「……おい、どうした、痛むのか」
慌てたような声が聞こえてハッと目の前をみる。私の口元を濡らしたのは血液だった。自分のものではない、不死川様のだ。
手の甲に浮き出た血管に歯が当たったのか、血が滴り落ち、年季が入って毛羽だった畳を赤く染めていく。
──私は何をしているのだ。
沸騰していた身体の中が一気に冷えていくのを感じた。慌てて肉を抉っていた歯を抜き取れば、栓を失った傷からはさらに血が流れ出した。
「落ち着け、大丈夫だから」
まずは止血、いや、その前に消毒を……必死に考えをまとめようとするが、うまく纏まらない。私の混乱を感じ取ったのか、不死川様は抱き寄せ、血に濡れていない手で頭を撫でてくれた。
「全部なんとかする。次に目を覚ました時には全て終わってるから……安心して眠れ」
トクントクンと心臓が静かに鳴る。隊服越しに触れた体温が緊張をほぐし、私はゆっくりと海の底に沈んでいくように意識を手放した。
どれほど意識を飛ばしていたのだろうか。目を覚ました時に不死川様の姿はなく、代わりに宿の女将が側で控えていてくれた。
「止めたんですが、意志の強いお方ですね。貴方のことを私共に頼んでから、それはそれは恐ろしい形相で行ってしまわれましたよ」
女将は骨張った肩をわざとらしくすくめる動きをしながら不死川様について話してくれた。
「全て済んだら迎えに来るとの言伝を預かりました」
ゆっくりお休みくださいね、と穏やかな口調でいうと女将は部屋を出た。
全てが済んだら、ということは不死川様は一人で任務に向われたということだ。
背骨を覆う毛がブワッと逆立った。彼の実力を信用していない訳ではない。かつての私ならば柱が到着してくれただけで安心していたはずだ。しかし今はどうしてもあの頃のように無条件に喜び、安堵することができない。
今の私が向かえば足手纏いになることは目に見えている。しかし考える間も無く、私は宿を飛び出していた。
平坦な道と違って山はただ歩くだけでも疲れる。雪に触れるたびに毛は濡れて重たくなるし。気温も低く、足先からじわじわと体温を奪われ、身体の動きが鈍くなっていく。
地響きのような揺れに心臓が縮こまった。何が起きているのか。状況を理解するために周囲を見渡せば、木々があたりを巻き込みながら倒れていくのが見えた。
……闘っている。真っ白な世界の中でも白銀の髪の毛は煌めいていた。
チリン、チリン──頭の中で響く。脳を鋭く突き刺すような音に、耳を塞ぎたくなった。視界がぐらぐらと揺れ、闇に呑み込まれかのように真っ暗になる。
はじめて車に乗った時のような、腹の中をぐるぐるとかき混ぜられているような感覚に耐えようと歯を食いしばる。本来であれば、歯が擦れる嫌な音がしたはずだ。しかし耳に届いたのは、プツっと何かが破れる音。口の端からぬるい液体がこぼれ落ち、口の中にはむせかえるような鉄の香りがした。
ようやく視界がひらけた時には目の前が赤く染まっていた。
「……なにして」
耳元で聞こえる困惑が滲んだ、掠れた声。不死川様は驚いたように目を見開いてこちらを見ていた。
外套がひたひたと血に濡れていく。私は不死川様の首元に歯を立てていた。太い血管を狙うようにそこに食らい付いている。
ケタケタと耳障りな笑い声がした。鈴の音が耳の奥にこびりついていて、その音が強くなるたびに意識を手放しそうになる。
鬼に操られているのか、身体の自由が効かない。このままでは不死川様を殺してしまう。不死川様の首筋に歯を立て、いまにも噛みちぎろうとしている己の身体をどうにか制御しようと試みるが、顎の力は強まるばかりだ。ギチギチと嫌な音が口の中でこだまする。
「鬼狩り様もお優しいことで」
その優しさが身を滅ぼすのですよ、そう愉しげに言った鬼は身をくねくねとさせて笑っていた。この者が私をこのような姿にしたのだ。そう思うと全身の毛が逆立つのを感じた。感情の昂りと同時に口元に力が入り、さらに牙が不死川様の首に食い込んだ。
鋭い歯が反対側の皮膚を破ったような感覚がした。小さな呻き声が聞こえた。急所を捕えられているという感覚からか、不死川様の首筋や胸元には嫌な汗が滲んでいた。本能でも、理性でも自分の身体を喰らわんとしている脅威を排除するべきだと理解しているのだろう。それでも不死川様は、私の身体を引き剥がすどころか、鬼から私を守るように手を添えてくれた。
「首を噛みちぎられたくなければ、その猫を叩き斬れば良い。簡単なことだろう?」
鬼の目的はこれだったのだ。私を猫の姿にして、操り、不死川様を襲わせた。自分の手は汚さず、仲間同士で殺し合いをさせる。なんとも卑劣な考えだ。
「猫は可愛いが、気紛れでいけない。この子たちは従順で可愛いだろう?」
「……人を猫の姿にして操るとは良い趣味してんじゃねぇか」
この子たち? 誰のことを指しているのか。唯一自由がきく瞳をキョロキョロと動かしあたりを見渡す。
大きさ、色味の様々な猫が、雪に覆われた地面、木の上など私たちを取り囲むようにいた。恐らく全員この鬼によって猫に姿を変えられた鬼殺隊員なのだろう。完全に意識を奪われ、操られているのか獣のように牙を剥き出しにしてシャーと威嚇するような音を出している。
気分が悪いというように不死川様はあからさまに顔を顰めた。
「世のため人の為という免罪符を掲げ、我らを斬る鬼狩り様が優先させるのは、仲間の命か、それとも己の命か……」
ひとり劇を演じているかのように声を張り上げながら話す鬼は、意図的に不死川様を興奮させ、判断を鈍らせようとしている。
雪を散らし、一斉に飛びかかってきた猫を避けた不死川様は、片手で私の身体を支えながら空中で鬼に向かって技を繰り出す。腕を掠めたのか、鬼は余裕が失われた声で「クソ」と悪態をついた。
鬼の意識が逸れたおかげか僅かに自由が効くようになり、私は慌てて口元の筋肉を弛める。栓を失った傷口から勢いよく血が溢れ出す。口元だけでなく鼻先、額のあたりまで血で濡れた。私はどこも負傷していないというのに血の気が引いた。
後方に飛び退いた不死川様は私の頭をひと撫でしてから、そっと身体から引き剥がした。脱いだばかりのほんのり熱を持った外套に包まれ、低木の影に置かれた。
「……テメェはそこに隠れてろォ」
待って──そう伝えたかったが、血の味が広がる口腔内から出たのは情けないほど弱々しい猫の鳴き声だった。
けたたましい猫の鳴き声に、木が抉られ倒れる音、突風の音、敏感になった耳は全ての音を拾い、状況を理解させた。不死川様はたったひとりで闘っているのだ。
突っ張るようにした脚がガクガクと震える。その震えは内臓にまで響いて、身体の芯から揺らすようだった。寒さによる震えではないことは分かっている。私はこの状況が恐ろしくてたまらないのだ。
両親を失ってから鬼殺の道に進み、何年も前線に身を置いてきた。薄れつつあった恐怖心が呼び起こされる。そのような感覚がした。
死ぬことは怖い。しかしそれ以上に怖いのは不死川様を失うことだ。
慣れつつあった四足での歩行だったが、気持ちばかりが前に前にと向かい、脚が追いつかない。必死に走るが無駄な動きが多く、山の上ということもあり酸素が薄い環境で息が上がる。
肉球は痛むし、身体に巻きついた外套が重くて足を止めたくなる。しかし目の前であの温もりが失われるのは御免だ。
猫の群れの中に飛び込めば、操られた猫たちは標的を私に変えた。鋭い牙と爪が迫ってくる。不死川様に向く意識を少しでも逸らせればという思いを持って行った行動だったが、しっかりと役割は果たせたようだ。これで不死川様は思い切り刀を振るうことができる。
目の前が暗くなる。飛びかかってきた猫の爪が腕を引っ掻き、腹の肉を抉った。飢えた獣のように、血肉を喰らおうとする猫たちが次々に覆い被さってくる。必死に這って抜け出そうとするが足に力が入らない。
不死川様はどうなったのか。視認したかったが、傷口は灼けるように熱いのに、身体の芯は凍えるような感覚に捕らわれ、ろくに手足を動かすことすらできない。
風を切る音がした。
「何で出てきた」
のしかかっていた重みがなくなり、視界が明るくなった。冷たい風が吹き付けたが、すぐに温もりに包まれた。不死川様が抱きしめてくれたのだ。
腹は燃えるように熱く、心臓がそこにあるのではと錯覚するくらいにドクドクと血液の流れを感じた。あたりを見渡せば首を切られた鬼が塵に変わり、操っていた鬼が切られたことにより猫たちは意識を失ったようで、雪の上に横たわっている。
「勝手にくたばんな」
散り散りになってしまうのではないか、という恐怖を覚えるほどの痛みと熱に襲われる私の身体を不死川様は必死に掻き抱いた。
まるで自分が傷を負ったかのように目元を歪めている。身体からは刻々と体温が失われていく。血を流しすぎたようだ。鬼殺隊に入り、多くの仲間の最期を見届けてきた不死川様ならば、もう手の施しようがないことくらい分かっている筈だ。死にゆく私のことなど捨て置いて、どこかで助けを求めている人の元へ駆けてくれれば良いのに。しかし首元には不死川様の息がかかる。
「……あ、りがとう」
必死に動かした口からは意味を持つ音がこぼれたような気がした。人間に戻ったら伝えたいことも、尋ねたいことも沢山あった。しかし、それが叶わないのであれば、どうか心優しい不死川様が傷つかないよう、気に病まないよう、私の想いが伝わりますように。
幼い頃は父と母に挟まれ、眠りについたものだ。誰かの腕の中は落ち着く。次第に視界がくもり、次に痛みが遠ざかり、ついには音が消えた。深い海の底に沈み込んでいくような感覚がした。遠ざかる世界に怯えずに済んだのは、きっと不死川様の温もりが最後まで私を包んでくれていたからだ。