ドーナッツホール 頭の中にあるのは別れ際のお前の顔だ。もうどれだけ時間が経ったのかもわからない。俺はいつ死ぬんだろう。 もうお前の名前も思い出せないんだ。声が、声が思い出せない。あんなに大切だったのに。 お前の名前も声も心臓の音も、俺の宝物だったのに。 ずっとそれだけを抱えて生きてきたのに、もう思い出せないんだ。どうしたらいい。 これは、お前の静止を振り払ってきてしまった罰なのか。 ああ、せめてお前の顔を忘れる前に、人としての思い出がすべて壊れてしまう前に、死んでしまいたい。 心の中でお前の顔が揺らいで、右目から一粒涙が零れた。 ああ、いやだ。やめてくれ。最後の思い出なんだ。取り上げないでくれ。せめて、せめてそれだけは、抱えたまま死なせてくれ。 縋るように顔を上げると、目の前にあった壁が崩れた。 日の光が眩しい。 逆光の中に誰かが立っていた。 知っている。 その姿を知っている。 俺の、俺の宝物。一番大切な 「あ、あぁ……ああ……!」 喉から自然と嗚咽が漏れる。今度は両の目から涙が溢れた。 逆光の中の男が手を伸ばしてきた。影になっていた顔の輪郭がハッキリしてくる。 知っている。この男を知っている。 大事に抱えてきた思い出の顔が唇を動かした。 「コン、コン=エル、迎えに来たよ。一緒に帰るぞ」 ああ、知っている。この声を知っている。 覚えている。思い出した。俺の宝物。大切な音。この耳が覚えている、一番重要な音。 「ティムッ……! なんで、なんで、ここに……ティム、なんで」 「いっただろ、迎えに来たんだ」 黒髪の、ドミノマスクを付けたヒーローが平然と言い放つ。 ティム・ドレイク 俺が覚えた言葉の中で、一番重要な言葉。 こいつの声が、名前の響きが、心臓の音が、この耳の覚えている一番大切な音。 こいつの顔が、闇を切り裂く鮮烈な赤が、その目の青さが、この目の覚えている一番大切な映像。 俺はまだ覚えている 思い出せた 名前も 声も 心音も 顔も、赤も、青も、全部。全部、覚えている。 「いっとくけど、僕は怒ってるんだからな」 俺がティムの手を取ると、そいつは小柄な(言うとすこし不機嫌になる)体に見合わず強い力で俺を引っ張った。 不機嫌そうな声がする。その声色も覚えている。今はただ、お前の声が聞けたのが嬉しい。 俺が笑っていると、ティムはなにを勘違いしたのかむっとした表情になって、俺の肩を軽く殴りつけた。まったく痛くない。多分もうちょっと強く殴っても、俺は痛くない。 今はただ、殴られた箇所から伝わるこいつの体温が嬉しい。 「次に自分の事を"兵器"だなんて言って見ろ! スーパーだろうがなんだろうがぶっとばしてやるからな!」 今はただ、その言葉が、声が、嬉しい。 「ああ!」 俺が言うと、ティムも少しだけ口元を緩めた。 [しおりを挟む] 目次 戻る |