これの続きかもしれない。


今となってはそもそもの始まりの言葉なんて忘れてしまった。どうせ些細な事だろうと他人は笑うかもしれないけれどぼくにとってなまえの事で些細な事なんて一つも無い。目の前のそれはすっかり冷え切っている癖に未だこのダイニングキッチンには焼けたトーストの匂いが充満している。

「お兄ちゃんなんて、もう知らない…っ!」

そう言って朝食も食べずに家を飛び出してしまったなまえの顔は怒りを滲ませた口調とは裏腹に悲しみと憤りで歪んでいた。そうして自分を突き放す言葉の何と鋭利な事か。その言葉の持つ意味が一瞬では理解出来なくて、否、したくなかったのかもしれない。いつだってなまえはぼくだけの可愛い妹で、ぼくの良き理解者で、そしてぼくを愛して、ぼくもまたなまえを愛していくのだと思っていたのだ。それは今までもこれからも変わらない事実だと思っていたのに、時の流れという物は簡単にそんな物を捻じ伏せてしまうらしい。

溜息を吐いて冷え切ったトーストを咀嚼してみた物の味がよくわからない。真っ白な皿に乗せられた黄色いオムレツに赤色のケチャップのコントラストでさえ癪に障ってしまう今の自分は相当参っているらしい。なまえがぼくを想って描いてくれたであろうケチャップのハートが今となっては虚しいだけだ。流れ作業のように咀嚼してごくりとそれらを飲み込んだ所でこんな風になまえの事で落ち込んだのはそういえば昔にも一度あったかもしれない、と自分の記憶を辿らせてみる。

「お兄ちゃんとはもう一緒にお風呂に入らない」

あれはまだ自分たちが東京都内に住んでいた時の話だ。いつも通り夕飯を済ませて一緒に入浴しようと誘えばなまえはそう言って顔を俯かせてしまった。申し訳無さそうに自分を気遣った表情と声は未だに忘れる事が出来ないし、その衝撃的な言葉も未だに心の奥に傷をつけたままである。なぜ、いきなりどうしてそんな事を言うんだ、と我ながら情けない声で問えば表情を崩さずにぽつりぽつりとなまえは話し始めた。

「…みんなが、中学生にもなってお兄ちゃんと一緒にお風呂に入るのは変だって言うんだもん…」

みんなって誰だ。みんなって誰なんだ、一体誰だ。出て来い、なまえにそんな事を言った奴は…ッ!

自分がどれだけ落胆した表情を見せていたのかは知る由も無いがその後もなまえは「だから、ごめんね」と繰り返すばかり。ぼくはその場で髪の毛を掻き毟って大声を発しながら小脇に抱えっ放しだったなまえがお気に入りのアヒルを踏ん付けてぼろぼろにしてやりたい気分だった。そんな事をしたらなまえに気が狂ったと思われるのが関の山だったので出来る限りのポーカーフェイスで「ああ、そう」と答えるのが自分にとっての精一杯だったのだけれど。結局、心では納得こそ出来なかった物のその後になまえが「ごめんね」の言葉と一緒にくれた"代償品"が自分にとってはとびきりの物だったので、その件はまあいいかと無理くり自分を治めてみたりしたものだ。

今更その件についてああだこうだと言ったところでそれは過去の事なのだ。もうよしとしよう。だけど今回は絶対に譲れないのである。

なまえは今年で16になる。いわゆる多感な時期だ。文字通りちょっとした事にも簡単に感情を動かされる、そういう年頃な訳だ。だからなまえが同い年の何処の馬の骨かもわからないような男と付き合うのも、そして何処の馬の骨かわからないその相手があの「東方仗助」だったとしても、それも全てはなまえの一瞬、ほんの一瞬の気の迷いがそうさせただけであって彼女の本心では決して無いのである。

何をどうしたらぼくの妹の恋人があのクソッタレになるんだ…ッ!東方仗助め…ッ!どうせあいつの事だから何だかんだと巧い口調でぼくのなまえをたぶらかせているに違いないッ!許せない、絶対に許せない。

ぎりぎりと奥歯を噛み締めればオムレツを突いていたフォークにまで力が及び思わず持ち手がぐにゃりと形を変えてしまった。

しかし兄の心、妹知らずといった所で普段はあんなに物わかりの良いなまえがこの件に関してだけはどうしても「うん」と頷いてくれない。あんな不良で品性の欠片も無いクソッタレと付き合うのも交友関係を築く事もやめろとどんなに強い口調で訴えようとも彼女はいつも困ったように眉を下げて「でも、お兄ちゃん」とあのクソッタレを庇うのだ。何故、何故、何故なんだ!お兄ちゃんは全く理解出来ないぞ、なまえ。どうせならもっと男らしくて正義感溢れる、それこそぼくの親友のような男であれば少しは理解出来たかもしれない。……いや、どうだろう。やはりなまえが誰かと付き合うという行為自体、未だに受け入れる事が出来ない。

今朝も今朝で何がどうなったかあのクソッタレの話になりいつものようにぼくが口煩く言えばなまえが「でも」と返すので、寝起きで低血圧の頭だったぼくはいつもよりも強い口調で彼女に言葉を投げ付けてしまったのだが思えばこれが良く無かった。そのままなまえはみるみる顔を曇らせ家を飛び出してしまった。

こんな風になまえがあからさまにぼくを非難したのも突き放したのも初めてだったので最初は酷く動揺してしまったが幾らか冷静になった頭で考えればすぐにわかる。なまえだって少しぼくに言われて機嫌を損ねただけなのだ。物わかりが良いと言ってもなまえはまだ子供だからああいう態度をとってしまったけれどきっと学校が終わればいつも通りにこの家に戻って来る。例えなまえがこの家から出て行ったような、もう二度と会えないような感覚さえ覚えてしまってもそれはぼくの勘違いできっと夕方になればまたあの制服姿を纏った彼女が帰って来る。だから何も心配する事は無いとわかっているのに。それでも一抹の不安は中々消えそうにない。

こんな事になるならなまえを私立の女子高にでも入れておけば良かった。あんな如何にも偏差値の低そうな所なんてやめておけと言えば良かった。そうすればなまえが東方仗助と知り合う可能性だって皆無に等しかったのに。そう思ってみたものの「この高校に行きたい」と自分の志望校を一番に明かしてくれたのが両親では無く自分にであった事、「お母さんたちにはああ言ったけど本当はセーラー服が着てみたくてここにしたの。…安直過ぎるかな?」とこっそりと恥ずかしそうに本当の志望動機を自分にだけ話してくれた事、初めてそのセーラー服に袖を通して自分の前でくるりと回って「お兄ちゃん、似合う?」と顔を綻ばせた事も、「お友達が出来たよ」と嬉しそうにあのプッツン女を家に連れてきた事も、全部が重なって結局はなまえはあの高校で良かったのだと自分を納得させる要因になってしまった。

時計の針がとうに夕方の時刻を指してもなまえは帰って来なかった。心配だからと持たせた携帯電話に連絡を入れても何の反応も無い。

なまえが好きなラベンダーバニラのシャワーオイルを買った。揃いの匂いでバスボムも買った。いつも風呂に浮かべているであろうアヒルも新品を購入した。だからなまえ、早く帰って来なよ。頼むから、早く。

未開封のそれらを並べて心ここに在らずな時間を過ごせばインターホンの音がぼくの肩を跳ねさせる。なまえ、と心は期待と焦りで塗れて足早に玄関へ向かうも途中でふとなまえが帰宅する際にインターホンを鳴らした事なんて一度も無かった事に気付けばぴたりとその足は止まる。この状況で他人になんて到底会いたくないと踵を返せば扉の向こう側から聞こえてきた声の持ち主はまさしく今一番会いたくない相手であった。

「お〜い、露伴。いるんだろォ?開けてくれよ〜」

途端にふつふつと湧き出る感情は怒りだった。お前がいなければなまえはぼくだけの存在だったのに、お前がいなければなまえを悲しませる事も無かったのに、お前がいなければ…!独特の間の伸びた声が余計にぼくの神経を逆撫でして再び足は玄関へと向かう。どれだけの言葉で口汚く罵ってやろうと期待にも似た感情を滲ませて扉を勢いよく開ければそこにはいつも通りのセンスの欠片も無い改造制服に身を纏い時代遅れな髪形のクソッタレがいた。

ただし、その後ろには隠れるようになまえもいて。無意識の内に「なまえ」とこれまた情けない声で名前を呼べば代わりに口を開いたのは仗助だった。

「なまえ、ほら。ちゃんと言うってさっき俺と約束しただろ?」

その言葉におずおずとなまえは仗助の陰からぼくの目前に姿を現して俯かせていた顔をそっと上げた。それから少しだけ気まずそうにしたかと思えばすぐにぼくを見上げて小さな声で言葉を紡ぐ。

「今朝、お兄ちゃんに酷い態度をとった事、謝りたくて」

暫く間があってから同じように小さく「まだ…怒ってる?」と泣きそうな表情で言われてしまってはぼくはへなへなと全身から力を抜く事しか出来なかった。なまえ、よかった。もう二度とぼくの元に帰って来ないんじゃないかと思った。

「いいや、もう怒っちゃいない」

そう返せばなまえもほっとしたように頬を緩めた。「良かったぁ」とぼくと同じような感情を露わにさせてから「ごめんね」と謝罪をするなまえを思わず抱き寄せれば制服のひやりとした感触を指に感じた。学校が終わってから今までずっと外にいたのだろうか。彼女の指先も冷たくなっている。だけども髪を梳いて直に頭を撫でればそれに相反するような体温をそこに感じて改めてなまえが帰ってきたのだと実感してしまう。思わず目の奥がじいんと響いた。

「お兄ちゃん、本当にごめんなさい」
「なまえ、ごめんなさいをする時は他にもしなきゃいけない事があるだろう?」

うん、と頷いたなまえがほんの少しの背伸びをした。ちゅ、と何とも小さなリップ音が自分となまえの唇の間から生まれたのとあのクソッタレの喚き声が響いたのはほぼ同時であった。

「クソッタレ…こんな時間に大声で叫ぶんじゃあないよ全く…ッ!これだから常識の欠片も持ち合わせてない低能は…ッ!」
「じょ、常識の欠片もねーのはどっちだよオイ!おかしいだろーが!何だ今のは!」
「ハァ?仲直りのキスに決まってるだろ」
「てめー妹に何て事してんだ!せめて頬っぺたとかおでことか色々あるだろーがよォ!」
「黙れ!貴様如きがこの露伴に指図するつもりか!?大体貴様はなまえと付き合えていい気になってるかもしれんがこの際だから言っておく。ぼくはお前を絶対に認めないし、お前がどんなに頑張ろうともなまえの初めては全てこの露伴の物だ!」
「本格的にやべー事言ってんじゃねえよ!」

次第に狼狽えはじめたなまえを落ち着かせるように腕に力を込めれば「お兄ちゃん」と困ったように見上げられる。こんなクソッタレの言う事は気にしなくて良いからな、なまえ。

「さ、なまえ。今日は久しぶりにお兄ちゃんと一緒にお風呂に入ろうじゃないか」
「え、でも…」
「今日はなまえの好きなバニララベンダーのバスボムもシャワーオイルもあるぞ。アヒルも今までの奴より一回り大きい物を買って来た」
「え?バニララベンダー…。それに大きいアヒルさんも?」
「ああ、ボディスクラブも買ってきたからお兄ちゃんが身体を洗ってやる。いいな?」
「うん、じゃあ今日だけ特別。お兄ちゃんと一緒に入る」
「ちょ、ちょっと待てなまえ!はやまるんじゃねえええ!」

クソッタレがギャーギャーと喚くのも扉を閉めれば然程気にならなくなった。ドンドンと扉を叩くのが鬱陶しいが流石にバスルームまでは聞こえないだろう。扉を壊したら弁償させるからな、このスカタンが。

「ほら、次はこっちの脚を洗う番だ」
「はーい。…お兄ちゃん、それ、くすぐったいよぉ。あ、変な所触っちゃだめだってばあ!」

この先もずーっとお兄ちゃんが傍にいてやるからな、なまえ。



20160128

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