2 ウェイン司教の傷が回復し、再度ゴッサム教区に赴任してくることになったのは、暗殺未遂事件から一ヶ月後のことだった。 知らせを受けた市長や信徒たちは皆一様に胸をなで下ろし、安堵する人々の中には当然ジェイソン・トッドの姿もあった。関係者全員が今度こそ司教の安全が保障された上での着座を望んでいたが、本人たっての希望により、着座式の前に件の騒ぎで中断してしまったチャリティーパーティを再び開催することになった。 しかしハーバーハウスが半壊してしまったため、会場は別の場所を探さなければいけない。 決定した開催地は、旧ウェイン邸。 かつてはウェイン家が所有する屋敷だったが、ブルースの両親が死に、彼が神学校に入学する際財産の全てとともに街に寄付した館だ。現在はイベント会場として使用されており、今回のパーティにこれほど相応しい場所はないと思われた。 パーティの出席メンバーは半数が入れ替わっており、出席しない人々は、ハーバーハウスの崩壊に巻き込まれて死亡したと報じられている。メディナ夫妻も"事故"に巻き込まれ死亡したが、娘のリンダだけは無事であった。 彼女はイタリアに渡り、ダクラの指導の元、とある修道女が保護者となる予定だ。無銘者の血を引いているからだが、自由に人生を選べるよう一般人として育てるのだという。 多少破天荒な部分のある修道女ではあるが、彼女の炎は、きっとリンダを正しく導いてくれるだろう。幸せになって欲しいとジェイソンは思う。 生まれや血縁は、人間の人生になんら悪影響を及ぼすものではない。そうでなくてはならない。 パーティ会場の窓から外の景色を眺めたジェイソンは、広大な庭の風景に目を奪われた。 ホールの照明が室内の様子を庭園に重ねている。そうすると、まるでたくさんの人々が夜の庭を歩いているように見えた。 夜風にあたって散歩でもしているようだと思い、小さく笑い声を漏らす。場所が違うだけで見える景色はこんなにも違うのだ。 彼がじっと外の風景を見つめていると、背後から気配もなく近づいて来る存在に突然声をかけられた。 「なにを見てるの?」 窓の外に広がる闇より深い黒髪と、蝋のように白い肌。彫刻の様に美しい容姿の男。ディックが笑顔で立っている。身につけているのはジェイソンと同じ黒いカソックだ。 神父は窓から一歩離れ、ディックに歩み寄った。 「窓の外を見ていました。外の景色に建物の中が反射して、不思議な光景なんですよ」 「時々妙なものに惹かれるね、貴方は」 「そうですか?」 そうだよ、とディックが頷く。振り返った先の窓には、庭に立つジェイソンとディックがいた。 「地面に隣接した建物から眺める風景は、高いビルから眺める景色よりずっと良い」 「百万ドルの夜景とかには興味ないワケね。OK、胸に刻んでおくよ。デートコースを選ぶ時は慎重にいかないと」 ジェイソンの表情が少し硬くなる。彼は一瞬口をへの字に曲げて、困った様子でディックを見た。 「リチャード、軽口はやめなさい。貴方も助祭になる道を選んだのですから、清貧・従順・貞淑を守らなければなりませんよ」 指摘を受けたディックが反省した様子もなく肩を竦めてみせる。金の目が楽しそうに細められ、瞳孔にジェイソンがしっかりと映り込んでいた。 「僕は貴方の傍にいる道を選んだだけ。それに貴方が言ったんだよ? 自分の心に従えってね」 思わず嘆息したジェイソンを前に、迷子だった子供が不思議そうに首を傾げる。笑みにかつてあった影はなく、安心しきった様子で目の前の神父を見つめていた。 ジェイソンは、これからずっとこの視線と共にある。ディックがそれを望んだのだ。 「リチャード。神のために仕えるということは、貴方の心の有り様を、大きく制限することになりかねません。貴方はまだ世界を知らない。貴方が見てきた世界はあまりにも狭すぎる。本来なら、世界を見て、人を見て、色々なことを経験してから、自分で道を選ぶべきなのかもしれない。今からでも遅くありません。広い世界を見たいなら、もっと違う道もあるんですよ」 「どんなに広い世界でも、そこに貴方がいないなら意味ないよ」 「リチャード」 「ディックでいいよ。そっちのほうが親しみやすいだろ? まあでも、ふたりきりの時ならリチャードも悪くないかな。むしろふたりきりの時はリチャードって呼んでくれる?」 ジェイソンが眉を顰めると、ディックが楽しそうに笑った。子供の笑顔だ。 「そんなに怒らないでよ」 明るく、含みのない笑顔。きっと彼は心の大半が子供のまま止まっている。いろいろなことを教えていかねばならないとジェイソンは思っていた。 「貴方が私をそういった意味で求めているなら、答えることはできません。私は……」 「知ってる知ってる。貞淑の誓いだろ? いいんだよ。僕は貴方以外いらないから。それならそれでいいって言われて今の立場にいるしね」 彼は既に終任助祭の地位についている。本来なら神学校を出なければつけない筈の役職だが、ジェイソンと同様、カトリック教会の庇護下で罪人や教会内の悪事・不正を秘密裏に処理する条件で神学校への進学を免除され、聖ラザロ教会で終身助祭として勤めることになったのだ。 彼ほどの手練れを逃すのは、カトリック教会としても惜しいのだろう。世の中には思った以上に危険や不可思議な理不尽が溢れており、教会は"その種の人手"がいつもたりない状況だった。 他にも道はあっただろうに、それでもディックは茨の道を選んでしまった。 選ばせてしまったのは自分ではないかと、ジェイソンはずっと思い悩んでいる。 「……〈梟の法廷〉から解放された貴方に、また同じような重荷を背負わせることになってしまって、申し訳なく思っています。私たちも、貴方に結局法廷と同じようなことをさせている」 「そんなことないよ、神父様」 ディックが笑って、そっとジェイソンの手をとった。青白い肌は、見かけに反して暖かい。生きていると実感できる温度が確かに宿っていた。 彫刻のような容姿はともすれば冷たい印象を与えてしまいそうなのに、浮かぶ表情のおかげでとても優しげに見える。 「僕はこの道を自分で選んだ。選択肢もなくて、ただ従っていただけの時とは違う。自分の意思で、僕を癒してくれた貴方の傍で、貴方と同じ重荷を背負って、歩いていきたいと思ったんだ。だから、僕は今が一番幸せだし、これからどんなことがあっても迷わないし、後悔しない。それが、僕の"信仰"だから」 人が多くなってきた。もうすぐパーティが始まるだろう。ジェイソンは微かに笑って、ディックの手をそっと握り返した。 「ありがとう、ディック」 お互いの体温が手を通して伝わってくる。 彼がもし茨の道を辛いと思ったのなら、ジェイソンが支えれば良い。 ジェイソンが辛いと思った時は、ディックが支えてくれるから。 「リチャード・グレイソン。灰色の子。私と共に、この街の人たちを、聖と俗を、貧と富を、すべての人々が手を取り合っていけるようにする"橋渡し"の役割を、担って下さいますか?」 パーティに出席する人々が楽しげに談笑している。ディックの声は、なぜか雑音の中でもいつだってジェイソンの耳にはっきりと届いた。 「それが貴方の望みなら、喜んで。ジェイソン・トッド。僕の癒やし、僕の勇士、僕の英雄。貴方と共に歩める以上の喜びを、僕は知らない」 ジェイソンとディックの視線がステージにむけられた。長身の司教、ブルース・ウェインが立っている。赤紫のカソックは司教の平服だ。ミサでも礼拝でもないので当然なのだが、パーティと銘打った場所で着るにはいささか素っ気ない。 それが彼の良いところだ。 ブルースは着飾った人々をひとりひとり見渡すように首を動かし、最後にジェイソンとディックを一瞬だけ見た。ふたりがその視線に答えるよう見つめ返すと、一秒満たない間に司教が話し始める。 「トラブルにより赴任が遅れ、皆様に多大なご心配をかけたことを、まずはお詫びさせて頂きたい。幸い前任のオズボーン司教が善処してくれたおかげで、ゴッサム教区に不要の混乱を招かずに済みました。再びこうして皆様の前に立ち、ご挨拶できることに感謝致します。今日は、以前最後までお話できなかった事を、もう一度お話させて頂きたい。いつもは教会堂で話をしているわけですから、どうにも説教臭くなってしまうのをご容赦ください。 私は今まで長くバチカンにおりましたが、縁あって生まれ故郷のゴッサムに司教として訪れることになりました。私にとってゴッサムとは何か? 家か、導くべき人々か、一概には答えられません。ですが、思い出したことがある。私の父、トーマス・ウェインが教えてくれた言葉です。 私が幼い頃、嫌な事があった日……子供はヤンチャですから、穴に落ちたり、怪我をしたりしたものです。その日の夜、父は私の頭を撫でながらこう言ってくれました。"夢を見れば明日が来るよ"と。父は医者でしたが、詩人の才能もあったのかもしれません。とにかく、幼い私はその言葉に大変勇気付けられました。 理想の実現は、理想を夢見るところから始まります。理想を夢見れば、理想は明日現実となってやってくる。明日でなくても、十年後、二十年後には必ず現実となってやってくる。皆様におかれましては、夢見ることを諦めないでいただきたい。それは、神が貴方がたにお与えになった道なのです。エレミヤ二十九章十一節から抜粋させていただきます。『わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである』……そして、ペテロの第一の手紙四章十節。『神様はあなたがたひとりひとりに、何らかの特別な能力を授けておられます。その能力によって、互いに助け合い、神様からのあふれる祝福をひとり占めにはせず、他の人と分かち合いなさい』……人はみな、助け合い生きるべきものです。これは人々が長年理想とし、今着実に現実にしようとしている"夢"であります。 この街でも多くの方々が、"夢"を実現しようと邁進しておられる。未開発地域の活性化計画や、公共交通機関の最新設備化計画が、より良いゴッサムを作っていけると信じております。 ヨハネによる福音書十五章二節に『おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです』とあるように、我々は手を取り合って生きるべきであります。支え合い、仕えあい、愛し合うことは人として生きる上で最も豊かな実りをもたらします。さらに、イエス様はおっしゃっておられます。『あなたたちは敵を愛しなさい。あなたたちを迫害する者たちのために祈りなさい』と。 時には同じ場所から見た景色が違うこともあるでしょう。わかり合えないと思うこともあるでしょう。それでも、違う場所から見上げた空が同じこともある。同じものを美しいと思い、違うものを素晴らしいと感じ、隣人と手を取り合って、敵と寄り添い合うことこそ、我々が長年夢見てきた"理想"です。 夢を見ましょう。明日が来ます。明日、理想が現実となってやってくる。その時、敵は敵ではなくなり、人々はみな手を取り合って生きていけるようになる。わかり合えなくても寄り添えます。違っていても手を取り合えます。同じ空を見ていても、違う景色を見ていても、立場が違っていても、寄り添い、共に生きていくことが、私たちの夢見る"理想"なのですから。なにも恐れることはありません。 ――すべては、心が知っている」 拍手の雨が降り注ぐ。 その日ジェイソンとディックは――ブルースは、ゴッサムは、新しい旅立ちの一歩を踏み出した。 [しおりを挟む] 目次 戻る |