みずみずしい若草の香りが鼻腔を掠めた。
ゆっくりと瞼を上げると、木の葉の隙間から光の粒がキラキラと輝いていて、わたしに降り注いでいた。

とても、長い夢をみていたような気がする。
もう何も思い出せない。けれど、わたしの中に、じんわりと染み渡るような余韻が残っていて、確かにそれはあったのだと自らの存在を主張していた。それはまるで、初めて人の優しい部分に触れた時のあたたかさや、初めて感動を覚えたときの微かに打ち震えるような心の機微に似ている。なんだか無性に悲しくなって、目尻に滲んできた涙をそっと拭った。

重たい身体を持ち上げれば、地平線まで何もない若草色の大地が広がっていた。そのはるか遠くの方からやって来た風が、わたしを追い抜いて通り過ぎてゆく。それは当初ふわりと頬を撫でていたが、まるで迫りくる追っ手から必死に逃げるようにどんどん強さを増して、耐えきれず咄嗟に地面に手をついた時、

どぽん

と、地面にのめり込んだと思ったそこは、深海の濃い青に染まる水の中だった。小さな泡がゆらゆらと踊りながら白く輝く水面へと昇って、わたしを置いていく。伸ばした自分の手の影が顔にかかって光を遮って、声は気泡となってぼこりとわたしの代わりに浮上していった。それを呆然と見つめながら、わたしはもがくことも泣くこともできずに、ひとり深い海の底に沈んでいく。





「やあ」




木漏れ日でも水面でもない、白い天井だった。ぱちぱちと瞬きを何度か繰り返してみたけれど、何も変わらない。ゆっくり顔を動かすと、そこには雪みたいに繊細な髪をもつ男の人がいた。

長い足を組んで完璧に微笑むその姿は、まるでそのように作られた彫刻のようだった。
とても綺麗な人。あの白い髪の毛は染めているのだろうか。それともアルビノなのだろうか。
ぼうと見つめていれば、突然その口元がにこりと弧を描いたので、びくっと飛び跳ねた心臓の反動か、肩がぴくりと震えた。

お互いに無言の中で流れる空気がなんだか気まずくて、直ぐにその人から視線を逸らす。リネン、壁、床、全て清潔な白色で統一された部屋。ここは病院なのだろうか。

窓辺から強い日の光が差し込んでいた。青々と色づいた濃い枝葉が気持ち良さそうに風に揺られている。
遠くから蝉の鳴き声が聞こえてくれば、そういえば今は夏だったな、なんてふとそんなこと思い出した。

でも、やっぱり気になってその男性をちらりと窺い見ると、その人は何をするでもなく膝に肘をついて、わたしと同様にのんびりと窓の外を眺めていた。
顔の角度が変わっても、やっぱり綺麗な人は綺麗だった。もしかすると、天使か、またはそれに準ずる尊い存在か。もしそうならここは天国ということになる。輪っかと羽根があれば完璧。



「…………」



とは言いつつ、どこかチグハグな印象を受けるのは、この人が喪服のように真っ黒の洋服を着ているからだろう。上は首元、下は足の先まで、黒の絵の具を何度も重ね塗りしたみたいな漆黒の服。そういえば、絵の具の黒色って使い切った試しがない。

そして最も奇妙な点が一つ。それは、その男性の顔に目元を覆い隠す黒い布が巻かれていることだ。
見た目は一瞬怪我をしているのだろうかと不安になるのだが、見れば見るほどそれは眼帯でも包帯でもなく、ただの布だ。良く言えばミステリアス、悪く言えば少々不気味な雰囲気。どちらにせよ、気味が悪いことは確かだ。

どうしてか心が落ち着かないのは、この人が美人だからという理由ではない。そうすれば、完璧な造形の微笑さえも、貼り付けられた仮面のように思われてきて、わたしはその人と少しだけ距離を取るように、シーツを引っ張りつつ身体を縮こませた。

じいと食い入るように観察していれば、その人は気がついたのか気がついていたのか、少し顔を傾けて、ゆったりと弧を描くその薄い唇を開いた。



「僕は五条悟。ここで高校の教師をしてる」



五条、悟。高校の教師。イメージに合わない、明るいのに重さのない声。本当に目の前の人の方から聞こえたのだろうか、と耳に入ってきた言葉をもう一度自分の口の中で唱える。わたしは少し動揺していた。

仮にそれが本当だったとしても、さらに疑念が深まるばかりだ。わたしの学校にこんなに目立つ先生がいたら覚えているはずだし、なぜ病院に学校の先生がいるのかも謎。それに、人を見た目で判断するものではないが、全く教師っぽくない。

詐欺師。誘拐犯。一抹の犯罪要素が脳裏を掠めて、つうとと背筋に嫌な汗が流れる。その人の微かな動向を逃すまいとじっと目を逸らさないでいれば、何を思ったのか、男性は微笑みを更に深くする。

ザワザワと葉音がさざめいて、白いカーテンがふわりと大きく舞い上がる。しかしそれは役不足で何度かくるくると翻ると、隙間から入り込んできた風がぬるりと部屋を抜けていった。





「……」
「……そうですか」



まあ、そういうことにしておこう。

なんだかひどく疲れていた。もうなんでもいいや。再びベッドに背中を傾ければ、その柔らかさの中に体は沈み込んでいった。特にこちらに危害を加えるつもりがないのなら、もう一眠りほどさせてもらいたい。わたしは呑気だった。


ゆっくりと深呼吸すれば、ツンとした薬品の混ざった匂いが鼻を抜けていった。何ら不思議なことはなくて、わたしにとって今は緩やかな時間の流れるただの昼下がりでしかない。次に目が覚めたときは、また違う場所にいるかもしれないなあ、なんて。何だかまだ夢心地で、この世界は現実感に欠けている。ゆっくりとわたしは視界に幕を下ろした。

こんな夏らしい陽気には、若葉の原っぱにごろんと寝転んで、昼寝をしたらめっぽう気持ちがいい。
だけど、そこはすでに炎に囲まれていた。

突如、夜の暗闇を映す網膜に、打ち上げ花火のような強烈な閃光が焼き付く。





ーー"起きろ"ーー





突然飛び起こされたわたしの身体から、意思とは関係なしにドクドクと血液が送り出されていた。眩しさに目がくらむ。段々と輪郭を取り戻していく視界の隅で、その人が何かを言っていた。遠くの方から段々と近づいてくる五月蝿い蝉の音に混じって、声が脳へと伝達されていく。



ーー君は
生かされたーー



ドッと出てきた汗で、身体に病衣が張り付いて、気持ちが悪かった。真っ赤な光景がまだ瞼の裏に焼き付いている。

まるで危険信号を鳴らしているようだった。絶え間なく心臓が鼓動を打ち続けるそれを何とか鎮めたくて、わたしはぎゅうと胸元を押さえつける。

起きろ。目を覚ませ。脳裏を掠めた声は、一体。




「だれなの……」




何かを忘れている。それはとても大事なことであるはずだった。一番大切で、最も必要で、到底忘れられるわけがない事であるはずなのに、何故か思い出せない。



「ッ……」
「まあまあ、落ち着いて」



へらへらと笑って、気休めの言葉をかける割には手も貸そうとしない五条悟と名乗るこの人が、ただ一介の教師であるはずがなかった。わたしはそのことをずっと昔から知っている気がした。



「わ、たしは…」
「君はミョウジ」



闇夜に燦然と輝くお月様のように、その人の髪の毛がキラキラと輝いていた。



「ミョウジ家のナマエだね」




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