旅立ちの鐘が鳴る

1


――回心を呼びかけておられる神の声に心を開いてください。もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。
 さあ、神のいつくしみを信頼して、あなたの罪を告白してください。

 狭い個室で椅子に腰掛けた神父が言う。仕切りの向こう側にうっすらと人の影が見えていた。三十代後半であろうスキンヘッドの男で、五分ほど前「告解をお願いします」と言ってきたのだ。
 彼の要望に応えたのは、その時丁度教会の庭を掃除していたジェイソン・トッド神父。快く男を告解室へ導いた彼は、小さな部屋で跪いているであろう男の、震える声を静かに聞いていた。

「私の名はジェフリー・ヒューム。ゴッサムの警備会社に勤めています。一ヶ月前に告白しました。昨日大罪を犯してしまったのです。どうか話を聞いて下さい」

――大丈夫、神はあなたの祈りを聞き届けて下さいます。安心して話してください。

「明日、ウェイン司教様がハーバーハウスで行われるパーティにいらっしゃいます。この時にウェイン大司教を襲う計画があると知ってしまいました。私は、私は彼らに逆らうことができず、警察にこの事実を話すことができません。通報すれば私が殺されてしまう。私は我が身可愛さに大司教様を見殺しにしようとしました。神父様、私はどうすればいいですか」

――悪を見逃したのは貴方の罪ですが、正しい行いのために貴方の命が犠牲になる必要はありません。そして貴方は、今私にその話をされていらっしゃる。すでに貴方は小さな勇気を示されました。さらに勇気を示され、警察に話すのもよいでしょう。そうでなければ私が匿名からの通報として警察にお話することもできる。大丈夫、貴方の勇気はウェイン司教を救います。貴方の罪は許されます。

「恐ろしい、恐ろしいのです神父様。私は死が恐ろしいのです。〈梟の法廷〉が私を殺しにやってくる。裏切り者の私を、〈タロン〉は決して許さないでしょう」

――〈梟の法廷〉? 〈タロン〉?

「ああ、神よ、いつくしみ深くわたしを顧み、豊かなあわれみによってわたしの咎をゆるしてください。悪に染まったわたしを洗い、罪深いわたしを清めてください。どうか死の後せめて煉獄へ行けますように」

――待って下さい、ジェフリーさん。〈梟の法廷〉とは、〈タロン〉とはなんですか。それは都市伝説ではないのですか

「これ以上は言えません。言えば神父様まで危険に晒されてしまう。私はこれ以上罪を重ねることはしたくありません。どうか、どうか、お許し下さい。お許し下さい」

――ジェフリーさん、大丈夫ですか。落ち着いてください、ジェフリーさん

「お許し下さい、お許し下さい、神のご慈悲を、あわれみを……お許し下さい、おゆるしください……どうか、どうか……悪に染まったわたしを洗い、罪深いわたしを清めて下さい。お許し下さい、お許し下さい、お許し下さい……」





 ジェイソン・トッド神父がジェフリー・ヒュームの告解に立ち会ったのは、偶然か神の導きか、実際のところ神父本人にもよく解ってはいなかった。
 街に古くから伝わる都市伝説の存在が、ゴッサム教区に赴任してくる大司教を殺そうとしているなどというのは、大抵の人間が誇大妄想と一笑に付す内容であろうし、ジェイソン自身〈梟の法廷〉という都市伝説を本気で信じているわけではない。それでもジェフリー・ヒュームが本気で怯えていたため、ジェイソンは万が一、犯人グループが都市伝説の名を騙っている可能性もあると自身を説得して、告解を聞いた数時間後にはウェイン大司教に事の顛末を話していた。
 ゴッサムで孤児として生まれた自分を、神父になるよう育ててくれたのは他ならぬブルース・ウェイン大司教であるから、勝手な判断でこの告解を些末事と断じ、もし育ての親が傷つくようなことがあれば、神がいくら許してくれたところでジェイソンは自分自身を許せないだろう。
 教皇からゴッサム教区大司教に任命されたブルース・ウェインは、二ヵ月以内に大聖堂の司教座に着座しなければならない。この『着座式』の前に、彼はチャリティーパーティに出席する予定を入れた。ゴッサム教区着任にあたり、まずは街の人々に挨拶を、というのがパーティ出席の名目だったが、その裏には彼が生まれ故郷のゴッサムについて長年思い続けてきた"構想"がある。即ち、ゴッサムの再建計画賛同表明と、計画支援の発表。
 さらに、元々街の名士の子であり、今やカトリックの最年少大司教であるブルース・ウェインを、街の金持ちたちが放っておく筈はなく、自分たちが人助けの機会を欲する善良な人間であるというアピールのため、起業家や政治家達にとって、大司教のパーティ出席は重要なファクターであった。
 さまざまな人の思惑が絡み合う、チャリティーというにはあまりにも生々しく浅ましい会場で、トラブルなどありえないと言い切る精神を、生憎ジェイソンは持ち合わせていない。
 話を聞いたブルース・ウェインは、鋭い緑の双眸に思慮深さを滲ませ、精悍な顎を指で撫でた。

「では、彼はチャリティーパーティで私を襲撃する計画があり、それを話した自分は〈梟の法廷〉の暗殺者〈タロン〉に殺されると言ったんだな?」

 太い喉から出る低音は、ともすれば人を威圧させてしまいそうなのに、言葉の端々から柔らかさを感じさせるのは彼の特技のひとつだ。もっとも、真四角と形容しうる体躯は百九十センチを超えており、たとえどれだけ低い声の端々を柔らかくしたところで、巨体が発する威圧感をどうにかできるものではない。ジェイソンなどはもうとうに慣れてしまったが、彼は大司教という身でありながら未だ初対面の子供には良く泣かれてしまう。しゃがんだところで焼け石に水で、それがコンプレックスなのだと以前苦々しい表情で語っていた。
 彼に育てられこそすれ、血の繋がっていないジェイソンですら身長は百八十センチを超え、こちらもやはり初対面の子供には怖がられることがある。
 巨体がふたつ、小さな部屋に向かい合って並んでいるのはどうにも窮屈な絵面だった。
 ジェイソンは手に持っていたティーカップをテーブルに置き、義理の父親に視線を移す。

「貴方の身は心配ですが、彼を必要以上に怯えさせたりするのも本意ではありません。彼は、警察にはいけないと話していた。私が警察に知らせることで、本当に彼に危害が及ぶかも知れない」

 事態の結果にかかわらず、ジェフリーは疲弊するだろう。もう彼は充分勇気を示した。これ以上勇敢さを示す必要はない。
 ブルースが顎を撫でていた手をテーブルの上に置く。義息の言葉に納得がいったのか、ひとつ頷いて「その通りだな」と呟いた。

「では、お前が護衛として私についてきなさい。無論、周囲には付き添いとだけ言っておく」

「よろしいのですか? 危険では?」

「しかしお前もそれが最善だと思うのだろう?」

 穏やかな緑眼に恐怖は微塵も感じられない。覚悟もない。殉教者の顔ではなく、目の前の人間を、周囲の人間を、信頼している者の顔だった。

「神は常にお前の心に語りかけていらっしゃる。心に従いなさい。お前の心の中にある教えに。私も、私の心の中にある教えに従い、あの場で言わなければならないことがある」

 現実問題、すでに明日に迫ったパーティへの出席を見送るわけにもいかない。周囲に事情を話せばジェフリーに危険が及ぶかもしれないし、ブルースが街の人々に向けて語る機会は失われる。チャリティーとは名ばかりのパーティを開くような、虚栄に彩られた人々が、わざわざ日曜日の朝教会に来るとはジェイソンもブルースも思っていなかった。同じ結論に達した彼らは、参加する予定ではなかったジェイソンのパーティ出席を主催者側にとりつけ、時間と場所の簡単な確認を済ませたあと、この告解のことは他の誰にも漏らさないと決めた。
 その後たわいのない近況報告などを行っているとあっという間に時間が過ぎ、時刻が午後五時を回ったところでブルースが席を立つ。
 ジェイソンが「お帰りですか?」と尋ねると、「ああ。緊張して眠れなかったら困るのでな」という冗談交じりの返答が帰ってきた。ジェイソンが苦笑を返し、義父は穏やかな笑みを浮かべて彼の肩を叩く。

「では、明日は頼んだ。トッド神父」

「わかりました、ウェイン司教」

 ブルースの置いていった招待状に、パーティ会場が記されている。ゴッサムのアップタウンにあるハーバーハウス。地上十五階建ての建築だが、歴史は古く、フクロウの紋章を使った昔の社交クラブとしても知られている。建物のあらゆる場所にフクロウの意匠が織り込まれており、ゴッサムではたびたび〈梟の法廷〉と関連づけて語られる場所だが、実際にはジュード・グレイヴスという建築家が設計した、美しく由緒正しい建物だという以外、特に変わったことはない。
 現在はイベントホールとして使用されており、ウェイン大司教の出席するチャリティーパーティは、最上階の十五階で開催されることになっていた。
 パーティは午後七時から開催される。
 大きな窓が並ぶ会場は展望台のような趣があり、ゴッサムの大通りを一望できるようになっていた。
 話し合い通りパーティに出席したジェイソンは、窓のすぐ傍に立って街を見下ろし、思わず嘆息をもらす。
 眼下に都邑の灯りが広がり、ホールの照明が室内の様子を市街の風景に重ねていた。そうすると、まるでたくさんの着飾った足が街を踏みつけているように見える。
 これがゴッサムの現状だ。
 格差が広がり、着飾った人たちは夜な夜な摩天楼の上で談笑している。美しく煌めく街の灯りは地を這う人々が疲れた体を酷使して作り出したもので、彼らはといえば灯りのない夜道をとぼとぼと歩いて帰路につく。
 チャリティーと銘打ちながらも虚栄に満ちた社交界の様相を呈したここは、街を踏みつけている富裕層の象徴として解りやすいことこの上ない。煌びやかなホールで着飾った人々が数時間談笑したところで、一体どれほどのなにが疲れた人々に還元されるのかわかったものではなかった。だがそれでも、踏みつけられた街を保護し、疲れた人々に分け与えることができるのもまた、ここで街を踏みつけている人々であることに間違いはなく、だからこそブルースはこのパーティに出席すると決めたのだ。ゴッサムの再建計画が進めば雇用も増え、広がる格差を多少は抑えられるはずと信じて。
 説教のひとつで現状が変わるならそれほど楽なこともない。ブルースもすぐに街が変わるとは思っていないだろう。もう一度嘆息したジェイソンは、背後から近づいて来る気配に気づき振り向いた。
 立っていたのは金髪緑眼の女だ。穏やかな笑みを浮かべている。エステル・スチュワート・メディナ。夫は州議会上院議員のオーウェン・リー・メディナで、自身はゴッサム有数の資産家であるメディナ家の当主。ハーバーハウスはかつて彼女の一族が造らせた物だという。
 彼女が歩く度照明に反射する白いドレスは肩が剥き出しになったデザインで、その手のものにひどく疎いジェイソンにはよく解らなかったが、体にフィットするマーメイドラインは、おそらくオーダーメイドなのだろうと思う。
 長い睫毛に覆われた瞳が笑みを含んで細められた。潤んだ翠玉にジェイソンの姿が映っている。

「お疲れかしら、トッド神父様」

 差し出されたシャンパングラスを丁寧に辞して、ジェイソンは静かに笑みを浮かべた。

「ミセスメディナ、申し訳ありません。華やかな席に不慣れなもので、緊張しているだけです」

「養父様のスピーチがそろそろ始まるのも、要因のひとつかしら」

「そうかもしれませんね」

 白いドレスの裾から、小さな影が覗いていた。エステルと同じ金髪緑眼の、可愛らしい少女。年の頃は十歳くらいか。たしかメディナ夫妻には一人娘がいると聞いたことがある。彼女がそうなのだろう。
 案の定、エステルは少女の頭を白い手のひらで優しく撫でたあと、彼女の肩をやわらかく押して言葉を投げかけた。

「リンダ、貴方も神父様にご挨拶を」

 少女がドレスの裾をつまみ上げ、丁寧にお辞儀をしてみせる。十歳にしてはひどく滑らかな仕草だった。これが上流階級というものか。
 まだ幼い声音がジェイソンの鼓膜を揺らす。

「はじめまして、神父様。リンダ・ミラー・メディナです」

 この日の為に練習したのか、十歳にして場数を踏んでいるのか、自己紹介の言葉が流れるように紡がれる。ジェイソンは、まだ自分の胸元あたりまでしか身長のない子供に対して、なるべく威圧感を与えないようゆっくりとしゃがみ視線を合わせた。子供特有の大きな目がジェイソンを見ている。

「はじめまして、ミス・メディナ。私はジェイソン・ピーター・トッド。ナロウズの聖ラザロ教会で祭司をしております。お会いできて光栄です」

 少女が安心したようにニコリと笑う。花のほころぶような、子供特有の表情変化は見ていて非常に安心した。彼女はジェイソンに向かってもう一度お辞儀をすると、神父の手をとってはしゃいだ声を出す。

「ウェイン司教様がお父様でいらっしゃるのでしょ? 今日はご一緒にこられたんですか?」

「ええ。父の晴れ姿を見にまいりました」

「私も、お母様からお話を聞いて、今日を楽しみにしていたの!」

 ジェイソンはリンダの小さな手に寄り添うよう、なるべく力を込めずにそっと手を握り返した。

「そうですか。私と一緒ですね」

「そうね! そうだわ!」

 どうやら怖がられてはいないようだ。ジェイソンの手をとってはしゃぐ娘に対し、エステルがさりげなく肩を抱く。

「ほら、ウェイン司教がおいでになったわ。静かになさい、リンダ」

「はい、お母様」

 ジェイソンが立ち上がり、顔をあげる。ステージの上にブルース・ウェインが立っていた。赤紫のカソックは司教の平服だ。ミサでも礼拝でもないので当然なのだが、パーティと銘打った場所で着るにはいささか素っ気ない。もっとも、ジェイソンとて黒のカソックでこの場にいるので、司教の服装に文句を言えた立場ではないのだが。
 ブルースは着飾った人々をひとりひとり見渡すように首を動かし、最後にジェイソンを一瞬だけ見た。神父がその視線に答えるよう見つめ返すと、一秒満たない間に司教が話し始める。

「着座式の前に、こうして皆様の前でお話することになるとはなんとも不思議な気分です。いつもは教会堂で話をしているわけですから、どうにも説教臭くなってしまうのをご容赦ください」

 ジェイソンの横ではメディナ親子がブルースのスピーチに耳を傾けている。他の出席者も司教の話を聞いていて、特に不審な動きなどはないようだ。ガラスの向こうに広がる街は、あいかわらずうっすらと室内の様子を映す。ロウソクを模した照明が人々の顔を照らしていた。

「私は今まで長くバチカンにおりましたが、縁あって生まれ故郷のゴッサムに司教として訪れることになりました。私にとってゴッサムとは何か? 家か、導くべき人々か、一概には答えられません。ですが、思い出したことがある。私の父、トーマス・ウェインが教えてくれた言葉です。私が幼い頃、嫌な事があった日……子供はヤンチャですから、穴に落ちたり、よく怪我をしたりしたものです。その日の夜、父は私の頭を撫でながらこう言ってくれました。"夢を見れば明日が来るよ"と。父は医者でしたが、詩人の才能もあったのかもしれません。とにかく、幼い私はその言葉に大変勇気付けられました。理想の実現は、理想を夢見るところから始まります。理想を夢見れば、理想は明日現実となってやってくる。明日でなくても、十年後、二十年後には必ず現実となってやってくる。人はみな、助け合って生きるべきものです。これは人々が長年理想とし、今着実に現実にしようとしている"夢"であります」

 ジェイソンの視線がブルースの頭上へ向かう。ホールの天井が少し外れていた。明るく照らされた会場とは対照的な闇が、細い隙間から這い出している。黒一色に染まった境界の中、照明に反射するなにかを見つけた瞬間、ジェイソンは即座に走り出していた。「きゃあ!?」と驚いたエステルの悲鳴が聞こえる。

「この街でも多くの方々が、"夢"を実現しようと邁進しておられる。未開発地域の活性化計画や、公共交通機関の最新設備化計画が、より良いゴッサムを作っていけると信じております」

 天井の奥から刃物が投げられた。照明に反射しはっきりとその姿をさらけだした凶器に、ブルースも気付いたようだ。
 瞬時に身をよじった司教の肩と足にナイフが突き刺さる。気づかなければおそらく頭と首を裂かれていたことだろう。

「ブルースッ!」

 ジェイソンの口から悲鳴の様な声が漏れ、天井からは第二波のナイフが投げられた。
 咄嗟に養父を突き飛ばしたジェイソンは、司教を庇った手のひらにナイフを受ける。
 ナイフは投擲用だが、随分古いタイプのものだった。梟のシンボルが彫られている。
 赤い血が司教と司祭の傷口から噴き出し、磨き抜かれた床を少し汚した。
 一拍おいて現状を理解した出席者の人々が、弾かれた様に悲鳴を上げ始める。同時に、ジェイソンとブルースに駆け寄ってくるものがあった。おそらく出席者のひとりであろう赤髪の男が、勇敢にもジェイソンにかけより、助け起こす。

「トッド神父、ナイフが!」

「私よりウェイン司教を!」

 言われてブルースのほうを見た彼は、ジェイソンより明らかに重傷の司教を見て混乱したようだった。男がブルースに駆け寄ったのを確認し、神父が天井を睨み付ける。
 会場に満ちる悲鳴が大きくなった。
 闇の隙間から、梟のようなマスクをかぶった不審者が降りてきたのだ。闇がそのまま人の形になったような不気味な動きで、音もなく床に着地する。全身を黒衣で覆い、肩から腰に斜めがけしたベルトにはいくつもの投擲用ナイフを携帯していた。
 ジェイソンの口に知らず笑みが乗る。恐怖と混乱と懐疑を誤魔化すための強がりだ。

「その格好、まさか、〈タロン〉だなどと言うんじゃないでしょうね」

 不審者はなにも答えない。代わりに、ベルトからナイフを引き抜いて体勢を低くしたので、ジェイソンも身構えざるを得なかった。傷ついた右手を握りしめると、鋭い痛みとともに血が流れ出たが、命を失うよりはマシである。
 黒衣が倒れ込むように体を前のめりにし、一気に走り出した。流れるような動作に一瞬反応の遅れたジェイソンは、しかしブルース目がけて走る暗殺者に足払いをしかけ、転倒した黒衣に飛びかかる。
 暗殺者が手に持ったナイフでジェイソンを攻撃した。
 頬に鋭い痛みが走る。
 視界に赤い雫が舞い、組み敷いた黒衣にも染みが出来た。

「このっ」

 呻くような声とともに敵のマスクに指を掛ければ、ナイフを持った手がさらに素早さを増して襲いかかってくる。腕に切り傷が出来た。
 身の危険を感じて思わず身を引いたが、それでもマスクを手放しはしない。勢いよくはぎ取り、そのまま中空へと放る。同時に不審者はジェイソンを突き飛ばし、後方へと跳ね退いた。
 ブルースを助け起こしていた男の視線がマスクへ向かうのが、ジェイソンの目端に映る。
 しかし今重要なのはこの不審者の正体だ。拘束を抜け出されてしまった以上、体格からおそらく男だろうというのがわかるだけで、年齢も人種もその他外見的特徴もわからないでは話にならない。
 しかし相手の正体を探ろうとしたジェイソンの目に飛び込んできたのは、不審者の顔ではなく灰色の煙だった。
 思わずむせ込んだ神父は、うっすらと見える暗殺者の影が遠ざかっていくのに気がつく。
 煙幕を張られた。このまま逃げられてしまう。
 喉や目の痛みといった異常はない。おそらくこの煙幕は有害なものではないと判断し、彼は消えかける影を追いかけた。
 走る度鮮明になっていく黒衣に手を伸ばし、引き倒す。
 相手は床に転がった勢いのままジェイソンを蹴り飛ばし距離を取った。
 神父がまた腕を伸ばすと、敵を捕まえる前に自分が捕らえられ、窓に叩きつけられる。
 全身に衝撃が走り、骨が軋んだ。

「がっ!!」

 背後でピシリと嫌な音がする。咳き込んだジェイソンの襟首を暗殺者が掴んだ。煙と痛みで視界が霞む。
 敵の姿を確認する暇はなさそうだった。
 再び窓に叩きつけられるのかと思いきや、彼は乱暴にジェイソンを会場側へ放り投げる。
 床を転がり、悲鳴の中で体を起こした神父が次に見たのは、割れたガラスと外に飛び出す黒衣の影。

――ここは十五階だぞ!!

 落下したらタダでは済まない。痛む体を無理矢理動かし窓に近づいたジェイソンは、しかし闇の中に暗殺者の姿を見つけることはできず、次に誰かが言った「ウェイン司教!」という悲鳴で現実に引き戻された。
 ステージの上でブルースが膝を突いている。肩と足からの出血は応急処置がなされたようだが、あれではしばらく動けまい。負傷した義父の姿を目の当たりにし、ジェイソンが人混みをかきわけステージへ駆け寄る。

「無事ですかウェイン司教!」

 誰かが「トッド神父、あなたも怪我を」と言ってくれたが、大丈夫だと短く返事をしてブルースを覗き込む。さすが痛みに強い男だと言うべきか、彼は傷口を自分で圧迫し、止血を続けながらジェイソンに言った。

「私は問題ない! それよりあいつを……!」

 赤髪の男が、不審者のつけていたマスクを拾い上げている。結局暗殺者には逃げられてしまった。いや、自殺したのかもしれない。敵の顔も確認できず、目的すら解らず仕舞いだ。
 ブルースの体は、本人が大丈夫だという以上大丈夫なのだろう。見たところ急所も外れている。ジェイソンも怪我こそしているが、どれも急所を外れたかすり傷ばかりだ。
 しかし、万が一あの不審者が生きていて、ブルースやジェイソン以外の人間に襲いかかればこうはいかないだろう。司教は咄嗟にそこまで考えが及んだらしい。
 言われて初めて思い至ったジェイソンは、自分の未熟さに忸怩たる思いを抱きつつ

「わかりました」

 とひと言言い残し、急いで会場を後にした。
 客人用のエレベーターは現在イベントの最中ということもあって誰も使用しておらず、都合良く十五階で止まっていたものに飛び込んですぐ地上一階へと向かう。エントランスホールに置かれた梟の石像を通り過ぎ、表通りへ飛び出すと、ガラスの破片が散らばった箇所に冷凍トラックが止まっていた。屋根には大穴が開いていて、後ろに回り込んでみると荷台の扉が開いている。そこから点々と続く血の跡は、細い路地の先へ向かっていた。
 生きている。あの高さから落ちて、負傷しながらも。
 目の前の状況が示す事実に底知れない恐怖を感じながら彼が血痕を辿っていくと、闇の向こうに人影がいた。
 黒衣に身を包んだ男。間違いない。あの不審者だ。
 ジェイソンが殺気を感じて足を止める。
 大通りを通る車のライトが男を照らし、今までマスクと煙幕で隠されていた顔が露わになっていく。
 絶世の美男子を造ろうとした彫刻家の作品のような、造り物めいた美しい顔立ちがそこにあった。
 黒い髪は身に纏う黒衣より闇に近く、肌は血の気が引いて蝋のように白い。まるで大理石の彫刻のようだったが、肌が白すぎるからなのか、頬のあたりに青白い血管が浮いて見え、完璧な造形美を保つが故いやに生々しかった。髪も肌も服も極端に彩度の低い中、鋭い殺気を宿した双眸だけが鮮やかな金色の輝きを放ち、視線のすべてがそこに吸い込まれるような強烈な印象を残している。
 美しい死体
 脳裏に浮かんだ言葉に怖気が立ち、ジェイソンは知らず喉を鳴らしていた。

「動くな」

 ジリ、と死体相手に距離を詰める。途端彫刻の鋭い眼瞼がカッと見開き、つい先ほど十五階の高さから落下したとは思えない速さで腕が動く。
 銀のナイフがジェイソンの顔めがけて飛んできたので、彼はそのナイフを腕で受け止めなければならなかった。
 自分の身につけた黒衣で一瞬視界が覆われ、前腕に刃物が突き刺さる。痛みに眉をひそめたが、第二撃はやってこないようだ。
 腕からナイフを引き抜いて周囲を見渡した時には、すでに動く彫刻の姿はどこにも見つけることができなかった。

「なんだ、あれは……」

 忽然と姿を消した、梟の意匠を身につけた暗殺者。ジェフリーが告解で言っていた事と無関係とは思えず、ジェイソンは荒れた呼吸を整えながら、自身も幼い頃から聞いていた〈梟の法廷〉の童謡を、脳裏に思い浮かべていた。

 梟の法廷にご用心 彼らはじっと見ているぞ
 薄暗がりの高みから 大きな岩の後ろから
 彼らがゴッサムを支配する 暖炉に居てもベッドに居ても
 もしもその名を口にすれば……
 タロンに首をとられるぞ

 ただの都市伝説だと思っていたものが現実かもしれないという鬼胎。幼い頃怯えていた、部屋の隅に蹲る闇がそのまま人型になってやってくるのではないかという恐怖を抱え、ジェイソンは一歩ずつ闇から逃げるように後退していった。
 背後から女性の声が聞こえてくる。

「トッド神父! トッド神父!」

 茶髪の女性がハーバーハウスのエントランスから駆け寄ってきた。息を切らしてジェイソンの傍に立ち止まった彼女は、一度大きく深呼吸したあと神父の腕をとり、焦った様子でぐいぐいと引っ張る。

「救急車がもう到着します! ウェイン司教を病院へ搬送しますので、どうか付き添いを! 貴方も治療を受けて下さい!」

「ああ、わかりました。ありがとうございます……」

 女性の手に引かれ、裏路地の闇がどんどん遠ざかっていく。最後に振り返ったジェイソンは、暗殺者のいた闇をもう一度見つめて小さく呟いた。

「あれでは、まるで本当に……」

 梟の法廷にご用心 彼らはじっと見ているぞ
 薄暗がりの高みから 大きな岩の後ろから
 彼らがゴッサムを支配する 暖炉に居てもベッドに居ても
 もしもその名を口にすれば……
 タロンに首をとられるぞ

 ずっと、頭の中で童謡の歌詞がぐるぐると回っている。救急車に乗っているあいだも、自分の怪我の手当てをしてもらっているあいだも、ブルースの手当てが無事に終わったと聞いた時も、彼が入院すると聞かされた時もずっとだ。
 〈梟の法廷〉はゴッサム特有の都市伝説。〈タロン〉はその都市伝説の中に登場する暗殺者。あるいは神出鬼没の化物。法廷に忠誠を誓い、〈梟の法廷〉の名を口にした人間を殺しに来るのだと言う。
 いわゆる自己責任系都市伝説の典型だが、ゴッサムではすでに〈梟の法廷〉の名前は知れ渡っている。今更真に受ける人間などいはしない、都市伝説というよりおとぎ話として扱われていたはずだった。
 ジェフリーの告解を聞き、なおかつ黒衣の暗殺者を見てしまったジェイソンは、自分の中の常識が大きく揺らぐ感覚に苦しんだが、事件の調査に乗り出した警察はひどく冷静で、暗殺者は"不審者"と言い替えられ、都市伝説を真に受けて自分で再現しようとした狂人だろう、という見解を示していた。
 怨恨の線は限りなく薄いとのことで、翌日行われることになったジェイソンの事情聴取も、事前に五分程度と言い渡されたほどだ。病院でも軽く話を聞かれたが、事件に居合わせた際の状況よりも、むしろ傷の具合を心配された。
 そんな状況下、約束の時刻に警察署へ出向いたジェイソンを出迎えてくれたのは、事件当日まっさきにジェイソンたちへ駆け寄ってきてくれた赤髪の男だった。

「昨日はとんだ騒ぎでしたな、トッド神父」

 淡褐色の眸子が神父を見る。吊り目がちな眼窩はそれなりの表情を浮かべればさぞ恐ろしいだろうという印象を受けたが、今は気遣わしげに細められ、鍛えられているであろう腕も粗暴な印象はまったくなかった。スーツに身を包んだ姿は教師と言われても納得できるであろう理性と知性が垣間見える。信頼できる良き隣人といった風体の男だった。

「貴方は……警察の方だったんですか」

「カート・グレイヴス。階級は刑事です。あの時は対応が後手後手で申し訳ない。失望しておられるでしょう」

「そんなことはありません。ウェイン司教の応急処置も貴方にして頂いたと伺っております。心の底から感謝しておりますよ」

「評判通り穏やかな方ですね」

 カートの差し出した手をジェイソンが握り返す。軽い握手を交わした後、刑事は「こちらへどうぞ」と言ってジェイソンを小さな部屋へと案内した。ソファに座るよう促され、言われるがまま腰を下ろすと、対面する形でカートも椅子に腰を下ろす。彼の後ろには警官がひとり椅子に座っていた。別のテーブルに向かい合い、おそらく調書を作成する係なのだろう。
 カートがひとつ咳払いをした。

「では、申し訳ありませんが、昨日のことを少し教えて頂けませんか」

「ウェイン司教のスピーチ中、天井に隙間があるのに気づきまして、そこから光るものが見えたんです」

「光るものというと、ウェイン司教や貴方に投げられたあのナイフでしょうか」

「おそらく、そうだと思います。不審に思って、ウェイン司教に教えるためステージへ近づきました。その途中ナイフが投げられて……ですので、ウェイン司教が負傷した時即座に体が動きました。その後現場から逃げた不審者を追って外へ出て、会場横の路地で再び遭遇しました」

「相手はなにか言いましたか?」

「いいえなにも」

 一旦会話が途切れる。調書係の手は数秒あとに止まった。カートが背後の警官を振り返り、もう一度ジェイソンに視線を戻す。

「そうですか。ご協力ありがとうございます」

 カートが立ち上がったので、ジェイソンはソファに座ったまま、視線を上に動かした。五分どころではない。おそらく三分もたっていないだろう。少し驚いてしまったせいで、すぐに立ち上がることができない。

「随分早いですね」

「体を張って司教を守った貴方を、必要以上に拘束するわけにはいきませんよ。昨日も担当の者がお話を伺いましたし、なにより貴方は今日お忙しいでしょう。ウェイン司教のお見舞いには行かれましたか?」

 カートに手を差し伸べられ、素直に立ち上がる。調書係が笑顔で見送ってくれた。

「昨日少し病院でお話しましたが、今日はまだ」

「貴方が行けばあの人も安心なさるでしょう。行ってあげてください」

「ありがとうございます」

 部屋の扉が開く。促されるまま部屋を出た神父は、廊下で立ち止まり、刑事の方を振り返った。

「あの、ナイフには梟の意匠が彫ってあったと思うのですが」

「ええ。それがなにか?」

「警察はどう考えているんでしょうか。犯人のかぶっていたマスクも梟のようでしたし、ゴッサムの都市伝説となにか関係が」

「〈梟の法廷〉ですか?」

 カートが苦笑いを浮かべる。

「そんなものはおとぎ話です。犯人はおおかた、噂を信じた変質者か誇大妄想患者でしょう。そんな変質者にお父様が狙われて、災難でしたね」

 刑事はジェイソンの肩を軽く叩き、「警察が全力を挙げて犯人を見つけ出しますよ」と言ってくれた。
 そのまま彼に案内されて警察署のエントランスへ到着し、礼を言って建物の外へ出る。日差しが目に突き刺さり思わず眉を顰めた。
 額に手をかざして空を見上げるジェイソンの前方、警察署の駐車場あたりに手を振る人影がある。少しずつ近づいて来るそれに目をこらすと、だんだんと女性であることがわかり、やがて茶髪の女性がジェイソンの目に映った。
 昨夜、救急車の到着をジェイソンに教えてくれた女性だ。
 
「神父様、こんにちは。昨日は大変でしたね」

「こんにちは。お気づかい痛み入ります。えっと」

「あ、昨日名乗りませんでしたね! 私、レイチェル・ロスと言います。以後お見知りおきを」

 握手を交わした後、レイチェルは周囲の様子をさりげなく見回しながら、ジェイソンに「警察へは、事情を話にこられたんですか?」と尋ねた。

「ええ。あなたもですか?」

「私はその場にいただけですから……今日は仕事で」

 よく見れば手にメモ帳とペンを持ち、黒いスーツの胸ポケットにはボイスレコーダーが入っている。パーティの参加者かと思ったら、記者だったようだ。神父が「記者さんなんですか」と呟くと、女が思わずといったふうに苦笑して見せた。

「ええ。本当は文化部所属なんですけど、今日は人が足りなくて、警察周りのサポートなんです。新人なんでこき使われてますよ」

 たしかに、チャリティーパーティと警察まわりの取材では畑違いにもほどがある。ジェイソンの「大変ですね」という言葉に、レイチェルは底抜けに明るい声で答えてくれた。

「いつもはのんびりさせてもらってるんですけどね。博物館とか美術館の催しとか、そんな記事ばかり」

「素晴らしいと思いますよ。その分野に造形が深くなければ、専門的な記事はなかなか書けないでしょうから。どの新聞社にお勤めなんですか?」

「ありがとうございます、神父様。ゴッサムニュースデーです」

「ああ、その新聞ならとっています」

「あら、本当ですか!?」

 レイチェルが嬉しそうに小さく跳ねた。表情がコロコロ変わる明るい女性だ。すぐに人と打ち解けてしまう。このくらいの押しの強さがなければ、取材などできないのだろう。「嬉しいな、ありがとうございます」と言った彼女は、すぐに記者らしい細やかさで腕時計を見やると、残念そうに眉尻を下げる。

「ああ、お引き留めして申し訳ありません。神父様、今日はお忙しいでしょう。昨日は大変でしたけど、気を落とされないでくださいね」

 どうやらジェイソンに事件の詳細を聞く気はないらしい。刑事も早々に話を切り上げてくれたし、なにやら必要以上に気を遣われているような印象を受けなくもないが、おそらく皆、養父のブルースが襲撃されたから顧慮してくれているのだろう。人の厚意には素直に感謝するべきだ。

「お気づかいありがとうございます。レイチェルさんも、どうぞご自愛ください」

 ジェイソンが言うと、記者は「いえいえ、ありがとうございます」と照れたように笑い、では仕事があるのでと言って警察署の中に入っていった。
 レイチェルと別れた神父がタクシーで向かったのは、ブルースが入院している病院だ。昨日も訪れたので勝手はわかっている。人の多い待合室を抜け病棟に入ると、エレベーターで三階へ向かった。ブルースのいる部屋は奥から二番目。襲われたとあって一応個室である。
 ジェイソンが部屋を覗き込むと、見覚えのある女性が立っていた。エステル・スチュワート・メディナ。パーティの出席者。横に立っている金髪の男性は夫のオーウェン・リー・メディナだろう。彼らもジェイソンの訪問に気づいたらしく、エステルはドアに視線を向けると神父を目に留め、柔らかく微笑んだ。

「あら、トッド神父もお見舞いですか?」

 ジェイソンもつられて笑顔になる。

「すこし様子を見に。すぐ教会に戻らなければなりませんが」

 彼女の隣に立つオーウェンが口を開いた。

「私たちはこれで失礼致します。ウェイン司教、どうかお大事に」

 ブルースはベッドの上だったが、上半身を起こして元気そうにしている。翠玉に笑みを浮かべ、低い声でオーウェンに礼を言った

「お気づかいありがとうございます、メディナ上院議員」

 エステルの足もとにはリンダがいた。どこか所在なげな彼女を見たジェイソンが「さようなら、ミス・メディナ」と声を掛けると、少女は大袈裟なほど肩を震わせ、驚きの表情でジェイソンを見上げる。彼が不思議に思って首を傾げると、エステルが申し訳なさそうに娘の頭を撫でた。

「ごめんなさい、昨日のこと自体、あまり覚えていないようなんです」

 たしかに人が目の前で刺され、先ほどまで自分の横にいた男が黒衣の不審者と乱闘騒ぎとあっては、子供の心に深い傷を残すだろう。「怖い目にあいましたから、仕方がありません」と答えたジェイソンは、なるべくリンダが怯えないようにしゃがみ、少女に視線を合わせた。昨夜のように。

「"はじめまして"、ミス・メディナ。ジェイソン・トッドと言います。ナロウズの聖ラザロ教会で司祭をしております」

 リンダが少しだけ警戒をゆるめ、小さな声で尋ねる。

「神父様……?」

「ええ。以後お見知りおきを」

 ジェイソンの笑顔を見ると、つられてリンダも笑う。怖がられてはいないようだ。エステルが少し嬉しそうに笑って「ありがとうございます、トッド神父」と柔らかい言葉をくれた。
 小さく手を振るリンダを見送ったジェイソンは、次に花瓶の水を替えるためブルースの横に立つ。
 ブルースはベッドに体を沈め、首だけを動かして息子に目をやった。

「お前は子供に好かれるな」

 すこし拗ねたような声だった。自分はよく子供に泣かれるので、同じく高身長にもかかわらず、怯えられない息子が羨ましいのだろう。ブルースの場合身長と体格が規格外なので致し方ない。
 思わず喉の奥で笑ってから、ジェイソンは穏やかに父の言葉を否定した。

「そんなことありませんよ。見ての通り体が大きいですから、女の子はよく怖がります。ミス・メディナも最初は怖がったでしょう」

「とても怖がられるようには見えないよ。彼女もすぐお前に懐いた」

 花瓶の水を入れ替え、花を差し入れると形を整える。容器に少しついた水滴を拭ってからサイドテーブルに置いた。

「上院議員は、ただのお見舞いですか?」

「以前から話す約束をしていたんだ。私がこんなことになってしまって、見舞いがてらといった形になってしまった」

 ジェイソンがベッドの横にある、見舞客用の椅子に腰を下ろす。ギシリと微かに音がした。

「なんのお話を?」

「彼らの家が出資する奨学金について。メディナ奨学金は、どうにも芸術関係に進む子供にばかり出資している。特徴といえばそれまでだが、メディナ奨学金を使って普通の学校に行くのは十年にひとり程度だ。あとは美術大学に進み、アートや建築やデザインを学ぶ。稀に美術史を学ぶ者もいるようだが、門戸を拡げて欲しいと伝えたんだ。あそこの資産なら、もっと幅広い支援活動をしても痛手にはならない。我々も協力を惜しまないと」

 包帯まみれで横になっているというのに、眦は力強く天井を睨み付けている。この場合、彼が見ているのは天井ではなく、彼の夢想する"理想の未来"だ。
 不審者に襲われても動じないその精神を内心讃辞しつつ、しかしジェイソンは大きく嘆息した。

「活動熱心なのは良いですが、お体に障らない程度にしていただかないと。傷の具合はどうですか?」

 息子の心配などつゆ知らず、ブルースは涼しい顔をしている。

「見かけほど酷くはないよ。お前は大丈夫なのか?」

「見かけほど酷くはありません」

 人の心配を無下にする義父に対し、ジェイソンなりの意趣返しだったのだが、やはりブルースは意に介さず少し嬉しそうに笑う。あるいは解っていて、軽口を叩ける息子の姿に安心しているのだろうか。どちらにしてもジェイソンが敵う道理などない。降参の意味合いを込めて肩を竦める。養父が小さく笑い声を漏らした。怪我をしたというのにご機嫌そうでなによりだ。
 不意に、ノックの音が響き渡る。客人のようだ。ゴッサム教区に赴任予定だった最年少大司教が、出席したパーティで悪漢に襲われ負傷とあっては、見舞客も多いのだろう。
 ブルースが「どうぞ」と言うと、静かに開いたドアからひとりの男が遠慮がちにはいってきた。横に流した黒髪と、黒に限りなく近い青目。赤紫のカソック。前任のゴッサム教区大司教、エディ・オズボーンだった。彼はベッドで横になるブルースを認めると、安心したように小さく息をつき、ゆっくりとベッドサイドに歩み寄る。

「ウェイン司教、思ったよりお元気そうで安心致しました」

「オズボーン司教、ご足労頂き感謝致します」

 今後についての話し合いかもしれない。退席したほうがいいだろう。そうでなくとも他人の見舞いに同席というのはあまり常識的ではないと判断し、ジェイソンがそっと席を立つ。

「では私はこれで」

 しかし彼の行動は、オズボーン司教によって止められてしまった。

「トッド神父にも聞いて貰いたい話がある。すまないが少々時間を頂けないだろうか」

 そう言われては、いち神父として退席するわけにはいかない。「それでは同席させて頂きます」と答えたジェイソンがオズボーンに席を譲ろうとするも、彼はゆるやかに首を振ってそれを辞した。「すぐに済みますので」その場に立ったまま、彼は言葉を続ける。

「ゴッサム教区に関してですが、まだウェイン司教の着座式が済んでいなかったこともあって、司教の怪我が回復するまで私が引き続き務めることになりました。ウェイン司教の怪我が回復次第、着座式を執り行いたいと思います」

 ジェイソンの「そうですか」という呟きに続き、ブルースが頭を下げた。

「申し訳ないが、宜しくお願いします」

「お気になさることはありません。しっかり療養して、信徒の皆様に元気な姿をお見せ下さい。『神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません』……何事も、全て神のお導きですから」

 ここでオズボーンは一度言葉を区切った。多少言いにくそうに目線をさ迷わせた後、意を決したように顔を上げる。

「それから、先ほど警察のほうに行って参りました。お二人からは異論もあるかもしれませんが、何分ご理解頂きたい」

 不穏な言葉だ。ジェイソンもブルースも表情を硬くし、互いに顔を見合わせる。
 オズボーンはまた一瞬言いにくそうな表情をしてから話し始めた。

「警察から、犯人の死体が発見されたと報告を頂きました。どうやら自殺のようです。遺書は見つかっておらず、捜査中ではありますが、ウェイン司教を襲った自責の念によるものでしょう。この後私からも信徒の皆様に報告します」

 彼の言葉に反応してジェイソンが司教に近づく。

「犯人の死体ですか? 私は一度顔を見ています。確認させてもらっても」

「その必要はありません、トッド神父」

 オズボーンの声音は、いままでにない強いものだった。思わず口を噤んでしまったジェイソンが目の前の男を見る。司教の暗い双眸が神父を見据えていた。

「犯人はウェイン司教を襲い、失敗して自殺した。これで事件は終わりです。貴方も早く忘れてしまいなさい」

「しかし、オズボーン司教」

「それに、万が一貴方の見た犯人と自殺した"犯人"が違うとなれば、みだりに信徒の不安を煽ることになる。それは貴方も望むところではないでしょう?」

 彼はこの事件を無理矢理終わらそうとしている。この場合はオズボーンではなく、教会自体がそういう判断を下したのかも知れない。ジェイソンにはよく解らなかった。まだ混乱している。
 ブルースを襲った犯人は、まだどこかで彼を狙っているかもしれないのに。
 愕然として言葉を失ったジェイソンは、ベッドから上半身を起こしたブルースが

「わかりました。そのように」

 と言ったせいで我に返った。

「ブルース、なにを」

「ジェイソン、オズボーン司教が正しい」

 緑と、暗い青がジェイソンを捉える。ふたりとも何を考えているのだろう。犯人がもし違っていたら、ブルースが危ない。もしかしたらジェフリーも。他の人間も。
 それでもふたりの大司教に言われては反論など出来ようはずもなく、ジェイソンは渋々

「……わかりました」

 と呟くしかできなかった。
 オズボーン司教はそれから二言、三言ブルースと言葉を交わして退室したが、機会を逸したジェイソンは未だブルースの横に立ったまま、半ば茫然として事の成り行きを見守っている。
 ドアが閉まったのを確認し、ブルースが息子に声を掛けた。

「椅子に座ったらどうだ、ジェイソン」

「いえ、大丈夫です……それよりも、なぜ了承されたのですか。ウェイン司教」

 ブルースがジェイソンから視線を逸らし、窓の外を見る。彫りの深い顔に濃い影が落ちていた。外には青空が広がっている。雰囲気は悪かった。妙に重たい空気が蹲り、すこし息苦しい。

「おそらくオズボーン司教は譲る気がなかった。話し合っても無駄だ。それに、信徒をいたずらに怯えさせるのは、私も本意ではない」

「けれど、今度は信徒の方が狙われたりすれば、彼らには身を守る術がありません」

「それはおそらく心配いらない。彼らはカトリック信徒ではなく、ブルース・ウェインという個人を狙ったのだ。ゴッサム再建計画に賛同する私が邪魔らしい。だから、カトリック信徒であるという理由で命を狙われることはない。この傷が回復したら、できうる限りの方法を使って私も"彼ら"のことを調べるつもりだよ」

「……"彼ら"とは」

「〈梟の法廷〉」

 部屋に滞留していた空気が変わる。風のように吹き抜けていった衝撃に、ジェイソンの腕が微かに震えた。

「ジェフリーが怯えていたように、おそらくその名を名乗る集団は実在する。私のところにも一週間前脅迫電話が来た。タチの悪いイタズラだと思っていたが、どうやら本当だったようだ。ジェフリーの告解についてお前から聞いた時はもしやと思ったが、まさかここまでやるとはな」

「なぜ、今まで黙っていらしたんですか!」

 個室でよかったとジェイソンは思った。感情のまま怒鳴った自分を恥じ、思わず視線を床に向ける。ブルースの表情は解らなかったが、前方からひどく柔らかい、低い声が届く。

「すまない、今となっては後悔しているよ」

「それでしたら余計、秘密にしておくわけにはいきません」

「いや、下手に騒げばそれこそ信徒が危険に晒されるかも知れない」

 ジェイソンが顔をあげると、ブルースの翠眼と目が合った。強い意思を宿した瞳。この顔をした時の彼は、自分の意見を絶対に曲げない。

「今はまだ動くべきではない。私が退院すると同時に、慎重に、調査を進めていこうと思っている。信頼できるものの手で」

 少しの沈黙があった。包帯に巻かれた養父を見て、ジェイソンの口から小さな言葉が転がり落ちる。

「……それには、私もふくまれていますか?」

 ブルースが笑って、ジェイソンに手を差し伸べてきた。その手に導かれるよう歩み寄ると、膝を折って体を屈める。ベッドの傍に座ると、めったに他人の下になることのない頭を、無骨な手でそっと撫でられた。
 
「もちろんだよ。お前は私の自慢の息子だ」

 ひどく暖かい手だった。昔もこうして頭を撫でられたものだ。成長しても扱いは変わらないらしい。気恥ずかしくもあったが、彼の中では懐かしさと温かさのほうが勝った。

「だがもちろん、強制はしない。お前はお前の心に従いなさい。お前の心の中にある教えは、お前に神が与えてくれた信仰なのだから。信仰とは、戒めではなく自由だ。お前はお前の心が欲する善に従いなさい。全ては、心が知っている」

 ジェイソンが目を瞑る。父が頭を撫でる感触だけが鮮明で、まるで子供に戻ったかのようだった。

 全ては心が知っている。

 与えられた言葉を口の中で反芻したあと、跪いたまま呟く。

「わかりました、父さん」

 今はただ、その言葉だけがジェイソンの心の中の真実だった。
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美しくなんて死ねると思うな