2 ローマの円形闘技場を思わせる、巨大な空間。中央のステージを取り巻くように周囲をすり鉢状の座席が囲み、そこに何人もの人影があった。みな一様に梟を思わせる仮面をかぶっていたが、服は社交界を思わせるフォーマルなドレスやスーツだ。中央にかかった巨大なシャンデリアが、窪地になったステージに光をそそぐ。比例して周囲の座席は薄暗く、ステージ上からはその様子をはっきり見る事ができない。 いくら夜目が利くと言っても。 コロッセオを思わせるステージの中央に立った男は、前方より声の発せられる気配を察知し顔をあげた。見上げた先に広がるのは闇ばかりで、かすかに梟の仮面を付けたスーツ姿の男が見える。 「お前が〈タロン〉となってから初めての失敗だ」 重苦しい声がその場に響き渡った。他の梟たちは自分の座席からタロンを注視しており、名前を呼ばれた彼は体の前で下げた両腕を交差させる。 「はい。予想外の抵抗と妨害によりミスを犯しました」 タロンの左側から女性の声がした。 「だからひとりになった時すぐ殺してしまえばよかったのよ」 これを切っ掛けに、周囲の座席がにわかに騒がしくなり始める。 「しかし、それでは見せしめにならない」 「この街に手を加えようとするものがどうなるか、他の連中にも思い知らせてやらねばならん」 「だからといって、〈タロン〉を公衆の面前に出すべきではなかった」 「まさかマスクまではぎ取られるとは」 タロンの前方で人の動く気配。最初に発言した男が片手をあげ、周囲に静粛を訴えていた。 彼はマスク越しにタロンを見つめ、感情の伺いしれない声音で尋ねる。 「なにか言うことはあるか」 「おっしゃられる通り判断ミスであり失敗です。言い訳はしません。申し訳ありませんでした」 「確かにお前の失敗だが、あの司教と祭司の抵抗は予想外だ」 男が手を下げる。すると、またあらゆる場所からざわざわと声が飛び出してきた。 「〈タロン〉と格闘してマスクをはぎ取れるような人間が存在するのか?」 「しかし実際にそれを何人もが目撃している」 「顔を見られなくてよかった」 「あの神父、〈タロン〉が攻撃する前に動き始めていたそうだ」 「ブルース・ウェインも奇襲を受けたのにもかかわらず、とっさに急所を庇っている」 「ただ者とは思えん」 また最初の男が片手をあげ、周囲から音が引いていく。 「奴らが何者なのか、調査が必要だ」 タロンの後ろにあった扉が開き、ひとり分の足音が聞こえてきた。彼の振り返った先にいたのは、黒衣を身に纏い、いくつもの投擲用ナイフを装備した黒髪の男。 見覚えのある顔だった。 「師匠!」 男はタロンの横まで歩いてくると、彼の驚愕を無視して片膝をつき、梟の仮面たちに首を垂れる。 前方の声がまた響き渡った。 「当代〈タロン〉に戦闘術の一切を教えた男、かつての〈タロン〉。ウィリアム・カッブ。お前にブルース・ウェインとジェイソン・トッドの調査を命ずる。奴らの正体を探れ。それまでやつらの処刑は一時的に見送る」 「仰せのままに」 これは本来、〈タロン〉の役目ではないのだろうかと男は思った。わざわざ自分の師匠であったかつての〈タロン〉を呼び起こす意味を考え、金の目を梟の仮面に向ける。暗闇の中で仮面を付けた人々が何を考えているのかなど、タロンに解るはずもないのだが、せめてわずかな意思のひとかけらだけでも拾おうと賢明に目を凝らした。 「僕は引退ですか」 「お前は一度失敗しただけだ。失敗の原因はお前以外にある可能性が高い。それに次代の育成も始まっていない。お前にはこれまで通り仕事をしてもらう」 他のメンバーたちも異論はないようで、静かに事の成り行きを見守っていた。ウィリアムは未だタロンの横で片膝をついている。ちらと師匠に視線を移したタロンは、自らもウィリアムに倣って跪いてみせた。シャンデリアの光が眩しい。 「仰せのままに」 首を垂れた彼に見えるのは灯りに照らされた床のみで、耳だけが周囲の情報を拾い集める。目で追ったところで、大部分が闇に隠れる《コート》の性質上、大して役には立たないから、問題無いといえばないのだが、目を封じられて鋭さを増した聴覚が、人の動く音までかき集めようとするのには閉口せざるを得なかった。 「だが、あのふたりを野放しにしておくわけにもいくまい」 「ひとりは手負いで入院中だ。監視は容易だろう」 「ジェイソン・トッドはどうする」 「 ビークとは、タロン同様〈梟の法廷〉が擁する諜報員を指す。一般人に紛れて生活しており、タロンほどではないが戦闘技術を有した〈梟の法廷〉の手駒。 一般に都市伝説として知られているこの組織は、ゴッサムの地下に独自の広大な《コート》と、街の各地に設置された隠れ家を有する、実在の秘密結社だ。 ゴッサムの維持と繁栄のため運営される組織であり、街の真の支配者として植民地時代からゴッサムの均衡を保ち続けている。 〈タロン〉も〈ビーク〉もそのための法廷の手駒だった。 手駒に意見など必要無い。そう理解していながらも、跪いたタロンは垂れた首をそのまま、闇の奥にいる法廷のメンバーたちに向かって口を開いていた。 「恐れながら」 周囲がしんと静まりかえる。全員の視線がタロンに向けられているのが感覚でわかった。 こんなことになったのは全てあの神父のせいだ。突然自分の前に現れた障害。これを乗り越えなければ名誉挽回のチャンスは訪れないだろう。たとえ今回の失敗が予想外のアクシデントによるものだとしても、〈梟の法廷〉にとってタロンの心証は変わらない。"失敗した〈タロン〉"から"失敗知らずの〈タロン〉"に変わるためには、自分でどうにかする以外道は残されていなかった。 このままこの任務が終われば、次になにかあった時引退を言い渡されかねない。無論失敗する気など毛頭ないが、今回もタロンは失敗する気などなかった。次の任務でどんなアクシデントがあるかは誰にも解らないのだ。 「その任務は、どうか僕にお任せ下さい」 タロンの言葉を聞いた法廷のメンバーが互いに顔を見合わせ、ざわざわと話し始める。 「これ以上の適任はいない」「しかし〈タロン〉は暗殺者だ」「相手の正体もわかっていないのに」「〈ビーク〉をつけてまたなにかありでもしたら」「それは〈タロン〉も同じことではないのか」 タロンの真正面に立つ男が再び片手をあげた。今までの喧騒が波のように引いていく。水を打ったような静けさの中、片手をあげたままの男がいう。 「どうなされますか」 彼が視線を向けたのは闇の更に奥、すり鉢状になった座席の最上席だ。タロンからは完全に闇に隠れて見えないその場所に、〈梟の法廷〉を統べる者がいる。代々"始祖様"と呼ばれてきたそれが、男の質問を受けて今日初めて口を開いた。 「いいだろう、〈タロン〉に任せよう」 《コート》の中が微かにざわめいた。タロンの横に控えたウィリアムは相変わらず微動だにしない。仮面たちのざわめきも一秒以内ですぐに収まった。それほど"始祖様"の力は絶大なのだ。 タロンが跪いたまま闇に感謝の意を述べる。 「ありがとうございます」 また闇の中から声がした。 「ただし条件がある」 タロンが顔を上げる。前方、はるか闇の奥から聞こえる声は絶対だ。これほど長く始祖様が喋るのも珍しいと思いながら、直々の指令を聞き漏らさないよう息を潜める。 「裏切り者の〈ビーク〉……ジェフリー・ヒュームを殺してから任につけ」 気がつけばタロンは笑みを浮かべていた。いつもの仕事。簡単な作業だ。すぐに終わらせて、自分の名誉を挽回できる。 「仰せのままに」 次の瞬間、タロンの姿は《コート》から消えていた。 ジャフリー・ヒュームはゴッサムの警備会社に務めるビークで、今年三十五歳になる男だ。彼に仕掛けた盗聴器から、よりによってジェイソン・トッドに告解を求め、暗殺計画について喋ったことが判明したらしい。〈梟の法廷〉について詳しいことは喋らなかったものの、明かな裏切り行為だ。一般人に紛れて暮らす〈ビーク〉は、稀にこういう人間が現れる。使えなくなった手駒を始末するのも〈タロン〉の仕事だった。 暗殺者は慣れた所作で建物の屋根に登り、アパートの三階にあるジェフリーの部屋に忍び寄る。 深夜、事件の日から部屋に籠もりきりだったジェフリーは、窓から侵入してきたタロンを見て自分の運命を悟ったらしい。暗い部屋で聖書を握りしめ、怯えた様子でガタガタと震えていた。情けないと思いながらも、タロンは一応、暗殺者として決められた言葉を口にする。 「裏切り者のジェフリー・ヒューム。梟の法廷の命により死刑を宣告する」 男が聖書をさらに強く握りしめた。目を瞑った彼は今にも消え入りそうな情けない声音で辿々しく祈りを捧げる。その場に膝を突いて両手を組み、胸に聖書を押し当てて一心不乱に言葉を紡いでいた。 どうやら逃げる気はないらしいので、タロンは死ぬ直前くらい好きにさせてやろうと思い、様子を見ることにする。 「栄光に満ちた聖ヨゼフ、マリアの幸せな浄配よ、世の救い主イエスズの保護者に選ばれたあなたは、御子を抱いて、天の楽しみを前もって味わいました。わたしのために罪の完全なゆるしと、あなたの善徳にならう恵みを取り次いでください。わたしがいつも天国への確かな道を歩めますように。あなたが臨終の時、イエスズとマリアに守られてやすらかに息絶えたように、わたしの臨終の時にも、敵の手に陥らないように救いの手を差しのべて見守ってください。天国であなたとともに永遠の栄光にあずかる希望に満ちて、イエスズ、マリア、ヨゼフの尊い御名を呼びながら、息絶えることができますように、アーメン」 長い口上の間に、タロンは悠然と彼の背後へ回ることができた。楽な仕事だ。不安になるくらい。 目を瞑る男の頸動脈にナイフを突きつけ、タロンが吐き捨てる。 「祈らせてやるから終わったら言えよ」 途端男の首が動いて、皮膚に切り傷が出来た。血は流れたがかすり傷だ。命に別状はない。ジェフリーの青い目がタロンを捉え、恐怖と畏怖と、微かな怒りが目の奥にチラついた。反撃でもする気かと思ったが、彼は跪いたままだ。 代わりに、祈りの時とはまったく違う、擦れた怒鳴り声が響く。 「俺はっ! 法廷に利用されて殺される! お前も利用されてるだけだ! そのうち殺されるぞ、俺みたいに!」 なにを言い出すのかと思えば。フン、と鼻を鳴らしたタロンが醒めた目で男を射貫いた。 「それは全部、僕のせいじゃない」 同時に腕を動かし、ジェフリーの皮膚の下にナイフをもぐり込ませていく。肉に埋まった金属を思い切り後ろに引くと、男の首から血が噴き出した。壁を汚し、床を汚した赤い奔流がタロンの体にもかかる。あとで洗わないと、あの神父なら臭いで監視がバレかねないなと思った。 男の体が前のめりに倒れ、ドシャリと重い音がする。傷口からゆっくりと血が広がっていった。ワインの瓶を倒したかのように、脈拍に併せてどぷりどぷりと赤い液体が溢れ出ている。リズムを刻む細流を見つめていると、男の言った言葉が脳裏にふと蘇った。 ――俺はっ! 法廷に利用されて殺される! お前も利用されてるだけだ! そのうち殺されるぞ、俺みたいに! それがなんだというのだ。最初から利用される運命の手駒だ。わかりきったことだろうに、この男はいままでそれを理解していなかったのか。だとしたら大した愚か者だ。最初から手駒たる〈タロン〉や〈ビーク〉の運命は決まっている。 「僕はなにも選べないし」 当然、お前もなにも選べないし、とは口の中だけに留めておく。月光がカーテンの隙間から差し込み、死体を青白く照らしていた。タロンと同じような冷たい肌だ。 「最初から、死んでる」 お前も似たようなものだっただろう。 問いかけても、死体は当然なにも答えなかった。 [しおりを挟む] 目次 戻る |