昼顔





 楓お兄ちゃんの写真は、いつも花束みたいだった。
 携帯のカメラとかデジカメみたいなちいさいものじゃなくて、あちこちがごつごつしている兵士の武器みたいなカメラを構えて、楽しそうにお気に入りの景色やお兄ちゃんたちを撮る。黒々としたレンズに他人を映すとき、被写体に選ばれるのは祐樹お兄ちゃんが一番多い。そこには特別な意味もあるのかもしれないけど、瞳お兄ちゃんは「写真じゃないほうが俺の顔は良い」と言うし、わたしも常日頃肌に痣がのたうっているので、消去法的にもそうなってしまうんだと思う。
 でもたまに、わたしのことも写真におさめてくれるときがある。楓お兄ちゃんはわたしを撮ると大体すぐに「どう?」と画面をかたむけて、撮ったばかりの画像をみせてくれる。左のほっぺがはれてる日は右側から、喉にきたない痣があるときは上から、お兄ちゃんの撮ってくれる角度にはきっとこまやかな計算とか考えがあって、写真の中のわたしはいつもきらきらしてみえる。わたしじゃないみたいに。


「お、葵じゃん」
 衣替えをしてすこししたころ、街中で楓お兄ちゃんと会った。
 行事の関係で四時間授業の日で、給食もないからまさか会うことなんてないと決めこんでいて、リンドウの匂いにも気づけなくて、自分でも思ったよりうかつな表情をしていた気がする。
 声をかけてきたお兄ちゃんは、顔をあげたわたしがちょっとしょぼくれた目をしていたことに気づいたらしい。膝を折って「どした?」とやさしく問いかける。まわりを軽くみても、瞳お兄ちゃんも祐樹お兄ちゃんもいないようだった。
 ランドセルのベルトを握りしめて、ゆっくり言葉をさがす。

「……なんでも、」
「ほんとに? なんでもない?」
「……な、く、ない」

 途切れ途切れに文字を発するたび、自分の顔がくしゃくしゃとゆがんでいくのがわかる。楓お兄ちゃんはやさしい顔で笑っていて、はじめて逢った日と同じ笑顔をしていた。その顔をみると、丁寧に積みあげていた虚勢が崩れていく。つみきを蹴飛ばすようにあっけなく、乱雑に心が散らかる。
「……わたしがきたないから、写真にいれたくないって」
 秋の遠足前のグループわけ学習があって、卒業アルバムにいれるための写真を撮るタイミングがあった。前々からきょうのその時間にカメラマンさんが来ることはきいていて、きのうまで誰にも、特別なにも言われたことはなかった。わたしだってべつに、写真の中央にはいりたいと思ったことなんてない。遠足のグループだって仕方なさそうにいれてもらっていたし、隅のほうでじっとしていた。
 わかっている。
 痣や傷がたくさんあるこどものほうが、すくないこと。
 遊んだせいで出来たわけじゃない傷をたくさん持っていたら、必然的に景色から浮いてしまうこと。
 多くのひとが、それをきたないと思うこと。
 体育の授業でもペアを組んでくれる子はいなくて、怪我も多いわたしはしかたないからほとんど見学をしていて、音楽でも図工でも国語でもなんでもそうで、学校にもわたしがいていい場所はない。
 それがなんだか、息苦しくて。
 ちょっと前は、こんな気持ちなんてわかなかったのに。

「そんなこと言われたの? 誰に」
 どんどんうつむいてしまうわたしの頭を撫でて、楓お兄ちゃんは質問を重ねる。「……クラスの子、たち」名前も顔もわかるけど、まともに話したことは誰も彼もない。話したことがない子たちにすら、わたしは嫌われ疎まれていた。教室のまんなかで起きるブーイングはカメラマンさんを困らせてしまって、わたしはおなかがいたいからと保健室にこもっていた。先生はこどもたちのブーイングもわたしの申し出も「あぁ、うん」と受け流すだけで、なにも言わない。
 楓お兄ちゃんの顔をうまくみれなくて、まばたきを繰り返す。
 ぎりぎりと喉が詰まる。浅い息が鉛のように重たい。
「わたし、……わた、し……」
 わたし、ほんとうは。
 学校にも、いたいわけじゃない。
 口に出したらもっと胸が苦しくなりそうで、ぐっと唇を噛む。家にもいたくないのに学校にもいたくなかったら、わたしがいれる場所なんてどこにもない。わかってる。わかってるもの。
 どこにもいたくないからといって、どこにもいないわけにはいかないこと。
 楓お兄ちゃんがぽんぽん、と頭を軽く叩く。「そっかあ」とつぶやきながら、わたしがつけているリボンのねじれを軽くなおして、腰のあたりをひょいと抱き上げてくる。あんまり突然抱き上げられて、きょうは足が動かせないこともまったくないので、わたしは目を白黒させてお兄ちゃんをみた。
 向日葵みたいにまぶしい笑みを浮かべるお兄ちゃんと、目があう。

「じゃあ、俺と写真撮りにいこっか」


 手を引かれて行った先は、いつもの公園よりすこし歩いたところにある、川沿いの並木道だった。地元では知られた桜の名所らしくて、睦月が携帯で撮った写真をみせてくれたことがある。桜の枝が川の上にアーチを描くみたいに広がっていて、ちょっとした絶景、と呼んでかまわないうつくしさだった。本物をみたことはないけど、川に向かってのびている枝が揺れているのをみるだけでも、このすべてが花咲くんだとわくわくした。新緑の季節には劣るだろうけど、葉っぱを風に泳がせている木々はきれいだ。
 基本的には柵があって上からながめるしか出来ないけど、一部だけ階段をおりて川にはいれる箇所があって、楓お兄ちゃんはそっちへわたしを連れていった。水曜日のお昼過ぎだからか、人はほとんどいない。ベビーカーを押すおかあさんとか、おじいちゃんおばあちゃんとかが並木道を歩いていくだけだ。川にはいれる開けた場所は、ランドセルを背負ってぼうっとしてるわたしと、カメラを構えた楓お兄ちゃんが占拠している。

「ほら、貸してみ」と言われるがままにランドセルをおろしてわたすと、お兄ちゃんがカメラをわたしに向けて、にこっと首をかしげる。
「今日はかわいいきれいな葵をいっぱい撮ります。はい、まずはそこ座ってえ」
「う、うん」
 川を眺めるのにちょうどよさそうな位置の、ところどころがささくれている木製のベンチに腰かけて、お兄ちゃんのほうを向く。所在のない手を膝において背筋をのばすと、お兄ちゃんがぶはっと吹き出した。
「あっはは、かたいかたい。撮られる! って顔めちゃくちゃしてるじゃん。ゆっくりしていいよ」
「う、ん……」
 いざ、撮られる、と思うと、どうにも肩肘がこわばってしまう。深呼吸をしながら川に視線をうつすと、ちょうど鳥がどこかの枝から羽ばたいた音が聞こえて、注意がそれる。翡翠色の羽を優雅に動かす鳥が、視界に一文字をひいて、細い枝にとまった。

 ぱしゃ、

 と、横顔に音がふりかかって、すぐそこにいるひとのことを思い出す。楓お兄ちゃんがなにか言うよりはやく、わたしは鳥を指さして「みて、かわせみ!」と叫んだ。
「あれカワセミって言うの?」
「うん、あの、ひすいって書く鳥。こういう……」
 ベンチからおりて、近くに落ちていた枝で平らな石をこすっていく。不恰好に書かれた『翡翠』を覗きこんで、楓お兄ちゃんは「難しい字知ってんね」と破顔した。頭をわしわし撫でられて、頬があたたかくなるのを感じながらわたしも笑った。
「翡翠色の羽だから、翡翠って書いて、かわせみなんだって」
「へぇえ」
「かわせみ撮ってほしい」
「え、鳥かあ。難しいんだよな……」
 撮れるかな、とつぶやきながらカメラを構えたお兄ちゃんが、レンズを覗きながら「あれ、どのへんにいたっけ?」とわたしに目配せする。わたしは意気揚々と目をこらしてかわせみをみつけると、水面に点々と顔をだしている石にジャンプして、靴が濡れないよう川の上をわたった。お兄ちゃんにわかりやすそうな川の真ん中で立ち止まって、「あのね、あそこ!」と枝をさすと、わたしの声に反応したのか、かわせみがバタタッと飛び立ってしまう。
 あっ、と羽を追うように無意味な手をのばそうとして、丸い石の上を靴底が滑る。体がぐらりと揺れてかたむいたところを、手首を掴まれてふんばった。ふんばったのはわたしじゃなく、お兄ちゃんの手足だ。わたしは手綱をぴんとひっぱられた犬のように、呆然と、楓お兄ちゃんをみつめていた。
「あ、ぶな……」すこし緊張した声でつぶやきながら、わたしの手首をしっかり握るお兄ちゃんの掌は、どくどくと脈打っている。首からさげたカメラが走った名残を感じさせるように揺れていて、持っていたそれを手放し慌てて駆けてきたのだとさとる。
「ご、ごめんなさい……」
 体勢を整えても、はずかしさと罪悪感で顔があつかった。楓お兄ちゃんはわたしをこころもとない石の上から砂利のある場所まで連れていって、「平気平気。怪我なかった?」とわたしの背中を撫でる。うなずくと、わかりやすく肩から力を抜いて息を吐いた。

 四人でいるとき、楓お兄ちゃんとふたりになって話すことはすくない。祐樹お兄ちゃんのほうがわたしと近くて、瞳お兄ちゃんのほうがわたしを引っ張ってくれて、楓お兄ちゃんはカメラごしにわたしたちをみていることが多かった。目があえば笑ってくれるし、なにかたずねれば答えてくれるし、距離を感じるわけではない。でも、確実にほかのふたりとちがう接し方だった。
 ふたりきりでいるせいなのか、いまの楓お兄ちゃんはこどものようにはしゃいだり、大人のひとみたいにわたしの手を引いたり、いつもより近くにいてくれる。すこししゃがんでわたしにカメラの画面をみせながら「ほら、これさっき撮ったやつ」と屈託なく笑う姿に、わたしの顔はほころぶ。三人と一緒にいたい気持ちはわたしの中で常にひとしく強く、楓お兄ちゃんと一緒に話す時間はすくなかった。めずらしい時間が、最近すこし慣れつつある穏やかな時間と同じように、とてもいとおしかった。
 カメラの中ではちいさな女の子が上を向いていたり、こちらを振り返ったり、どこかを楽しそうに指さしたりしている。……む、とわたしが顔をあげると、楓お兄ちゃんのいたずらっぽい笑顔と目があった。
「葵を撮ってたのでした」
「……かわせみ……」
「カワセミもいるよ? ほら、ここのはしっこ」
「……たしかに」
 空を指さすわたしの髪とリボンがまきあがっている隙間に、翡翠色の豆のようななにかがみえる。楓お兄ちゃんがわたしの髪をやわやわと撫でながら、やわらかな声で続ける。
「葵はきれいでかわいいよ」
「……きれいかな」
「きれいだよ。こんなにいい写真になるんだからさ」
「楓お兄ちゃんの写真がすてきなんだと思う」
「俺は、……俺が、きれいだと思ったものを撮ってるから」
 画面の中で、ころころと表情を変えてはしゃぐ女の子は、わたしじゃないみたいにまぶしい。そのせいなのか、気の抜けた自分をみている気恥ずかしさよりも、みしらぬ絵本をながめているような遠さがある。楓お兄ちゃんが切り抜いて撮ってくれるわたしは、確かに言葉通り、きれいなのかもしれない。
 風がふいて、砂利の中のちいさな石や砂が舞いあがる。
 楓お兄ちゃんの写真で、女の子はいきいきとしている。
 生きて、いる。
 いままでみせてもらった写真が脳裏に浮かんでは、泡のようにはじけていく。楓お兄ちゃんがきれいだと思うすべては、いつも花束のようにまぶしい。
 わたしは花の中をさぐるように、やわやわとちいさな声を出す。
「……お兄ちゃんは、ふたりのこと、すき?」
「うん」即答してから、楓お兄ちゃんはわたしの目をゆっくりみて、どこか気弱そうに笑う。「……すこし、意味はちがうんだけど。伝わるかな」ここにはいないふたりとお兄ちゃんの姿を思い浮かべて、わたしはうなずいた。
「元々、俺と日吉は同じクラスで、冴木は日吉の友達で、俺と冴木はそっから知り合って三人でいんのね。冴木は別のクラスなんだけど」
「うん」
「今日はテスト期間で、冴木がいないのは家で勉強しないとまずいから。日吉は……葵ならわかる?」
「……うん」
 祐樹お兄ちゃんがわたしの家の話を聞くとき、ほかのふたりとはあきらかにちがう顔でうつむいたり、神妙な相槌をうつことがあった。同情よりは同調に、共有よりは共感に近いもの。どこから生まれてしまったものなのか、考える必要はなかった。祐樹お兄ちゃんがわたしのことを考えずとも、一定の理解を得たように。
「日吉のこと、心配?」
 楓お兄ちゃんはわたしの顔を覗きこむようにして、首をかしげる。わたしはちいさく、だけれどはっきりとうなずいた。楓お兄ちゃんはうれしいような気まずいようなちょっとへんな笑顔で、でもやさしく「そっか」とわたしの頭を撫でる。「俺も心配」と続ける声音がひどく切実に聞こえて、曇る顔をみられないよううつむいた。どんな表情を浮かべても、ただしくない気がして。

「冴木も日吉も全然違う方向に、家が大変なわけよ。俺の家は、……まぁ、普通、なんだけど。俺もたまにいないときあるじゃん」
「うん」
「俺のことを、縛りたい、感じの人もいるからさ。あいつらの家とは違うけど、一緒にいてやれない日があるのは俺もごめんなって思うかな」
「なんで、……そのひとがお兄ちゃんを縛ることを、お兄ちゃんが謝るの?」
「俺たちは結局、葵になんもしてやれないじゃん?」
「うそ。わたしのこと、のこしてくれた」
 口からこぼれた声は、すこしふるえて怒っているようだった。自分がなにに不満を示しているのかわからないまま、ところどころが濡れた砂利をにらむ。楓お兄ちゃんはわたしがふいに顔をゆがめたのをみて、どう答えるか考えているようだった。わたしは続ける。
「楓お兄ちゃんが、写真撮ってくれたとき、うれしかった」
「……そう?」
 返事をするお兄ちゃんの顔はみえないけど、声は穏やかだ。なにを言ったって、なんにも響かないほどわたしが頼りないこどもであることはわかっている。それでも楓お兄ちゃんのやさしい声に甘えて、どんどんと言葉が落ちていく。
「のこしてくれて、うれしかったの。わたし、学校も家も写真とかなくて、自分がどんな顔してるかもずっとわからなくて、誰かに似てるっていうのはわたしの顔のことじゃないって、思ってて、みんな、……わたしの顔はきたないって、それしか教えてくれないから」
「うん。……お前はきれいでかわいいんだけどね」
「お兄ちゃんにはじめて言われた」
「マジ? はは、日吉に妬かれそー……ごめんな、ちゃんと聞いてるよ」
 言葉をつまらせたわたしの髪をときながら、楓お兄ちゃんは軽やかな声をひきしめて、ゆっくりうなずく。だから、えっと、とつっかえながら、わたしは結局「だから、うれしくて」と最初のままの結論を出す。おそるおそる視線をあげると、お兄ちゃんの顔がへらりとゆがんでいた。目尻にわたしにはわからない感情がにじんでいて、もしかしたら困らせたのかもしれないと不安になった。

「わたし、楓お兄ちゃんの写真、すごくすき」
「お、褒められてる? やったね」
「あっ、楓お兄ちゃんもすごくすき」
「わかってるよ、よしよーし」
「……楓お兄ちゃん、わたしがいなくなっても、ちょっとだけ憶えててくれる?」
「ずっと憶えてるし、なるべくずっと一緒にいるよ」
「……」

 お兄ちゃんの声はかなしいほどあたたかく、絵空事のようにむなしい幸福を伴っている。
 わたしはそれがどれだけ困難な夢物語か、こどもなりに理解しているつもりだった。あした死んでしまうかもしれないのに、一緒にいたいと思うのは呪いだ。記憶は身勝手であれば誰も傷つけないかわりに、すこしでも願えばたやすくひとを刺す。憶えててほしいと乞うのも、憶えていると返すのも、あしたからのわたしたちをとりまく呪いになるかもしれない。
 それでも、すこしだけ憶えててほしかった。すこしだけ祈らせてほしかった。
 リンドウの匂いにまみれて笑うこと。
 お兄ちゃんの写真が永劫誰にも侵害されないこと。
 いまの言葉を抱えつづけること。

 わたしは顔をかたむけて、「うん」とうなずく。この世には果たせない約束が多すぎる。出来ないことが多すぎる。楓お兄ちゃんを縛りたいひとのことだって、わたしにはどうすることも出来ない。ただ漠然と、いやだなあと思うだけで。だから祈るだけ。
 あなたに出来る限りせかいでいちばん、幸福であってほしい。
 叶わない祈りがいつか腐って呪いになっても、わたしはずっと忘れない。自分を、幸福なこどもだと思う。
 いまはきっと、それだけで十分だ。
 楓お兄ちゃんはよし、と膝を叩いて立ち上がる。

「もうちょい撮ろっか。遠くまで来たから、お迎えもしばらく来ないだろうし」
「……うん!」
 汚れないように、とわたしの赤いリボンをほどいて、お兄ちゃんはそれを自分の鞄にいれる。ぺたんこの学生鞄にしまわれていくのをみながら、きょうのリボンはしばらくリンドウの匂いがするかもしれない、と思った。要さんは花の匂いがわからないから、きっと気づくことはない。お兄ちゃんはわたしの写真を多分、しばらく持っていてくれる。
 それはとてもすてきで、うれしくて、幸福なことだった。

「春にも来よう。桜と一緒に撮らせてよ」
「瞳お兄ちゃんと祐樹お兄ちゃんも一緒に?」
「うん、そだね。一緒に来よう」


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もうじき夏が終わるから










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