逆さまの蝶


「まだ仕事してるのか?」

 突然背後からかけられた声に、ティムはキーボードを打つ手を止めた。
 パソコンの時計は夜の十時十五分を指している。振り返ると、天井まで届こうという本棚のすぐ脇、カーテンのはためく窓に月明かりを背にした人影が立っていた。立っているというよりは、浮いていると表現したほうが正しいか。一見壁に寄りかかり足を伸ばしているようなそれは、よく見ると足が床についていなかった。微かに纏う赤い発光は、その影がテレキネシスの使い手であると告げている。纏う光は赤いのに、ティムを見つめる目は真昼の空を思わせる青だった。

「玄関から入れって前も言ったよな? スーパーボーイ」

「でも、この窓に認証システム入れてくれたのはお前だ」

「最初に入られた時、軽い騒ぎになったからな」

「軽い? あれが?」

 わざとらしく眉をしかめたコン=エルの間抜け面を睨み付けてやると、彼は肩を竦めてティムから目を逸らした。なにか嫌なことでも思い出したかのような態度だ。
 レックスタワーには侵入者防止用のシステムが導入されていて、屋上のヘリポートと地上のエントランスにはメンバー他数人が登録された認証システムがついている。一ヶ月前まで、スーパーボーイはそれを知らなかった。故にその日、彼は今日と同じ窓からタワーに入った。結果、レッドロビンに強烈な電撃を食らい、さらに一時間の説教を受けるという憂き目にあってやっと、レックスタワーとレッドロビンのセキュリティがどれほどのものか痛感したのである。

「ほかの窓にはついてないんだぞ」

「大丈夫だ。お前の部屋にしか入らない」

 平然と宣うコン=エルの言葉にため息をつく。毎回突然部屋を訪問されるほうの身にもなってほしいものだ。ティムの心労を気にもとめず、コンは窓から離れてフワリと体を回転させた。重力を感じさせない動きで上下逆さまになった彼は、風船のように軽やかにティムに近づいてくる。艶やかな黒髪がティムの視界を掠めた。

「作業中のパソコンを見るなよ」

「別に、俺は見てもわからない」

「それもそうか」

 コンが口を尖らせる。ティムが鼻で笑ってやると、クローンボーイはますます不機嫌そうな顔をした。次いで、拗ねたような声がティムの耳朶を打つ。

「それはそれで腹がたつ」

「お前以外だったら来たとわかった瞬間パソコン閉じてる」

「信頼されてるのかバカにされてるのかどっちだ」

「さぁなぁ」

「バカにされてるんだろうなぁ」

 ボヤくコンを無視して、ティムの手が動きを再開した。単調なタイプ音は、この時間帯になると否応なく眠気を誘う。窓から突然侵入したコン=エルは、特にどこかに行くわけでもなく部屋に留まり続けていた。

「リビングにでもいってれば? なにか食べ物残ってるかもよ」

「別に食べなくても大丈夫だからいい」

「なら本でも読んでる?」

「いや、いい」

 視線を動かすと、逆さまになったコンの顔がすぐ近くにあった。赤い光を纏った黒髪が踊っている。暗闇の中で目だけが青空を封じ込めていた。ティムは思わず仰け反り、ややあって疑問を口にする。

「……なんで逆さまなのさ」

「さあ?」

「……楽しい?」

「いや?」

「じゃあなんで見てるんだよ」

「安心する」

 一瞬ティムは言葉に詰まった。顔が熱い。多分コンはなにも考えずに言っている。深い意味はない。

「そ、う……好きにしなよ」

「そうする」

 コンの手がスルリと伸びてきてティムの腕を掴む。好きにしろと言ったのはそういう意味ではない。作業を中断させられたレッドロビンは当然不服そうな顔をしたが、自称兵器はおかまいなしに青空の目でじっと彼の手を見る。

「こんな時間まで仕事してるんだからすごく冷えてるだろうと思ったが、そうでもないな。あったかい」

「そう? よく手が冷たいって言われるけどね」

「じゃあ、俺が外にいたせいで冷えてるから、あたたかいと思うのか?」

「そうじゃない? 外気ごときが君に影響を与えられるとは思えないけど」

「耐性があるだけで影響を受けないわけじゃないんだ」

「なるほど」

 ティムより幾分か無骨な指が手の節をなぞっていく。なにをされているのかわからなくなった探偵があわてて手を引っ込めた。コンが不服そうな顔をする。

「なんでひっこめる?」

「くすぐったいんだよ。それに作業したいし」

「あんまり根を詰めすぎるとよくないぞ、休憩しろ、休憩」

「邪魔するなら追い出すぞ」

「それは困る」

 逆さまになったまま、コンが少しだけティムから離れた。レッドロビンはまたひとつため息をついて、とうとう椅子から立ち上がる。

「ちょうど喉渇いてたんだ。お前の分もコーヒー入れてやるから、それ飲んで大人しくしてろよ」

「ホットミルクがいい」

「ワガママも大概にしろよ、コン」

「えー」

 重力から開放された男がティムの後を追いかける。一緒にリビングルームまで行って、キッチンに入ると冷蔵庫から牛乳パックを取り出した。コンが後ろで満足そうな笑みを浮かべている。
 強大な力を宿したクリプトニアンクローンは、幾分か幼さを残す純粋な子供だ。稀に外見年齢よりも幼い挙動をすることがある、世間知らずな子供。それ故に身に余る問題を前に癇癪を起こしたり、能力が暴走することもある。
 けれどきちんと彼のペースを守って接してやれば、思いやりもあるし思慮深さも垣間見せる。致命的なまでの経験不足は、これから一緒にいて補ってやればいい。
 強い力は毒にも薬にもなる。世に出て間もないコン=エルにその真意を教えるのは、おそらくティムの役目だった。

「砂糖は自分で好きな分入れろよ」

「ありがとうティム」

 温めた牛乳に砂糖を入れて渡してやると、コンは砂糖を二杯入れたあと浮遊したままカップに口を付けた。ティムもインスタントコーヒーをマグカップにいれ、飲みながら廊下を歩く。
 静かなせいか、小さな足音がやたらと響いた。

「お前のいれたホットミルクは美味いな」

「誰がいれても一緒だよこんなの」

「そうでもないぞ、俺も不思議だけど」

 他意のない言葉がティムの呼吸を軽くした。理由はわからない。ただ、そばにいる気配があたたかい。この気持ちをなんと言えば良いのか、ティムはずっとわからないままでいる。

 コンは、望まず強大な力を持った子供だ。本人の選択の余地なく、生きる目的を設定されてしまった少年。それは未来を奪う行為に似ていて、自由になった今でも彼はどこか周囲に馴染めないでいる。
 今の彼は、葉の裏で羽を休ませている蝶だ。
 雨が止んで目指す場所が定まれば、きっとひとりでも光に向かって飛んでいく。
 その光の場所を教えてやれる人間になりたい。
 彼がまがいものに捕らわれてしまわないように。途中で光を見失って迷ってしまわないように。

「なあ、今日見たことない鳥を見たんだ。なんて鳥だろう」

「どんな鳥だよ」

「なんか青っぽい緑っぽいとこと、赤いとこと、黒っぽいとろがあって、頭がちょっと金っぽいかな。しっぽがすごく長い奴」

「ずいぶん遠くまで行ってたんだな!?」

 帰りが遅いはずだよ! とティムが言うと、コンは不思議そうに首を傾げた。

「お前も今度一緒に散歩に行こう。引きこもってばっかりだと体に悪いぞ」

「体はちゃんと動かしてるよ」

「いいから、散歩いこう。気分転換だ。お前さっき酷い顔してたぞ」

「そうかな」

「そうだぞ。今はずいぶんマシになったけど」

 知らずに根を詰めすぎていたらしい。顔を触っても変わったという実感はなかった。あるのは、コンが来て呼吸が楽になったという感覚だけだ。
 
「お前はなんでもひとりで背負い込みすぎるからな」

「知ったような口をきくね」

「それくらいなら知ってるからな」

 コンが楽しそうに笑う。それだけでまた体が軽くなった気がした。
 彼の生まれた場所は致命的に何かが狂ってしまった場所で、それはティムの育った街だって同じだった。人の善性さえ不確かな世界の中で、重い体を楽にしてくれる場所がとても貴重なことをティムは知っている。
 青空に良く似た少年の目を見ていると、鋼鉄の少年が柔らかく笑った。

「明日はお前の行きたい場所に連れてってやるよ。だから、お前は俺の知らないものを教えてくれ」

 柔らかい声。楽しそうな響きの音に、なぜか涙が出そうになった。本当は明日も仕事をしようと思っていたのだけれど、急ぎの用ではないから問題ない。

「わかった。明日は引きずり回してやるから覚悟しておけよ」

 それだけで、生きているのだと実感できるのがとても不思議だった。
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美しくなんて死ねると思うな