あの日、あの場所に赴かなければ、あの場面で他の隊士に退避を命じなければ、痛い思いをせずに済んだだろうか。父と母が生きていれば……そもそも鬼がこの世に生まれ落ちなければ、きっと私は痛みも知らず、周囲にすすめられるままに結婚して穏やかな家庭を築いていただろう。
しかし、少しでも過去が違ったならば、不死川様に出会うことはなかった。どこかで出会ったとしても、きっとあの厳しさのある言動から、恐ろしい人だと思い込み、近寄らなかっただろう。不器用な優しさも、穏やかな寝顔も、引き締まった身体も……一番最後のものは一旦は端に置いておこう。とにかく、猫として拾われなければ、それらを知ることはなかったのだ。そう考えると、ただの偶然と片付けてしまうのは何だか寂しい気もする。
拾われたことで不思議と始まった共同生活だったが、色々なことがあった。
当初は血鬼術で変えられた見た目のせいで猫扱いをされていた。怪我が治るまで、そう言い聞かせるようにして不死川様は私を側に置いてくれた。不死川様のおかげで案外不自由を感じることなく生活できていた。
一度だけ家出をしたことがあっただろうか。その時に、雨の中連れもどしにきてくれたことで、どれだけ救われただろうか。猫になってしまった私に居場所を与えてくれたのだ。
無茶もしながらなんとか乗り込んだ柱合会議では、私の異変に気付いてもらうことができた。お館様から直々に頼まれてしまったが故に渋々世話をやいてくれるのかとおもったが、不死川様は今まで通り優しさを向けてくれた。寧ろ、中身が女性であることを考慮して、とても配慮の行き届いた対応をしてくれた。
いつしか特別な存在になっていた。それは恐らく不死川様にとっても同じだっただろう。特別な存在になってしまったがゆえに遠ざけようとする不死川様に噛み付いたのも良い思い出だ。実際に唇を噛まれた不死川様にとっては、痛い思い出だろう。
一悶着はあったものの、なんとか上手くおさまった。人間の姿に戻ったならば、不死川様に伝えたいことがあった。その為、猫の姿であっても任務に参加することを決意したのだった。
目の前がうっすらと赤く染まっている。まるで太陽に透かしてみえる葉脈のようだ。視界を晴らしたくて、目を擦ろうとしたが、なぜだか腕が持ち上がらない。
そうだ、私は不死川様の腕の中で目を閉じたのだ。
あの傷では仕方あるまい。どうやら私は死んだらしかった。
──そう、思っていたのだが。
太い梁がめぐらされた天井が視界に飛び込んできた。先程までどうやら瞼の裏を見ていたようだ。部屋には光が差し込んでいた。
布団を捲れば、随分と大きい着流しを着付けられていることが分かった。正しく着せられている着流しの襟元を開き、身体を確認すれば、腹部には包帯が巻き付けられている。包帯でほとんど肌を覆われていて、少しおかしくなって小さく笑えば、腹がズキンと痛んだ。
三途の川を渡った覚えはない。ということは私はまだ生きているということだろうか。確認するために立ち上がり、光が差しこむ障子の方へと足を運んだが、布団に足を取られたのか、身体がつんのめった。
手をついて身体を支えようとしたが、手は障子を突き破り、枠組みごと倒れ込んだ。下敷きになった木枠がバキバキと嫌な音を立てていたが、私は視線を正面からそらすことができなかった。
障子の向こうにあったのは、三途の川などではなくて、見慣れた庭だった。
「……障子破るの何度目だァ?」
聞き慣れた声が耳に届き、パッと顔を向ければ、そこには不死川様がいた。目を丸くしていれば「その顔は猫の時と変わんねぇのな」と笑われてしまった。
何らかの血鬼術にかけられている可能性を加味して、目の前に落ちていた木片を刀のように構える。一歩踏み込もうとしたが、思うように身体が動かせず、再度障子のうえに倒れ込んだ。視界に入った手は、毛もくじゃらではなく、人間のものだった。人間の姿に戻ったことを今更ながらに気づいた。
「予想通りのじゃじゃ馬だったなァ」
不死川様は私の側に腰を下ろすと、腕の下に手を差しこみ、起こしてくれた。猫の時となんら変わらない扱いだが、なぜだか全身が熱くなった。
座った姿勢を保っているのも一苦労で、背骨が抜けたようにふにゃふにゃと床に沈みこみそうになる。寝転がっても良いだろうか。いや、でも人の姿でそのようなハシタナイことは憚られる。うんうんと悩んでいれば、不死川様は胡座をかいた脚の上に身体を横向きにして座らせてくれた。寄りかかれと言わんばかりに手で頭をそっと胸に押し付けられた。素直に従えば、そっと頭を撫でてくれた。
「身体の具合は?」
「……し、なずがわ、さま」
「ん」
ぐしゃぐしゃになった髪の毛にとおされる指は毛づくろいをする時のように優しい。随分と久しぶりに出した声は掠れていて、辿々しかったが、不死川様は短かったものの随分と穏やかな声で応じてくれた。
「水、飲んどけ」
どうやら水を運んできてくれたようで、口元に湯呑みを寄せてくれた。何度かにわけて嚥下すれば、乾いた喉にすっと浸透していくような感覚がした。
「……も、んだいない、です」
「まだ飲むか」
口端からこぼれた水を親指で拭いながら、まだ飲むかと声をかけてくれた不死川様に首を横に振ることで答える。
「……待ってろって言ったろォ。無茶しやがって」
「……すみません」
「血鬼術がとけるのがあと数分でも遅れれば、出血多量で手の付けようがなかったとよ」
私情で飛び出し、役に立つどころか負傷して、不死川様の手を煩わせてしまったのだ。返す言葉もなくて俯いていれば、安堵の息と共に「無事で良かった」と小さな呟きが聞こえてきた。
「怪我治るまで面倒みてやるよ」
「怪我が治ったら……?」
「さぁな、その後は勝手にしなァ」
いつか聞いたことがある台詞だ。怪我が治るまで、ということは、治ったあとはどうなるのか。そう思って恐る恐る聞き返せば、突き放すにしては随分と優しい口調で勝手にしろと言った。
「……そんなこと言ったら座敷童の如く住み着きますよ」
「まぁ、それも悪かねぇな」
脅しのように念押しをすれば、クッと喉の奥を鳴らして笑った不死川様は悪くないと言った。関係性に名前はつけられなちものの、側にいることを許してくれたということなのだろう。それだけで十分だ。
輪郭にあわせて添えられた手にそっと頬を擦りよせれば、目許を柔らげた不死川様が「目ぇ閉じろ」といって顔を寄せてきた。慌てて双眸を閉じれば、唇を押し当てられた。じかに感じる温もりは心地よくて、離れていこうとする唇を追いかけて、つい不死川様の下唇を歯で挟んでしまった。
「おい」
「すみません、つい……」
猫の時の名残だろうか。無意識の行動に自分でも驚いてしまう。猫の身体のように鋭い牙はないため血が滲まなかったのが幸いだ。
仕返しのように不死川様は私の唇を指で挟み、ぐにぐにと揉んだ。「あの」と声をかけようと口を開いた瞬間に、口内に指が押し込まれ、犬歯に触れた。
「噛み癖ついちまったな。こりゃ躾が大変そうで、先が思いやられるなァ?」
「犬扱いはやめてください」
「どっちかっていうと猫扱い」
不死川様はケタケタと笑ってから、恥ずかしさのあまり俯く私の顔を覗き込んできた。羞恥心を刺激するようなわざとらしい口調に、顔が赤くなってしまう。
「散々好き勝手やられたからなァ」
これくらい許せ、といって額に口付けをされれば、犬扱いも猫扱いも同じだなんて突っ込みはどうでも良くなってしまう。
「覚悟はできてんだろうなァ?」
不死川様の手が私の着流しにかかった。どうやらこの着流しは彼のものらしかった。いや、いまそのようなことはどうだっていい。
「さすがに今はちょっと……お腹の傷が開いて悲惨なことになるかと……」
「包帯巻き直すくらいじゃ傷は開かねぇだろォ」
胸元を開こうと動く腕にそっと掴んでほんのすこしの抵抗をする。待ち望んでいたことだし、ソウイウ覚悟はできていたが、いまの状態で身体を動かせば傷口が開く。そう思って待ったをかけたのだが、どうやら酷い勘違いをしていたようだ。
不死川様の表情がにやりと愉しげなものに変わっていく。
「それとも傷が開いちまうくらい激しいナニカを想像したのかァ?」
すけべ、と吐息とともに耳に吹き込まれた。このあと意識を飛ばしたのも、目覚め一番に不死川様から「こんくらい慣れろォ。これからもっと色々すんだからこの程度で根を上げてんなァ」と衝撃の言葉をかけられ、意識を飛ばしたのも、仕方がない。人間に戻りたてには刺激が強すぎた。
「この様子じゃ、ひと月もすりゃ回復すんだろうな。覚悟しとけェ」
「ちょっとよくワカンナイです」
「ようやく猫の姿から解放されたってのに、今度は猫被りか?」
純情ぶってもだめだったようだ。まさか包帯が取れた日の朝から鳴され、高い声をもらすことになるとは。そのような私に対して「猫みてぇだな」と呟いた不死川様の唇に噛みつき、互いに煽りあった結果意識を飛ばし、次に目を覚ました時に目の前にいた胡蝶様に「仲が宜しいのは良いことですが、ほどほどに」と苦言を呈されることになるとは誰が想像できただろうか。……その話はまた別の機会に。