その日、わたしは電車に乗って遠くへ行っていた。
夏休みが始まった7月21日、早朝。
薄暗い朝焼けに世界が染まり始めた頃、茶色いローファー片手にわたしは町を出た。
じりじりと照りつける日差しと、汗で張り付く制服が気持ち悪かったのを覚えている。幻惑のような陽炎が漂い、気が遠くなるほど景色の変わらない道のり。辛うじて補正されたような雑草の蔓延った道路を、ひとり延々と歩いていた。
退廃した世界でたったわたしだけが生き残されたような気分だった。この先に目的なんかなくて、ひたすらにただずっとこの道が続いているような気がした。顎から滴る汗を拭って、一歩を踏み出す。この瞬間だけは、わたしは生に縛られたこの世のしがらみを全部忘れられる。
道路の舗装は砂利道となり、心配していた別れ道もあまり迷うことなく進めて、ほっとした。そうして、草むらに現れる森への入り口は、他の人には分からない、わたしだけが見つけられるような秘密の隠し通路だ。
その先はさっきとは打って変わって、まるで手入れされたように陳列する木々の並ぶ森の中。昔と全く変わらない。最後に祖父と来たのが小6の時だから実に3年ぶり。
大きく深呼吸をしてみたら、澄んだ空気とひんやりとした木陰の心地良さに、殺伐とした心はゆっくりと癒されて、まるで浄化されていくみたい。
不思議な空気が流れていた。森というほど鬱蒼とはしておらず、林というには終わりが見えないほど広すぎる。幹の細い木々はそれぞれを思いやるように距離をとって生えていて、そのおかげでわたしは歩きやすい。
広葉樹なのか落葉樹なのか、地面には少しだけ葉っぱが落ちていて、その柔らかな土を踏みしめるとじんわりと水分が染み出す。湿っているのは木の葉で地面まで十分な光が届かないからだろうか。
空を仰げば、玉のような木漏れ日が降り注ぐ。
そしてこの木々を抜けたその先に、わたしの目指していた場所がある。わたしは一際輝く出口を見つけると、一目散に駆け出した。
緩やかに傾斜を描いて、濃い緑の地平線が伸びていた。足元には野花や小さな草が夕陽を受けてキラキラと揺れている。朝焼けとは違う神秘的な黄昏の空が、新緑の大地を鮮やかに色づけていた。
これで報われる。わたしはこの瞬間のために生きているのだとも思えた。運動場一つ分くらいの小さな原っぱは、春の陽気に裸足で歩いたらとても気持ちが良い。祖父が残してくれたわたしの秘密の場所。
その中心には一本の樹木が取り残されたように佇んでいた。わたしは運動靴を脱いで、そのまま静かにそこへ歩み寄る。人ひとりが木陰に入れるほどのその木は、ちょうどわたしが生まれた時に新しく植え替えられたのだと聞いていた。
焦茶色の樹皮に手を添えれば、ゴツゴツしていて、まだ少し軟らかい。だけど瑞々しい生命力に満ち溢れていた。お前はこれからもっと大きくなる。見上げれば、精一杯伸ばされた枝葉の傘に覆われて、夕陽を反射した葉っぱがよそ風に攫われてきらきらと舞い踊っていた。
根元には、悪戯に置かれたようなぽつんと積まれた石があって、その下に祖父が眠っていた。わたしは持ってきたローファーを履いて、くるりと回ってみせる。祖父の弔いに高校生の制服姿で来てあげたのだ。運動靴では締まらない。
ここはずっと変わらないと信じて疑わなかった。
そんな希望をあざ笑うように、全ては奪い去られてゆく。
「あ……」
黄金色の大地は一瞬にして真っ赤に染め上がった。
燃え盛るのは夕陽だと思った。地平線の向こう側まで、まるで波が打ち寄せるように火の海は広がった。青々と茂っていた豊かな森は既に紅に包まれて悲鳴をあげるように上空へと火の粉を飛ばす。
いつの間にか空は真っ黒に塗り潰されていた。夜になれば一面の星空が望める美しい景色はそこにはなかった。
何度瞬きをしても変わらない。灰が沁みて涙が滲む。見渡す限り、全てが炎と煙を上げて燃えていた。わたしは呆然と、ただ立ち尽くすしかなくて。
「ッ!」
ぱちっと炎が弾けた。空から舞い降りてきた火の粉が、手のひらに乗る。その瞬間それは灰となって、はらりと砕けて消えた。一体何が起こっているというのか。手のひらに残る小さな残骸を、ぎゅっと握りしめる。唯一、大切なものが失われていく感覚が、わたしの心中を掻き乱していた。
じりじりと表面から炙られていたように、気がつけば先程の暑さとは比べ物にならないほどの熱気に包まれていた。汗で濡れた制服は再び熱に乾かされて固くなっていた。酸素が薄いのか浅い呼吸でもままならない上に息をすれば喉が焼けるような痛みを伴う。
山火事だ。それも一瞬で。
いや、湿度の高い日本の真夏に果たしてこんな規模の山火事が起こるだろうか、と考えてふ、と意識が飛んで地面へへたり込む。酸素が足りないのだ。このままわたしは死ぬのだろうか。
炎に照らされた地面に黒い影がゆらゆらと揺れていた。それは目の前のこの木から伸びた影だった。今はまだ燃えてないけど、このまま火の粉が降り注げばどうなるか分からない。それはわたしも同じだった。怖い。まだ死にたくない。熱いのに芯は冷えてゆくようで、えも言われぬ恐怖に体が震え出す。
ふと何かの気配を感じて背後を振り返る。
炎に包まれた森の中、そこにある一つの黒い影。
ドクンと心臓が大きく跳ねる。森から逃げてきた動物かといった考えは直ぐに打ち消された。ここで動物を見たことはない。それに影は明らかに人ような形をしていた。ゆらゆらと揺れるそれは、森を出た後も炎の映すシルエットとなってこちらに近づいてきていた。
身の危険を感じた。わたしは咄嗟に立ち上がった。
「だれ……!?」
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