白い花束の彼女





 この世には花として生かされる人間がいる。

 僕が名字の違う姪と初めて顔を合わせそれを知ったのは、僕が小学四年生の春だった。別段なんの偶然でもないが、ちょうど今の葵と同じ年だ。それまでも六年間同じ家にいたらしいが、立ち入り禁止扱いの地下室に半分監禁されて過ごしていたというのだから、当然僕から葵への第一印象は「かわいそうなおんなのこ」だった。
 今もその印象が薄れたり、歪んだり、反転したわけではない。
 葵は依然として、かわいそうな女の子だ。

 僕、寿賀睦月には異父兄が二人いた。上の兄こと寿賀要は僕の戸籍上の父、つまり要にとって実父の男に苛烈な執着と恋情を抱いて完全に気狂(きぐる)いとなっており、下の兄は外面こそ生真面目で朴訥としているものの、中身は似たり寄ったりのおかしさだった。
 生まれたとき母が死に、血縁における父は犯罪者で、育ててくれるはずの義父もあっさり病に倒れたものだから、僕の家族と呼べる存在はその二人しかいない。なんとも壮大な貧乏くじを引いたものだ。
 さて、そうすると気狂いの身内しかいない当時小学四年生の僕にとって、みっつ年下の姪っ子はまさに革命的な存在だった。僕はいたく感動し、感激もした。
 彼女が、僕なんかを悠々とこえる不幸を押し付けられていることに。
 その境遇においても、気がふれることもなく生きていることに。
 僕のひっそりとした不幸は、彼女に比べればほんとうに些細なものだった。彼女は僕の生き苦しさを否定せず、僕が生きていることを静かに微笑んで肯定した。それがお互いもう少し成長した年頃に起きていれば初恋やら信仰やらに育つのかもしれないが、十歳にもなっていない僕はただただ打ちのめされ、絶望した。この世にはどうしても、救われない人間がいる。底にいると自覚していなければ、上に行くことなんて出来やしない。
 自分の居場所がどれほど陰鬱で泥にまみれているかわからない葵は、そもそも救われることが出来ないのだ。
 僕は何より、それを憐れに思った。

 今、僕は中学一年生となり、葵は小学四年生だ。並べば兄妹のように見えなくもない年の差だが、葵は僕を兄と呼ばないし、僕も葵を妹にはしない。気狂いの大人たちに消費され続ける彼女の人生に、僕はなんにも出来ない。無力感を自覚するといたたまれなくて死にたくなるから、遠方の中高一貫校に通っている。真面目な生徒たちから浮かないよう、生まれ持った白い髪を染め続ける手間はあるが、おおむね期待通りの生活だった。葵は毎日暴力をふるわれているが、僕にはなんにも出来ない。なんにも出来ない。納得するしかない。遠方の学校から、ぱっと助けに来れはしない。
 そうやって、なんにも出来ないことに理由がほしかった。
 こどもである、以外の理由が。


 そんな中学一年生の冬。テスト期間で早めに帰らざるをえない日、僕は葵の「お兄ちゃん」たちと出逢うことになった。家に程近い公園で騒がしい声が聞こえるなと覗いてみたら、葵が要に馬乗りになってぽこぽこと頼りない暴力を披露していた。そんな景色はこの数年一度たりとも、可能性すらも見たことがなかったので、しばらく仰天して動けなかった。
 立ち尽くしたまま景色を見ていると、公園には葵と要以外にも二人の人間がいる、と把握出来た。どちらも黒髪の、整った目鼻立ちをした中高生くらいの少年だ。背も高いので僕より年下なことはまずないだろうが、僕が顔をしかめたのは他でもない、その二人の顔面に明らかな殴打の痕があったのだ。醜い花を咲かせたような赤紫の痣が、早くもその頬に生まれ始めている。要がやったのだろうな、と頭が痛む。
 少年二人の視線と意識が葵に向いている以上は葵の知り合いなのだろうが、僕はそのころ既に黒い髪と美しい顔立ちを持つ人間に対してある程度の偏見を備えていて、素直に割って入るかどうか数秒悩んだ。人前で殴られている葵の羞恥や屈辱を考えて、結局ぬけぬけと顔を出すことにしたのだけど。
 葵は彼らを「お兄ちゃん」と呼び、ほんの数瞬の態度からでも察することが出来るほど慕っていた。他人に執着を持たず、故に他人を際限なく許すことが出来るこの少女がはっきりと、特定の他人を慕う。少なからず驚きのようなものがあったし、興味深いとも思った。僕は僕で気狂いの蔓延る自分の家に慣れてきて、年近い姪っ子の不幸をまるで物語のように他人事として眺めていた。もう少し思い切って狂ってしまえば、僕も彼女を消費する側になるのだろう。今はまだ、善人ではないが気狂いでもない半端な他人だ。
 要の背を押し、葵を歩かせて帰路につきながら、僕は芽を出したばかりの興味本位に逆らうことなく、「お兄ちゃんって?」と尋ねた。葵はちいさな身体をゆったりと揺らして歩を進める。唇が遠慮がちに開いて、

「……お兄ちゃんは、すきな、ひと」
「……そう」

 僕は家に着くまで、なにも言わずに隣を歩いた。
 葵の耳はぼんやりと赤く、桃の花びらのように色づいている。
 ……あぁ。
 そうか、この少女は人間なのだなあと、残酷な認識が脳裏をよぎる。花として生かされていても。誰かの代わりとして人形にされても。この女の子は。

 家に帰ると要は「眠い……」とふらふら自室に吸い込まれていく。慣れたことなので僕と葵は黙って手を洗う。
二階の自室に荷物を置き、私服に着替えてから葵の部屋を訪れる。葵はぼんやりと床に座って所在なさげに空を見ていたが、僕が顔の前で手を振ると「あ、睦月」とやわらかくはにかんだ。考えてみれば、このごろ葵は表情がたおやかになってきた気がする。もしかしなくてもお兄ちゃんたちとやらの影響なんだろうか。
「痣は平気? 痛かないだろうけど、腫れてて気になるとか」
「だいじょうぶ。みためよりいたくない」
「見た目通りに痛かったことあった? いいけどさ。葵と一緒にいたお兄ちゃんたちは普通に痛いんだろうし」
 葵が沈痛な面持ちでうつむき、きゅっと身体を小さくする。僕はため息をつきながら自分も床に座り、ほんとうに簡素な部屋だなあと室内を見渡す。最低限の机と棚しか置かれていない、白い部屋。気狂いが閉じ込められる隔離部屋みたいだな、と悪趣味な想像をした罪悪感で口角がひきつる。

「……お兄ちゃんのどれが好きなの?」
「えっ、ええと、三人とも」
「三人。ふうん、三人ね」
「え、……あっ」

 大声をあげてから、失敗を悟ったように口を両手で覆う葵の姿は小学四年生に相応しく、むしろちょっと幼くも見える。僕はたまらず破顔する。冬場の冷たいフローリングも許せる気がしたけれど、一応あとで床暖房をつけてやろうと思った。葵の唇が色を失っていたので。
「言わないよ、誰にも。まぁ嘘かもしれないけど」
「言わないでいてくれるんだ」
「さぁね。嘘かもよ」
「睦月が保険をはっておくときは、大抵ほんとうなの」
「……そう、詳しいね」
 まっすぐな信頼は僕のような根っから性格がよくない人間にとって、なんとも背中がむずがゆいものだった。
 葵はほこほこと珍しい笑顔を浮かべながら、ありがとう、とささやく。花に朝露が落ちるような透明な響きで、彼女は自分の感情を保持しようとする。大切な人を秘匿しようとする。小説や戯曲で見かける恋のようだなあと、また妙な心地になる。

「要はすぐ忘れるだろうし。僕だけが知ってる分には、なんともならないよ。ねぇ、葵」
「うん」
「お兄ちゃんたちとやらに、言ったことはあるの?」
「ない。ほとんどない」
「どうして」
「すきだからどうしたいのか、まだわからないから」
 目を伏せて、自分の赤く腫れた頬を指先で気にしながら、葵は呟く。
「すきだからふれたいとか、付き合いたいとか、ぱっと浮かばなくて。自分がどうなりたいのか、考えてもわからないの。いまが楽しくてそれで満足してて、展望がないから。先のみえない好意だけわたされても、困らせちゃうと思って」
「……まぁまぁ、十歳がよく考えるね。おませさんだ」
「六年ぶんはませててもいいと思う」
「なるほど。高校生くらいか」
「……もうだまるもん……」
 頬をふくらませてそっぽを向かれて、こみあげた笑いを隠す気にはなれなかった。葵は笑っている僕を見て、尚更むすったれる。
「あはは、悪かったよ。ちょっと年が離れてそうだから心配しただけなんだけど、態度がよくなかったね」
「よくなかった」
「ごめんって。……なんにせよ、好きな相手とどうなりたいかなんて、好きって言ってから思い付くんでも遅くないと思うよ。言わなきゃ相手にはわからないんだし、好意の座席には上限数があるのが常だ」
「その座席に入りたい、のも、願望?」
「そうだね。叶えるつもりがなきゃ祈りだけど」
「そっか」葵は首をかたむけて、感情の読み取りにくい表情でうつむく。「……そっか」神妙に繰り返される一言に、僕は黙って葵の頭を撫でた。
「呪いになったら、どうしよう」

 ぽつりと、冷たい床に声が落ちる。
 僕は葵の頭に結われたリボンをほどきながら、「それならそれでいいんじゃない」と適当な返事をする。日々、豊かな黒髪に結われているリボンは、端のところどころがほつれ始めていた。何色か持ってるはずだけど、そういえば最近新しいのを見ていない。
 葵は片方だけほどかれたリボンが不愉快なのか、もう片方を自分でほどいて、くるくると細い人差し指に巻き付ける。

「恋なんてすべからく、呪いの代名詞でしょ」
「……恋?」
「違うの?」

 僕は自分が持っていたリボンを渡す。
 葵は面食らったような顔で、僕を見つめている。

「好意の座席を勝ち取りたいなんて欲望、一番わかりやすく言って恋でしょ」
「……そうなの? 愛とかじゃ、なくて」
「葵の僕やその他大勢世界全土に対するものは、愛かもね」

 茫然と、僕を見つめる少女の顔。黒い瞳に青白い額、赤く腫れ上がった頬。汚されているだけでこの女の子の目はぱっちりとしていたし、輪郭は花のように整っていた。突出した美しさはなくとも、いかにも少女らしい、誰の思い出にも難なく紛れることが出来るあどけない容貌だった。
 僕は冷水を一滴額に垂らされたように、冴えざえと恐ろしくなる。現実も葵の表情も見過ごしてきた暴力も。すべてが一瞬だけとてつもない恐ろしさをまとって、ふっと消える。
 恋も知らない女の子が、蹂躙されて生きていること。
 暴力を理解出来ない女の子が、あたたかな恋をしていること。

 畏怖が消えると、なにか胸元にひりついた気持ちがわいた。単純に、この小さくてあどけない女の子の初恋というやつをもらっていった「お兄ちゃん」たちが、羨ましいような気がしたのだ。
 僕はきっと、生涯誰からも、はげしい感情なぞもらわず生きていくから。そのようにして死にたいと、他でもない僕が願って叶えているから。
 向こう見ずな願望。
 呪いと同義のそれ。

 冬の床はいつまでも冷たく、葵からは少しだけ花の匂いがする。いつもそうだ。
 彼女からは花束の匂いがする。



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もうじき夏が終わるから










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