旅立ちの鐘が鳴る

1


 バチカンのとある教会に、三人の男女が集まっていた。
 部屋の壁に沿ってずらりと衛兵が並び、全員が鞘付の槍を所持している。
 他には、ゴッサム教区に赴任する予定となっているブルース・ウェイン司教と、オールカーストの指導者である老婆、賢者ダクラが長テーブルの左右にわかれて腰掛けていた。
 ウェイン司教が、三人の男女をそれぞれ見やり頭を下げる。

「皆様、今日はお集まり頂きありがとうございます」

 三人の中のひとり、巨体の男が不機嫌そうに体を揺すった。

「茶番はいい。司教、なぜ我々を集めたのか……いや、集められたのか、教えて貰おう」

 彼の横にいたツリ目の女も、剣呑な気配で以てウェイン司教を見据えている。本来なら気圧されてしまいそうな雰囲気の中、ウェイン司教はまったく気にした様子もなく淡々と告げた。

「我々は長い間、世界中に散らばった貴方たちの居場所を探していました。無銘者たちよ。今回貴方たちをお呼びしたのは、休戦協定の後一度も行われなかった話し合いを行うためです」

「あら、そのわりに出席者が少ないようね。他の連中には出席を拒否されたのかしら?」

 女の視線がダクラに移る。老婆の小さく丸まった体は生きているのが不思議なほど深い皺が刻まれていたが、女はウェイン司教への視線同様、否、それ以上に警戒色を露わにして賢者を睨んだ。
 ブルースは女の態度に気づいていたが、無視して話を進める。
 彼女にどうにかされるようなダクラではない。

「残念ながら、非協力的な無銘者もいたことは事実です。敵対行為に出た方もいらっしゃったので、誠に遺憾ながら、排除させていただきました」

 三人がそれぞれ、強い動揺を見せる。
 背の低い男がまず始めに声をあげた。

「我々は知らされていないぞ! これは宣戦布告だ!」

 それに続き、他の二人も怒号を響かせる。

「休戦協定を破ったのか!」

「なんということを!」

 場が荒れているにもかかわらず、壁に沿って並ぶ近衛兵たちは微動だにする様子はない。表情すらまったく動かない兵士たちはより一層部屋の空気を異質なものにしていたが、三人の男女は彼らを端から認識していない様子で、ブルースとダクラにのみ敵意に満ちた視線を向けている。
 しかしそれでもブルースの表情は変わらない。石のように重く、座したまま無銘者たちを緑の双眸に収めていた。

「先に協定を破られたのは貴方たちの仲間ですよ」

「黙れ! 長きにわたり息を潜めていた我々に対して、よくもそのような仕打ちを!」

 須臾にして、空気が重く冷たく変化する。

「黙るのは貴様らのほうだ」

 部屋全体が硬直したように静まりかえった。耳が痛くなりそうな静寂の中、感情を排した司教の声が朗々と響く。

「調査の結果、貴様ら無銘者が犯罪行為で私服を肥やし、いたずらに人を食うだけでは飽き足らず、街単位の人数を支配下において弄ぶような行為が確認されている。中には自分が無銘者であることを隠し、カトリック教会の神父やシスターを支配下に置いている連中もいる。これが敵対行為でなくなんだというのだ?」

 いくつか心当たりがあったのだろう。三人の無銘者は一様に黙り込み、言葉に詰まる彼らをブルースは冷たく睨み付けていた。

「貴様らの行為は、今後カトリック教会が逐一監視し、なにかあればすぐオールカーストへ連絡がいく。こちらの指定した場所に居住し、移動した場合もすぐオールカーストによる排除が行われる。拒否権はないぞ」

「我々の自由を奪うというのか!」

 ブルースの片眉がピクリと跳ね上がった。
 気づいているのかいないのか、女無銘者がテーブルを乱暴に叩く。

「それでは死んだも同然ではないか!」

 ブルースの座る座席にまで衝撃が伝わってくる。ビリビリと木製の家具が揺れたものの、幸い壊れた様子はない。司教が震えるテーブルに手を添えただけで、微弱な揺れがピタリと止まる。

「他人の自由を奪おうとするものは、奪われる覚悟も持って貰わねば」

「図に乗るなよ人間が!」

「この場で戦えるのは所詮ダクラひとりだろう!」

 無銘者たちの視線が再び老婆へと向かう。
 背を丸めたダクラは、感情のうかがい知れぬ皺だらけの相貌に笑みらしきものを浮かべ、爪の伸びた指で置物のように動かぬ近衛兵たちを指し示した。

「おやおや……気づかなかったのかい。おまえらも随分なまったもんだね。ここの近衛兵たちは全員、鋼の武器で武装しているんだよ」

 無銘者たちが近衛兵を睨むも、訓練を受けた彼らは微動だにせず、やはり置物のように押し黙るのみだ。
 かわりに、ブルースが口を開いた。

「拒否権はないといったはずだ。近衛兵以外にも、建物内には訓練を受けたシスターと神父が控えている。大人しくしていろ。銅の矢に頭を貫かれ、銅の斧で体を裂かれたくなければな」

 司教が右手を挙げると、それを合図に近衛兵たちが一斉に槍の鞘を取り去った。銅の切っ先が無銘者三人につきつけられ、巨体の男はつかの間悔しそうに呻いたものの、最終的には全員諦め、赤がね色の槍に包囲されたまま部屋を出ていく。
 彼らの後を追うように、今まで座っていたダクラが席を立った。

「今日は私が奴らの面倒を見よう。ところで、あの小童はどうしている?」

「ジェイソンのことですか。今回の動きは彼の功績あってこそです。最も残虐と貴方がおっしゃっていた無銘者サギアを倒し、彼女の悪事を白日の下に晒した」

 小さな老婆が嬉しそうに目を細め、丸まった背中をゆらゆらと揺する。

「そうかい、そうかい。あの小童がねぇ」

 小さな眦がブルースを捉えた。不思議な色をたたえた瞳孔から感情は読み取れなかったが、口元に浮かべた笑みは優しく、それでいて達観した不思議なものだ。
 膨大な人生経験がもたらした深みと色彩は一介の人間に計り知れるような代物ではなく、ブルースは壮大な歴史そのものを前にしたような面持ちで目を細める。

「嬉しそうですね、賢者ダクラ」

「雛が巣立つのを見て嬉しくない者がおるか? それが自分の育てた雛ならなおさらじゃ」

 ダクラが柔らかい笑い声とともに部屋を出て行った。小さな背中を見送ったあと、ブルースはしばらくして席を立つ。
 窓の外には晴天が広がっていた。上空は風が強いのか、雲の流れが少し早い。

「自分の育てた雛、か」

 知らず呟いた言葉は静寂にかき消える。目で追っていた雲を途中で見失ってしまった司教は、背後から聞こえてくる見知った声で我に返った。

「ウェイン司教、そろそろお戻りになられないと」

 立っていたのは、口ひげを生やし、すこし寂しい頭部をした痩身の男だ。カソックに身を包んだ男はブルースよりも年上であるが、とある事情により終身助祭の地位に就いている。

「ああ、すまない。すぐに行こう」

「それと、エディ・オズボーン司教ですが、今日正式に破門が決定致しました」

「そうか」

 ブルースの視線がまた窓の外に向く。聡い終身助祭は、それだけでなにか悟ったらしい。片眉を跳ね上げ、背筋をピンと伸ばしたままブルースに優しく問いかけた。

「……なにを考えておいでで?」

 白い雲に遮られ、弱くなっていた太陽が顔を出す。強い光がブルースの目を刺激した。庭に生い茂る木々たちが緑色に輝いている。

「今回のことは、ジェイソンと、そして元〈タロン〉のリチャード・グレイソンがいなくては実現しなかっただろう」

「左様で」

「彼らはとても重要なことを成し遂げた。ジェイソンは、私やカトリック教会が与えた役割を全うし、我々の与えた教えを自分のものにした。結果彼は、暗殺者として育てられ、人生を歪まされた男をひとり救ってくれた」

「とても誇らしいことですが、そのわりに浮かない顔をしていらっしゃいますね」

「お前には敵わないな。全てお見通しだ」

「それはもう。幼少の頃からあなた様のことはよく知っておりますので」

 軽く頭を下げた男を見てブルースは口元に笑みを浮かべた。けれどそれはすぐにかき消え、視線も窓の外に流れる。
 雲の流れは相変わらず早かった。どこで雨になるのだろう。ブルースにはわからない。

「彼はカトリック教会の神父であると同時に、無銘者に対抗するオールカーストの戦士だ。人の身には重すぎる役割だと、思うことがある。平和を願い、隣人を守るため戦う彼は、もともとは悪意ある人々に利用され、傷つき、虐げられた子羊だった。ただの子供だった彼に茨の道を選ばせたのは私だ。過ぎたる荷を背負わせるのは、人の有り様を歪める行為に似ている……そう考えれば、ジェイソンとリチャード・グレイソンは、似たような行為の被害者とも言えよう」

「お言葉ですがウェイン司教、トッド神父は自ら望んでその"荷"を背負ったのです。貴方に背負わされたのではない。誇りに思うことはあれど、後悔する様を見たことはありません」

 日差しが眩しい。ブルースは思わず目を瞑った。

「あれには強い意思がある。だからこそ、かつてこの世の地獄を見たというのに……」

 背中から終身助祭の柔らかく、優しい声がする。

「あなた様によく似ておいでで」

 そうだろうか。自分ではよくわからない。育ての親を始め、ジェイソンとブルースの関係を知る者は皆、ジェイソンはブルースに似ていると評した。

――私は、彼を助けたかっただけだ

 けれど、救えたかどうかわからない。
 過ぎたる重荷を背負わせたかもしれなかった。
 彼はブルースに感謝してくれているけれども。

――私は、お前を救えたのだろうか。

 ジェイソンも似たような逡巡を抱いたと知れば、ブルースは苦笑したことだろう。確かに似ているようだ、と。
 それはもうしばらくあとの話。

「……すべては、神の判断に委ねるしかないか……」

 そうしてやっと窓から目を背けたウェイン司教は、終任助祭の隣を通り過ぎ、扉へ向かって歩き出した。

「アルフレッド、すまないが車の手配を」

「すでにすませてあります、大司教」

 ウェイン司教のためにドアを開けた男は、穏やかな笑みを浮かべていた。まるで子供を慈しむような目で大きな背中を見送る。
 彼もまた、ウェイン司教はペニーワース終任助祭に似て穏やかに育ったと言われていることを知らない。

「ゴッサムに戻りましょう」
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美しくなんて死ねると思うな