永遠は透明





 小学五年生になっても、変わらずお兄ちゃんたちと会い続けていた。
 わたしはその春ごろから、背丈や顔の変化はないまま胸だけが盛んに成長しはじめ、同級生のおんなのこたちよりあきらかにふくらんだそれを非常にうっとうしく感じていた。二年ほど前、生理がきたのもクラスの子たちよりはやかった。そろそろショーツ以外の下着を買いたい、と相談すると、文月さんはぽつりと「早いね」とつぶやいた。その声は淡々とはりつめ、自分が幼くなくなっていくのを歓迎されていない気配を感じて、わたしはますます肩をちいさくして生活していた。
 少女になるということは、生きにくいばかりでよいことなどまるでなかった。
 それでもとまらない。自分ではとめようがない。
 骨と皮のあいだでなにかがむくむくと育って、胸がつっぱる。肌が悲鳴をあげているようだった。

 いたい、と思った。

 いたい。
 殴られても蹴られてもなんとも感じないからだなのに、わたしは自分が少女になっていくことにいたみをおぼえる。苦痛と、嫌悪を感じる。押し殺すように思考を閉ざす。
 鏡の中のわたしは毎日ちがう場所に痣をこさえて、顔は変わらない。変わらないと思う。変わっていたら、と恐怖する。出来る限りなにものにもなりたくなかった。
 不変でいたかった。
 学校で息苦しさが増し、家でもふくらんだ胸を隠すために猫背で過ごしていたわたしは、お兄ちゃんたちと過ごす時間だけちからを抜いていた。お兄ちゃんたちはわたしのことを相変わらずちいさなこどもとして、いつくしんでくれる。わたしの前髪がのびたことに瞳お兄ちゃんが気づいても、胸元をみおろして冷たい目をすることはない。祐樹お兄ちゃんはかわいい、かわいいとわたしの髪を撫でてくれる。楓お兄ちゃんの撮った写真でわたしは楽しそうに微笑み、前よりもはしゃいだ顔が増えた。
 怪我も痣も依然として減ることはなかったけれど、夏から秋、冬をこえて、三人以外のものにこだわっていない自分を、そろそろ自覚しているころだった。
 そして、自分の中に誰かをつよく、憎むこころがあることも、そのころ知った。


 春先のことだ。
 三人と一緒に見た川原の桜もひとしきり散り、緑がさわさわと生い茂る公園でわたしと瞳お兄ちゃんが小数のかけ算について話していると、祐樹お兄ちゃんと楓お兄ちゃんが遅れてやって来た。瞳お兄ちゃんが「日吉と葛は後で来る」と言っていたので、わたしはそのこと自体におどろきはしなかった。ふたりもいつも通り、笑って公園にはいってきた。膝の上の教科書を閉じて、「お兄ちゃん」と呼びかける。ツツジとサツキがちいさな花を咲かせあっている、なんでもない、平凡な午後の時間。
 だけれどわたしはふたりの――祐樹お兄ちゃんの顔をみて、一瞬動けなくなった。

 祐樹お兄ちゃんの白いほっぺたには、うっすらと痣が残っていた。
 殴打で出来たものだ。
 いくらなんでもわかった。

 初夏にははやい穏やかな風が、公園の枝葉を揺らしている。ざわめくわたしの内心などおかまいなく、たおやかに吹いていく。
「お兄ちゃん、顔……」
 言わなければいいとわかっていても、顔がぎしぎしとゆがむのをこらえきれず問う。祐樹お兄ちゃんはさびしげに微笑んで、「あぁ……」とため息をついた。楓お兄ちゃんと瞳お兄ちゃんは落ちついていたけれど、ふるえるわたしをあやすように手を繋いだり、ベンチに座るよう祐樹お兄ちゃんにうながしたりしてくれた。
 わたしの隣に腰かけた祐樹お兄ちゃんは、ごめんね、とつぶやく。木漏れ日がその顔をちらちらと照らして、きれいで、痛々しい。

「変なの見せちゃったね」
「へんじゃない。へんじゃない、けど……誰に……」

 冬のはじめ、要さんに祐樹お兄ちゃんと瞳お兄ちゃんが殴られることがあった。数日消えない濃厚な殴打の痕について、その翌日楓お兄ちゃんにも説明したけれど、あのあと三人と要さんが会うことはない。なかったのだ。
 だからその痣は、要さんのせいで出来たものではない。
 祐樹お兄ちゃんの瞳が細くなって、チューリップの匂いがさざなみのように揺れる。瞳お兄ちゃんは痛切なまなざしで、楓お兄ちゃんはじっとだまって、わたしと祐樹お兄ちゃんのことをみつめている。わたしは祐樹お兄ちゃんのいままでの言葉や怒りを思いだし、あまりにも簡単な正解に思い当たると、ぐっと泣きたくなった。喉におおきな後悔が詰まる。

「……お兄ちゃんの、おとうさん?」

 祐樹お兄ちゃんはわたしと要さんの話を、いつも怒って聞いていた。
 同情より、共感があった。わかっていた。わたしも向けられる態度や言葉から、祐樹お兄ちゃんの家が閉塞的で、お兄ちゃんを離そうとしないことをとうに察していた。お兄ちゃんの家にはおとうさんしかいないことも、以前聞いていた。
 わかっていたのになぜ、気づかなかったのだろう。
 みえる肌にでているものだけが、傷ではないのに。
 わたしにとって年上の少年であるところの祐樹お兄ちゃんも、父親の暴力に勝てるわけじゃない。こどもはこどもだ。みえないところにだって痣が、きっと。あぁ。
「葵ちゃんは気にしなくていいんだよ」
 祐樹お兄ちゃんはやわらかく、静かにそう言った。
 わたしは頭を抱えそうになる。唇を噛んで、お兄ちゃんの顔をみつめる。かなしみがどっ、と押しよせても涙はこぼれそうになくて、その代わり頭の奥が、マッチで火をつけたように熱くなる。同時に、足元からすべてが崩れていくような不安にも襲われる。
「気にする」とわたしは言った。ワンピースの裾をいたいほど握りしめ、ここにはいないひとへの怒りと、どうしようもないあしたへの焦りが胸の奥で滾っていた。要さんを叩いてしまったあの日抱いた感情が、明確にわたしの内側で育っている。

 許せないことなんてないのかもしれない。
 わたしからすれば、すれ違うことすらない他人なのかもしれない。
 それでも絶望した。
 すきなひとを侵害されて、なにも出来ない自分に。腹がたった。

「お兄ちゃんのこと、傷つけるひとがいるなんて。やだ」
「……俺も、葵ちゃんのお父さん、許せないよ」
 静かな声に顔をあげると、祐樹お兄ちゃんは首をかたむけて「お揃いだね」と笑う。
 瞳お兄ちゃんがそっと、ため息をつく。しかたなさそうに、あきれるように、ひそやかに笑っていた。楓お兄ちゃんは立ったまま、大切なものを撫でるようにわたしたちをみている。

「わたしが大人だったら、祐樹お兄ちゃんのこと助けられるのに。なんにも出来ない。なんにも。くやしい」
「俺だって悔しいよ、葵ちゃんになんにもしてあげられない」
「うそ!」

 弾けるようにわたしは叫んで、顔をあげた。三人が各々、おどろいた顔をしている。堰をきったようにあふれだす感情が止まらなくて、わたしはどんどんと声をあげる。
「お兄ちゃんたちはわたしのこと、みつけてくれたもの。一緒にいてくれるもの。なんにも出来てなくない。わたし、うれしかったの。ほんとうに。お兄ちゃんたちがなんにも出来てないって言うひとがいたら、わたし、きっともっと怒る」
 いつかの秋、川辺で楓お兄ちゃんに伝えたことと同じ言葉だ。わたしはやっぱりなにも変わらず、同じようなことしか言えないのだ。あきれるような、自分をみくびるような気持ちが泡のように浮かんで、奥歯でぎゅっと噛み砕く。変わらないことしか言えなくても、あのときよりいまのほうが、お兄ちゃんたちのことがすきだ。
 侵害されたくない。
 誰にも。三人の誰もを。
 わたしが三人と一緒にいてうれしいと思うことを。
 祐樹お兄ちゃんはやさしく笑って、何度もうなずいた。ちいさなこどもがお兄ちゃんのことを困らせていることは、もしかしたらお兄ちゃんの父親がしていることとなんら変わらないのかもしれない。無力な祈りなんて暴力と大差ない。それでもお兄ちゃんはうれしそうにしてくれた。

「ありがとう。葵ちゃんがそう思ってくれるの、うれしいな」
「……わたしが助けたいって言うの、無責任?」
「まさか。俺が葵ちゃん殴られてるのいやなこと、葵ちゃんは無責任だって言わないでいてくれるでしょ」
「思わないもの。言わないんじゃなくて」
「うん。同じだよ」

 じっと、祐樹お兄ちゃんの目をみあげる。風はやわらかに吹いていて、春の匂いがする。チューリップがよくなじむ、やさしい季節の空気。こんなにたおやかな温度と風があっても、ぽかぽかと空が晴れていても、わたしたちはどこへもいけない。どこへもいけない。わたしはこどもで、お兄ちゃんたちもこどもで、逃げられる場所も手段もない。
 たまらなくなって、わたしは祐樹お兄ちゃんのからだに、ぎゅっとしがみつく。息も出来ないほど、かなしかった。お兄ちゃんたちが抱きあげたりしてくれることはあっても、わたしから抱きつくことはなかったので、祐樹お兄ちゃんはちょっとうろたえながらわたしの名を呼んだ。瞳お兄ちゃんや楓お兄ちゃんと比べるとずいぶん細くみえていた背中は、しがみつくと広かった。あたりまえだ。わたしはちいさくて、なにをするにもこころもとないこどもなのだから。
 制服のシャツを掴んで、「わたし、」しぼりだすようにうめく。祐樹お兄ちゃんのからだはあたたかい。ふわっと風に揺れる黒髪の先が、ほっぺたをくすぐる。

「お兄ちゃんたちと、ずっと、一緒にいたい」

 睦月はわたしの好意を、恋だとあらわした。展望なんてあとからついてくるものだと。すきだと思うのなら、なにかしらの欲があるのだと。
 わたしにほんとうのことはわからない。
 自分のきもちが一番、得体がしれなくておそろしい。
 ただ漠然と、離れがたい。名残惜しい、なんて言葉では到底足りない。すこしでもながく、すこしでも、一緒にいたい。例えお兄ちゃんたちにすきなひとが出来てそのひとと付き合って結婚してわたしがその式に呼ばれても、互いの死に場所にいなくても、お兄ちゃんの一番が永劫わたしじゃなくても。お兄ちゃんたちが葵と呼んでくれるなら、それだけでいい。
 それだけのことが、ずっとほしい。
 自分の欲がむなしくて、どうしようもなくあつかましくて、胸を撃たれたようにせつなくなる。わたしの好意が三人を困らせたら、いやだなあ。
 たったそれだけを叶えたいと思っても、お兄ちゃんたちにはそれすら負担かもしれない。わたしの恋は身勝手であさましい。利己的すぎて、誇れるものも、叶えられそうな根拠もぜんぜんない。
 だって、みつけてもらってばかりなのだ。
 わたしはなんにも、三人にわたせない。

「……俺もだよ。うれしいな」

 祐樹お兄ちゃんはぽん、とわたしの後頭部を撫でて、穏やかにつぶやく。その声を聞いて、ひゅう、と息を吐いた。緊張していたのだなあ、と他人事に思う。
 飛びついた際に落っことしていたランドセルを瞳お兄ちゃんが拾ってくれていたのに気づいて、わたしは祐樹お兄ちゃんから離れて「ごめんなさい」と土を払われたランドセルを受けとる。瞳お兄ちゃんはいつものちょっとだけ無愛想な表情で、「謝んなくていい」とささやく。その目を覗きこんだ。

「なんだよ」
「……瞳お兄ちゃんとも、ずっと一緒にいたい」
「……わかってるよ。たちって言われて含まれてるのが葛だけだと思うか? 普通」
「なにその、俺は入ってないかもしれないみたいな」
「日吉が言われたんなら、俺は入ってて当然だろ。一番確実に安定性があるだろ」
「わたし、三人ともといたい……」

 あっという間に一触即発の空気になってしまった瞳お兄ちゃんと楓お兄ちゃんに、わたしがそろりと手をあげながらつぶやく。聞こえているかあやしい。祐樹お兄ちゃんがわたしの三倍くらいはげしく、「もー、葵ちゃん困らせないでよ!」と頬をふくらまして抗議した。
 さわやかな、あたたかい風が吹く。
 春が終わろうとしている。もうすぐ梔子が咲き始めるころだ。


 春の匂いがする。


 花の匂いがする。



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もうじき夏が終わるから










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