「不気味だね」



ゴクリと生唾を飲む。わたしは息を殺して、聞こえてくる会話に耳を澄ましていた。



「何もないの? あれから?」
「しゃけ」



曲がり角。その廊下の窓から差し込む強い日光が、影の中にいるわたしの直ぐ近くにまで迫ってきていた。

五条さんの声は不機嫌そうだった。狗巻くんの淡々とした返しの後、五条さんはまだ不満そうに「フーン」と鼻の奥を鳴らす。次には、打って変わったように声を弾ませて言った。



「絶対に何かしてくるはずだ」



それは強い確信の響きを孕んで、わたしの耳へと届く。

どくん、どくん、と脈打つ音は力無く、震えているようでもあり、体の先の方からすっと温度が引いていく。

彼らの言葉が何を指しているのか、分かるようで、分からなかった。「ちゃんと目を光らせておくんだよ」と聞こえた五条さんの声に、狗巻くんがこくりと頷いた、そんな気がした。







狗巻くんと買い物をした次の日には部屋に携帯電話が届いた。差出人は不明だが、おそらく五条さんだろうと推測する。

黒色のスマートフォンは既に設定なども済ませてあって、どこかで見たことあるなあと思っていたら、狗巻くんと同じ機種だった。

緑色のアプリをタップすれば、タイミングよくスポンと軽快な音を立てて通知が入る。


「棘も友達登録しておいたから連絡してみてね」


何かを企んだ五条さんがニヤリと笑みを浮かべる。そんな様子がありありと想像できて、わたしはその人がここに居るのでは、とひとりきょろきょろと部屋を見回してしまった。






『スマホ届いたよ。五条さんが狗巻くんを登録してくれてたみたい。よろしくね』
『よろしく』


狗巻くんとの会話を見ては、つい頬が緩んでしまう。
五分も満たないうちに届いた返信は簡素なものだったけれど、普段の彼からは聞けないおにぎりの具以外の言葉が返ってくるのは何だか面白かった。


『昨日はごめん』
『大丈夫だよ。片付けしてた』
『今日は13時に寮門前で』
『わかった!』


今朝届いたメッセージ。
昨日は狗巻くんが用事があったみたいで、今日はわたしに付き合ってくれるらしい。五条さんに頼まれているとはいえ、ここのところずっとわたしに付きっきりで狗巻くんは大丈夫なのだろうか。多分報告とかしないといけないだろうから、自分の意思でどうこうできるものではないのだと思うけど。それはそれで少し物悲しい。




「あ、パンダさんだ」
「よう」
「ツナマヨ」


寮の玄関には既に狗巻くんがいて、パンダさんと二人で話をしていた。わたしだけかもしれないけれど、パンダさんを見ると気分がほんわかと和む。


「そういえば今日はあれの日だったな」
「しゃけ」
「?」


彼らが行くままに着いていけばそこはいつかの校庭だった。しかし前とは違う点が一つ。そこには先客がいた。


「転ぶな憂太! もう一度だ!」
「はいっ」


女の子が何か物騒な武器を持って、男の子を扱いている。

部活だろうかと過った考えはすぐに消え去った。その域を軽く超えた激しい立ち合いは、おそらく呪霊と戦うための練習なのだろう。そう考えて、わたしは少しこの学校に適応し始めたかもしれないと思う。


「こんぶー」
「お前らーナマエが引いてるぞー」
「へ?! わたし?!」


パンダさんの呼びかけに、誤解を与えないかヒヤヒヤしつつ、彼らの元へ向かうためグラウンドに入る。すると、二人はそれまでの動きをピタリと止めて、こちらをギロリと睨みつけられる。主に女の子の方の睨みが鋭くて、思わずうっと身じろぐ。引いてない、と言えば嘘になるだろうか。嫌な汗が背中をつうと流れた。この空気はわたしがどうにかしないといけないのだろうか。

刹那、女の子の表情がすっと消えた。


「ふーん、お前が例の」


例のとは。狗巻くんを見やったけれど、彼はずっと前を向いていて、わたしのほうを見てはくれなかった。

まるで幻を見たかのように次の瞬間には元の様子に戻って、彼女は呆れたように息をつくと、パンダさん達に言葉を投げかける。


「何か用か」
「ま、一応紹介しとこうと思ってな」
「すじこ」


四人の顔が一斉にこちらを向く。
いや、正確には三人と一匹のパンダ、なのだけれど。

雰囲気のある人たちに注目されると居場所がない。それに紹介ってわたしのことだったのか。もう既に彼らはわたしのことを知っているようだったけれど。口を開こうとしたら狗巻くんから手で制される。


「こっちの怖い方が禪院真希な」
「よろしく」


長刀を背中に抱え直す禪院さんはすらりとした美人さんだった。長刀を持つ姿がよく似合っていて、なんだか見惚れてしまう。

わたしも、よろしくと名前を呼ぼうとしたら「真希と呼べ」と重ねて命令が下される。名前呼びを強要されるのは少し意外だなと、若干狼狽えていれば、隣から「真希さんは苗字が嫌いなんだよ」と耳打ちをされた。そこには柔らかく微笑む男の子がいた。


「僕は乙骨憂太。よろしくね」


よろしくと、わたしは言っただろうか。
喉は引き攣ったように金切り音を上げた。

そこには、暗くて深い悲痛な闇があった。

幾重にも並ぶ鋭く長い牙が目前に迫り、視界の隅には同じく鋭利な五本の爪がわたしを取り囲む。少しでも動けばその研ぎ澄まされた刃に皮膚を貫かれる。悍ましい恐怖がわたしを支配する。

その中心に彼はいた。
先程と変わらない微笑みを称えて。




「里香ちゃん」




それを合図とするように、わたしはその場に崩れ落ちた。

咄嗟に伸びてきた腕は狗巻くんか。いろんな声が遠くから聞こえてくる。足に力が入らないのは後を引く恐怖の所為か。わたしの体はわたしのものではなかった。まるで別の何かに自由を奪われたように。

一体わたしは、彼の何を見てしまったというのか。
恐る恐る視線を上げた先に、乙骨憂太と名乗った男の子がいる。


「ごめんね、里香ちゃんが」


と、慌てるように差し出されるその手を見て、もう一度顔を上げれば、そこには心底申し訳なさそうに眉を下げる彼がいて。

もしかしたら、わたしは白昼夢でもみていたのではないだろうか。

そこでようやく、わたしは自分自身と落ち着きを取り戻したのだった。

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