「それは特級過呪怨霊 "祈本里香" だね」
五条さんは教卓に軽く体を預けて、腕を組み直した。
夏の蒸し暑さを嘲笑うように、この人は今日も黒い長袖の服に身を包んでいる。
特級過呪怨霊。
乙骨憂太に取り憑いた呪霊。あの時、グラウンドでわたしが見たのはそれらしい。
今思えば、彼女から感じたのは威嚇みたいなものだろうと思う。恐ろしく怖い姿だった。いや、怖かったのはもっと抽象的な、心の奥底にまで侵食してくるほどの酷く支配的な歪み。そんなものに取り憑かれて、なぜ乙骨くんは飄々としていられるのだろう。
「それでナマエ、君は大丈夫だったの?」
「わたしは、大丈夫というか、足がすくんでしまって」
「ふーん」
「……」
乙骨くんは何度も謝ってくれた。それは一応の被害者であるわたしも遠慮してしまうほどに。本当に優しい人なのだろう。かなり心配してくれていた。
心配、といえば、狗巻くんも様子がおかしかった。
あの後、平謝りする乙骨くんとの自己紹介もそこそこに、わたしは彼に手を引かれ、気がつけば寮の部屋に戻されていた。
狗巻くんは始終むすっとしていて、懸命に話しかけても「おかか」の一点張りで。連れられてゆくわたしの後ろで三人から何となく呆れられているのを感じて、わたしは困惑するしかなかった。
「気になる?」
「えっ」
咄嗟に「何がですか」と聞けば、五条さんは「祈本里香に決まってるじゃん」と、キョトンとして言った。
そして、わたしは自身の勘違いを悟られないよう慌てて言葉を探す。びっくりした。狗巻くんのことかと思った。
「気にならないといえば嘘になりますが……もう、平気ですし」
「そう? また何かあったら言ってね」
はあ、と生返事を返す。思ったよりあっさりと引き下がられて少し拍子抜けしたというか。特級過呪怨霊という響きは何とも物騒だなあと思うし、これから乙骨くんに会うたびに彼女のことを気にかけなければならないのかと思うと多少気が重い。
「あ」
「あっ」
五条さんに教えてもらった一年生の教室で、五条さんに押し付け、いや、頂いた本を何となしにパラパラとめくりながら眺めていれば、ガラリと教室の扉が開かれる。
そこにいたのは件の乙骨くんだった。
あまりのタイミングの良さに、五条さんが差し向けたのではないかと疑いの念を抱いてしまうのは仕方がないと思う。それを汲み取ったのか、乙骨くんは苦笑しながら教室に足を踏み入れた。
「何だか、ミョウジさんももう高専の一員みたいだね」
「ハハ…」
それは何というか、嬉しいような、嬉しくないような。
わたしはただ滞在させてもらっているだけだから、一員とはちょっと違う。ここに来てからもう九、十日ほどになるだろうか。意識を失っていた間を除けば七日間。一週間とは長いような短いような。
「今日は狗巻くんはいないの?」
「午後からお仕事だって」
「そっか」
彼はわたしの座っている席とは別の席に腰を下ろすと、身体をこちらに向けた。何読んでるの? と聞かれてわたしは表紙を確認する。…妖怪…大百科。わたしが呟くのを聞いて、乙骨くんはハハと静かに笑った。
「何読んでるのか分からずに見てたの?」
「うん……興味なくて」
そうだよね、と乙骨くんは小さく肩を顰めた。僕も最初はそうだったから、と。
五条さんから聞いた。乙骨くんも最初は別の高校に通っていて、この学校には編入してきたらしい。先の里香さんのことがあったから。
ふと、わたしと乙骨くんは似ているのでは、という思考が頭を過って、すぐに否定する。何を考えているんだわたしは。そもそもわたしはここの生徒ではない。
それに彼はわたしとは明らかに状況が違う。言ってしまえば、わたしは巻き込まれた側であり、彼は、取り憑かれたとはいえ、既にそこに立つ側の人間だった。
チラリと乙骨くんを見やると、彼はにこりと人好きのする笑みを浮かべた。
「ちなみにそこ、狗巻くんの席だよ」
「エッ」
先程の浅はかな考えは吹っ飛んでいった。わたしは思わずガタリと立ち上がって、慌ててまた着席する。よくよく思い出せば、あの後五条さんが流れるように勧めてくれたから取り敢えずここに座ったのだけれど、そういう魂胆か。
というか、待って。そういうことは。つまり。……どういうこと?
目の前がグルグルしていると、ふと空気が揺れるような感覚に違和感を覚えて、なんだかわたし達の他にもう一人がいるような妙な気配を感じた。
「ゆ" うだァ」
咄嗟にビクリと身体を身構える。
気がつけば、例の彼女が乙骨くんの後ろに現れていた。
この間よりは小さく抑えられているけれど、さすが特級と言われるものというか、よく知らないのだけれど、その得体の知れなさと飲み込まれる緊張感にゴクリと唾を飲む。
彼女は乙骨くんに縋り付いていた。
「ぞ、ぞの女、ぎ、ぎらい"」
「こら、里香ちゃん、勝手に出てきたら駄目だって」
「い、い"や"、ゆ"うだァ」
「里香ちゃん」
乙骨くんが彼女を宥める。
そんな、命の危機といっても過言ではない状況なのに、わたしは別の意味で混乱していた。
そこには「ゆうた」「憂太」と乙骨くんにぎゅっとしがみつき、懇願する女の子がいるようだった。
わたしはゴシゴシと目を擦って、もう一度それをじいと見つめる。やはり、そこには特級過呪怨霊などいない。幼さの残ったきれいな顔立ちの女の子がいるだけだ。
そのあまりにも哀れな姿に心が痛んで、わたしは咎める乙骨くんを止めた。
「乙骨くん、もういいよ」
「えっでも……大丈夫?」
「うん」
困惑する乙骨くんに笑いかけ、もう一度彼女を見やれば、ギロリと睨みつけられる。けれど、この女の子も涙を浮かべた目でそんなに乙骨くんに縋って、一体この子に何があったというのか。
いっそ殺してくれと、叫びたくなるほどの苦しみや悲しみを、こんなに小さな子が抱いている。わたしは何故か彼女と出会ったあの時の自分と彼女の心境とを、無意識に重ね合わせていた。
その艶やかな髪の毛に、そっと手を伸ばす。
「もう、大丈夫だと思う」
気がつくと彼女は消えていた。
おそらくこの先わたしの前に姿を現すことはないだろう。理由は分からないけれど、わたしはそう確信していた。
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