんだ。一緒に開けようぜ」
「嬉しい! ワイングラス持ってきますね!」

キバナは名前がホクホクしながらグラスを取りに行ったことを確認して、キッチンカウンターにしばらく置きっぱなしになっていたワインボトルに手を伸ばす。
これは以前ダンテが行方不明になったとき、捜索に駆り出されたお詫びの品だ。ローズ委員長が見立てたワインだそうで、味に間違いはないだろう。
忙しい性分、なかなかアルコールを楽しむ機会もないため放置されていた。

「本当は今日、友だちと飲みに行く約束だったんだ。でもドタキャンされちまって、危うくオフを棒に振るところだった」
「急に予定なくなると、何しようか分からなくなりますよね」
「でもいい1日になった。名前ちゃんの手料理が食えるし、ワインも飲めるし」
「ヒッ、キバナさん素面ですよね?」