おぼろかなゆくえ
――そうして私は、はじめて外界というものを認識した。
「――ようこそ、店≠ヨ」
一言で彼女を表現するのであれば、
――……綺麗なひと、だけど。つくりものみたい。
雰囲気が、という話ではない。その姿が、纏う空気が、こちらに向ける視線が――全てが限りなく嘘臭かった。更に言うなら、彼女だけ傘もさしていないのに濡れていないどころか雨粒の一滴さえついていないというのが、益々彼女の――言葉を選ばずに言うのなら――胡散臭さのようなものに拍車をかけている。
上手く言えないが……強いて言うなら、そう。まるでホログラムのように、ここにヒトガタの像を投影しているような。
「……あの、ここはどこですか。あなたは誰ですか?」
朦朧とする意識を必死に引きずり出しながら、答えになっていないのを分かりつつも質問を返す。私は、つい先程まで東京タワー――最後のあの場所をタワーの括りに入れるべきかは激しく疑問だが――にいた筈なのだ。それがいきなりの恐怖体験の果てにこれまたよく分からない体験をし、気が付けばずぶ濡れの状態で見知らぬ建物の庭に突っ立っていた。
「あたしは壱原侑子。次元の魔女と呼ばれているわ。ここは店=\―あなたの願いを叶える場所よ」
「ま、待ってください。待って」
侑子と名乗った女性は更に言葉を続けようとするが、反射的にストップの意味を込めて右手を少し挙げ「待って」と譫言のように繰り返す。次元の魔女=H 店=H いきなりエレベーターに閉じ込められて、外に出て、いきなり変な光に襲われたと思ったら次はなんだ。そもそもタワーにいたときは雲ひとつない青空が広がっていたというのに、この短時間での変わりぶりはなんだ。どこかがおかしい。――いや、何もかも全部おかしい。
「わ、私、修学旅行中で、東京タワーにいたんです。それで、いきなり変な光が……」
説明するというよりは、ほとんど状況を整理するための独り言のようなものだった。分からない、解らない、判らない。今自分に何が起きているのか、何が起きたのか。ここはどこで、目の前にいるこの女性は誰で、一体何がどうなっているのか。
「いきなりこの世界に飛ばされたのね」
「……せかい」
ぶつぶつと途切れるばかりの独り言が届いていたのか、こちらの状況を把握したらしい女性はそんなことを言った。……なんか今、凄く壮大な単語が出た。
「……まだ時間があるし、あなたには一度落ち着く必要があるわね。説明するから、中に上がりなさいな」
時間。時間とは、何だろうか。頭が働かない。自分でもそうだと分かる呆けた顔で頷き、ついてきなさいと促す侑子さんなる女性についていく。
「マル、モロ。お客様よ。濡れちゃってるから、タオルか何かで拭いてあげなさい」
「はーい!」
「お客様! ヌシさまにお客様!」
縁側から靴を脱いで上がらせてもらい廊下を歩いていると、わーっと歓声をあげながらどこからともなくふたりの少女が飛び出しこちらに抱きついてきた。思わずぎょっとすると、気付いたのか侑子さんが振り返って静かに笑う。
「ここに住んでる子たちよ。水色の方がマル、桃色の方がモロ。悪戯好きだけど何か害があるわけじゃないから」
「は、はあ……」
「ちなみに本名はマルダシとモロダシ」
「下ネタじゃないですか……」
先程は近寄りがたいほどの厳かな雰囲気を放っていたというのに、今ので色々台無しだった。ひょっとしてこのひと、中身は結構アレなのか。
「……あら、ようやく笑った。あなた、笑ってる方がいいわよ」
「……」
ニヤッと悪戯の成功した子供のような表情をされ、思わず視線を逸らす。……なんか、負けた気がする。
長く続く廊下を歩き、屋敷のいちばん奥と思しき場所に入る。濡れた身体は既にマルたちに拭いてもらっていた。雨晒しになっていたのが短い間だったのが幸いしたのか、制服も思っていたほど濡れてはいなかった。
混乱から時間を経たためか、だいぶ頭が冴えてきた……というか、冷静になってきた感じはある。廊下を歩いている途中に東京タワーも見えたし、ここは都内なのか。どうやってここに来たのかという疑問は残るが、話だけ聞けば元の場所に帰ること事態は難しくない……のかもしれない。ごめん、やっぱ今の希望的観測。
マルたちが開いた扉を潜ると、これまでの武家屋敷とは全く別の雰囲気の大部屋が広がっていた。アジアンテイストではあるが、日本とも明らかに違う異国然とした雰囲気はどことなく不気味ささえ覚える。
「……さて、まずは名前を聞きましょうか。あたしは名乗ったけれど、あなたはまだだったでしょう?」
「……未侑、です」
「ミユ――漢字は未侑≠ゥしら。苗字は?」
「苗字……」
そうだ、名乗れと言われればフルネームで名乗るのが普通だ。なのになぜ私は苗字を名乗らなかったのか――?
思考に再び靄がかかる。苗字を加えて訂正した名前を名乗ろうとすると、先んじて侑子さんは「いいえ」と口を開いた。
「まだ混乱しているのね。ひとまず名前はそれで良しとしておきましょう。……まさかとは思ったけれど、あなた、本当に何も分からないようだから」
促されてソファーに座り、差し出された紅茶を手に取る。飲んでいい、ということなんだろう。口をつけると、上品な味わいが広がった。美味しい。
「……未侑。あなたがここに来たということは、何か願いがあるということになるわ」
対面のソファーに座った侑子さんが口を開く。その傍らにはいつのまにか、詰め襟の学ランに眼鏡をかけたいかにも真面目そうな少年が控えていた。歳はたぶん私と同じぐらいだろう。その表情にはやや狼狽の色が浮かんでいるが……彼もここに住んでいるひとりなのだろうか。
「それ、さっきも言ってましたよね」
ここは店だ、願いを叶える場所だと――侑子さんはそう言った。だが、分からない。そもそもなぜ、どうやって私はここに来たのか?
「ここはあなたの願いを叶える場所。あたしはその店主。飲み込めないなら……そうね。そういうの≠売りにしてる店≠セと思ってちょうだい」
願い、と口の中でその単語を転がす。……そんな大層なものではない、が。ここはやはり……
「あそこの東京タワーに、戻らなきゃいけないんです。修学旅行中だったんで……きっと先生とか心配してるし、迷惑かけちゃう」
雨に霞む東京タワーを指さす。本来ならそういう問題ではないのだろうが、とにかく元いた場所に戻ることこそが先決だった。この際どうやって≠ニか誰が≠ニかそういうのを気にしてはいけない。多分ややこしいことになる。
「それはできないわ」
「ぶっ」
口に含んでいた紅茶を思わず噴出する。
「い、今なんでも願いを叶えてくれるって言ったじゃないですか!」
「あの東京タワー≠ヘ、あなたの知ってる東京タワー≠カゃないのよ。ついでに言えば、ここもあなたが知ってる日本≠フ東京≠カゃない」
ゲホゲホと咳き込む私に対して、侑子さんは非常に冷静な顔で全く理解できないことを言った。
「……はい?」
「変な顔してるわよ、あなた」
変なこと言われたんで、という返しはさすがに失礼なので胸にしまっておく。それに彼女はいたって真面目だ。
「そうね。あなたのような人間に説明するのは難しいし、長い話になるのだけれど……。未侑。あなた、異世界とかパラレルワールドというものは知ってる?」
「……えっと、パラレルワールドはあれですよね。もしも何々だったらみたいな……。ifの世界っていうか」
SFとか、ライトノベルとかでよく見るネタだ。ある世界から何らかの出来事がきっかけで分岐し、それに並行して存在する別の世界。
「ここがそこなのよ」
「……」
「変な顔から変なものを見る顔になったけど」
「……あの、具体的にどのあたりがもしも≠ネんです?」
屋敷の外に広がる光景は、記憶にある限りの東京そのものだ。未知の流行り病が流行して人類が激減したとか、宇宙人が襲来したとか、そういう劇的な変化があったようには思えない。
「あら、じゃあ逆に訊くけれど。あなたのいた東京≠ノこういうモノはいた?」
「は、どういう――」
ことですか、と続けようとしてうっかりぶっ倒れそうになる。
「な、何あれー!?」
ぎょっと戦く。
そこにはキツネがいた。狐といってもなんだか透けてるし、尾っぽはふたつに割れている。明らかに普通のキツネではなかった。可愛い……たしかに可愛いけど、なんだあれ。
「視えるのね、あなた。なら話は早いけど……つまりは、そういうことよ。こういうモノがいる、それがあなたたちとの世界の違い」
「あのオサキギツネ、たまに来るのよねー」と侑子さんはにこにこ笑いながらこっちにやって来たキツネもどきの頭を撫でている。い、いや、視えるって。私は今まで霊感とかそういうの全然なくて……。
「もっと確たる証拠が欲しいなら、電話でもかけてみてごらんなさい。繋がらないでしょうから」
そうだ、その手が。
慌ててポケットからスマートフォンを取り出す。だが無情にもそのスクリーンに表示されているのは圏外の文字。半ば予想できていた事態なだけに心はそこまでざわつかず、むしろ「ですよねー」なんて気楽な言葉が口から漏れそうだった。
「……仮に、ここが異世界? パラレルワールド? ……とにかく、そういう類のものであったとして」
侑子さんは「帰れない」と言った。願いを叶える身であるが、私を元の世界に帰してやることはできないと。
言葉尻から言いたいことを察したのか、侑子さんは更に続けた。
「あなたは
召喚。……なんかいよいよファンタジーになってきた。
そして、不思議だ。異世界だの召喚だの、普通なら世迷い言と一蹴する筈の妄言じみた彼女の言葉をあっさりと信じ、事実として認識している自分がいる。……それが、なんだか少し不気味でもある。
「……私を召喚したのはあなたではない?」
「あたしじゃないわ」
即答だった。魔女とかいうぐらいだから、てっきりこのひとが私を召喚したのかと思っていたのだが。
「……そのひとはどこにいるんですか?」
「ここには――この世界にはいないわ」
そんな、と項垂れる。なら私は一生このまま帰れないのか。
「だけど、探すことならできる」
「……探すって、どうやって」
ここからが本題なのだけど、と侑子さんは前置きした。
「旅をするの。あたし個人では一度だけしかあなたを異世界に送ってあげることができないけれど、ここにはあなたたち≠異世界に連れていってくれる子がいるから」
「……あなたたち=H」
それはどういうことかと問おうと口を開く前に、侑子さんはソファから立ち上がった。
「……来る≠ね」
え、と声が漏れる。何が来る≠フか質問する前に――キィィッという甲高い音と共に、空が割れた。