1 草と糞尿の混ざったような臭いがする。たとえるなら動物園だ。 倉庫内の人数は十人。けれど、倍以上の気配が蠢いているのがわかる。稀に甲高かったり、低かったりする動物の鳴き声が漏れ聞こえ、ガシャンガシャンと金属のこすれる音がした。おそらく檻の柵が揺れる音。 ――随分賑やかだな 天井の梁から貸倉庫内部を見下ろしていたレッドフードは、フルフェイスヘルメットの下に手を突っ込んで首の後ろを軽く掻いた。 ゴッサムの港にある貸倉庫が犯罪の温床になるのはよくある話で、具体的に言えば武器や麻薬の密売人がしょっちゅう高い金でおんぼろ倉庫を借りている。 今回は珍しく、希少動物の密売組織が倉庫を借りていた。 悪党退治はすぐにでも始められるのだが、あまり騒ぐと生きている動物のストレスになるし、煙幕なんかもあまり使わないほうがいいだろう。大きい音も遠慮したい。 そう判断したレッドフードは、得意の獲物である二丁の拳銃を腰のホルスターにしまい、まず出入り口の見張りをしている男目がけて飛び降りた。 なるべく音を立てないよう、悪党の肩に腰を下ろして首に足を絡ませる。両手で頭を持ってハンドルでも回すように回転させてやると、敵は悲鳴を上げる間もなく白目を剥いて崩れ落ちた。 男は武装しているから、地面に落ちると音で他の人間にバレる。 一足先に着地し、脱力した体を受け止めてそっと隅のほうに転がしておくと、闇に紛れて今度はパソコンの前にいる女に目標を定めた。 ガラ明きの背後から肩を掴み正面を向かせると、顎の下を掌底で思い切り突き上げる。 「レッドフードッ……!」 「まだ意識があんのか、タフだな」 脳を揺さぶられた女が膝をついたので、無防備になった首筋に肘鉄をくれてやり意識を刈り取った。多少声を上げられたのは予想外だったが、他の人間には気づかれていないようだ。 この調子で悪党ども全員気絶させ、拘束した後警察に連絡すれば、希少動物は連中がひきとってどうにかしてくれるだろう。 あと二十分もすればすべて終わると計算したジェイソンが再び闇夜に紛れた直後、予期せぬアクシデントが発生した。 「警察だ! 全員動くな!」 珍しくゴッサム市警が本気で仕事をしたらしい。バタバタと忙しない足音がして、十数人の警察官が踏み込んでくる。 見つかるのは面倒だと判断し、レッドフードはすぐさまグラップネルガンを使用して天井の梁に飛び移った。 何発かの銃声の後、悪党どもが警察官に押さえつけられる。 結構な騒ぎになったので、動物たちも興奮したらしく、ゲージを揺らす音や乱暴な鳴き声があたりに響き渡った。 ストレスの溜まった動物たちに対する配慮のカケラもない対応は正直どうかと思ったが、犯罪者を取り逃がすよりはマシだろう。突入部隊は動物の専門家ではないだろうし、せめて引き取られた先ではきちんと管理されることを願うばかりだ。如何せん悪名高いゴッサム市警なのだから、望み薄ではあるのだが。 「すべて押収しろ!」 突入隊のリーダーらしき男が声をあげ、動物たちのゲージや毛皮や牙が粛々と運ばれていく。見ていて気分の良いものではない。 そうして不完全燃焼のまま、レッドフードの仕事は何事も無く終了してしまった。 「拍子抜けだな、おい」 誰もいなくなった貸倉庫の中に再び音もなく飛び降りる。嘘の様な静寂に包まれた空っぽの箱だ。もう少し暴れたかったな、という小さな不満は胸にしまっておくことにして、苛立ち紛れに周囲をざっと見回す。悪党も悪党の商品もすべて警察が押収したかに思われたが、ひとつだけレッドフードの目を引くものがあった。 真っ白な卵だ。 縦二十センチ、横幅十五センチといったところだろうか。かなり大型の卵。 「なんでこんなもん落としちまうかね」 拾い上げると、卵が微かに揺れた。生きている。 小さな懐中電灯を取り出し、卵の上から光を当てると、カラの向こうにうっすら鳥の雛らしき形が見えた。 大きさからして、おそらくダチョウの卵。 「……マジか」 一瞬、警察に届けようと思った。また卵が動いたのをみてすぐに思い直す。連中は人間の子供すらマトモに世話ができない連中だ。『卵が動いたんですけどぉ』などと間抜け面で持っていったところで、捨て置かれるか悪徳警官の小遣い稼ぎで売り払われるのが目に見えている。 卵としては大型だが、所詮卵は卵。個人で捌きやすいサイズであることは疑いようもない。 結局、一分の逡巡の後、レッドフードはひとつだけ捨て置かれた卵を拾って帰ることにした。近くにセーフハウスがあるのも大きな理由だ。預けるなら警察ではなく、信頼できる牧場か動物園あたりだろう。どうなるかはまだわからない。 ひとまずは持ち帰って、大型水槽に保温電球とサーモスタット、USBファンと湿温度計を組み込み、底にタオルを敷いた。中に卵をいれれば、自作孵化器の完成だ。鳥類の孵化に最適な温度は大体三十七.五度。卵自体が定期的に動くことから察するに、転卵はすでに行わなくても良い状況だろう。 意味もなく水槽のガラスを叩くと、オレンジ色の明かりに照らされた卵がまた微かに動いた。 なんだかこちらのアクションに反応してくれたような気がして愛着がわく。 悪い癖だと自覚しつつ、ジェイソンは小さな声で呟いた。 「元気に生まれてこいよ」 せめて孵化までは見守ろうと思っているのだから、自分の甘さには閉口せざるを得ない。目を付けていた事件に突然警察が介入してきて、欲求不満になっているせいもあるのだろうか。今更上げた拳の下ろす先がないからといって、なんでもいいから成し遂げたいなどと青臭い願望を抱くとは思えなかったが、冷静な思考とは裏腹に、せめてこの卵だけはと思ってしまうのだから始末に負えない。 なんだかくすぐったい気持ちを抱えたまま、ジェイソンはセーフハウスのどこにいても見える位置に孵卵器を置いてベッドの中にもぐり込んだ。 目を瞑ってすぐ、まもなく殻を破って出てくるだろう雛の餌を準備できていないことに気づき、明日すぐに買いに行かなければいけないと思った。 せめて今日の夜出てくることは避けて欲しい。設備を整えていない。預け先を見つける前に雛が生きていられる最低限の環境を作らなければならないと思い至ったジェイソンは、結局いろいろなことが気になるせいでうまく寝付けないままだった。 いたずらに時間が過ぎていき、浅い眠りと目覚めを繰り返してはカーテンの隙間から見える景色が少しずつ変化していく。 時計の短針が四時を過ぎた頃。朝日が昇ってすぐにジェイソンはティムにメールを送った。卵の写真を添付して『詳しい種類と雛の飼育に必要な一切を教えて欲しい』というと、三十分後に通信が入る。 プライベート用の携帯電話から、不機嫌そうな義弟の声が聞こえてきた。 『朝っぱらからなにごとかと思ったら、ダチョウの卵なんて育ててどうする気だよ』 「文章打つのが面倒で電話してきたのか? 若いみそらで少し年寄りくせぇんじゃねぇの」 『貴方が何考えてるか文章だけでわかる人間がいたら是非お目にかかりたいね』 「声があったってお前以外はわかりゃしねぇさ」 『寒いリップサービスはやめろよ。その卵どうしたのさ?』 「昨日動物密輸しようとしてる奴らと一悶着あってな。他は警察に回収されたんだが、これだけ残った」 『それで貴方が育ててるの? 卵の大きさはダチョウみたいだったけど、どうやら特大のカッコウの卵でも拾ったみたいだね』 「そういうなよ。俺もこの卵はダチョウだろうと思うんだが、卵の特徴が少し違うように思う。それと、詳しい飼い方と必要な設備があったら教えてくれ。結構頻繁に動くからそろそろ孵ると思うんだ。あんまり目が離せねぇ。準備が必要ならとっとと済ませたい」 『相棒にでもするつもり?』 「まさか。孵化して落ち着いたらマトモな場所に預けるさ」 電話口でティムが嘆息し、ジェイソンの耳元にノイズが走った。長く息を吐き出した義弟はやがてそのままの調子で息を吸い込み、今度は呆れの色を強く出した声とともに息を吐く。 『あなたって……いや、いいけどね。それが貴方の良い所だ』 「俺に生意気な口聞くなんざ、十年早ェぞ」 『僕が生意気なのはいつものことだろ。教えるからメモとって』 「おいおい、データ送ってくれよ」 『詳しいことはあとでまとめてデータ送るよ。とにかく、エサはペットショップで買えるからそれを買って。卵はもう孵卵機に入ってるんだろ?』 「おう」 『預け先の候補も僕が調べておくから、後でデータ確認してよ。雛が孵ったら連絡して』 「悪ぃなティミー」 『いいよ、貴方が人に頼るなんてあんまりないから』 数分の短い会話の後、ジェイソンはすぐさまサイフだけをもってペットショップに駆け込んだ。 義弟に言われた通りのものを買い、セーフハウスに戻ってまだ卵が孵らないことを確認したあとパソコンの電源を入れる。 ティムは宣言通り詳細なデータを送信してくれており、預け先候補として上がった五つの施設について、現在選定中と丁寧な注意書きがしてあった。 憎まれ口を叩きはするが、なんだかんだ言って人が良いのだ。ティム・ドレイクという男は。 無表情のまま黙々と調べてくれているのであろう弟を想像して思わず笑ってしまったジェイソンは、その日の予定が白紙なのを良いことに一日中卵の傍にいた。すぐ孵るかと思われた卵は結局一日中微弱な動きを繰り返すだけで、ヒビの入る様子すら見られない。 検卵した際見えた中身は鳥の雛だったのだから、温度は三十七度で合っているはずだ。湿度も二十%を保っており、問題はない。自然界では二%と言われるダチョウの雛の生存率は、人間が人口管理することによって二十%、環境が完璧であれば五十%まで上昇する。 問題はないはずだ。 心の底にうっすらと広がる不安を振り切るように、ジェイソンは卵に向かって話しかけた。 「名前どうすっか。女だったらアシュリーで、男だったらダニエルでぇ、わかんなかったらジェシーな。どうよ」 卵がまた微かに動いたようだった。なんだかこちらの話を聞いているような気がして微笑ましくなってくる。実際そんなことはあり得ないのだが。 結局ジェイソンはその日も卵が孵化するかどうか気になって、夜は浅い眠りを繰り返すに留まった。 朝起きてもやはりヒビが入った形跡すらなく、すこし重い体をベッドに投げ出したまま思わず苦笑してしまう。 「お前は本当目が離せねぇなぁ」 今この命を見守ってやれるのは自分だけだという妙な責任感があった。多くの人間を救う為に犯罪者と戦っている時よりもはるかに重圧を感じる。 この両手に確かに、自分だけが守ることの出来る命が乗っている。 確かに重いが、悪い気分ではなかった。 ただ、そうは思っていても命の問題だ。思い通りにならないのが現実で、結局微かに動く卵は、その日も特に変化のないまま夜を迎える。ジェイソンはまた浅い眠りを繰り返しながら朝を待とうと思っていたのだが、その目論見は突然入ってきた通信のせいで変更を余儀なくされてしまった。 通信の相手はナイトウイング。初代ロビンで、ジェイソンの義兄に当たる男だった。 『ジェイソン、今ゴッサムでマフィア同士の小競り合いが起こってるのは知ってるだろ?』 開口一番そう尋ねてきた男の声音はどこか固い。奥がなにやら騒がしいので、仕事現場からかけてきているだろうことが窺えた。 「ああ。そのせいでゴッサムの港は入居希望者が溢れかえってやがる」 卵を持って来た連中も、件の小競り合いに紛れてゴッサムに紛れ込もうとした連中だった。ジェイソンが皮肉を込めて返答すると、ディックが受話器の奥でふふ、と笑う。なにが楽しいのやら。 『今日はいつもより暴れてる連中が多いんだ。街のそこかしこで好き勝手してる。鎮圧を手伝って貰えないかと思ってさ』 「警察とおまえらだけで充分だろ」 『忙しいのか?』 ジェイソンは思わず卵のほうを見た。大型水槽に入った白い塊がまた微かに動いたように見えて、言葉に詰まる。 忙しくはない。卵にも異常はないし、二日や三日留守にするわけでもないから問題はないだろう。仕事中に卵が孵ったとしてもおそらく問題はない。義兄の持って来た依頼は、それほど時間のかかる仕事ではない。 「……わかったよ。とっとと片付けてやる」 『ありがとうジェイソン、恩に着るよ』 「白々しいな。やめろよ、気持ち悪ぃ」 ユニフォームを着込んでホルスターをベルトに着けると、なぜかいつもより重く感じた。振り返り、まだ水槽の中に鎮座している球体を見つめる。 「……俺のいない間に、孵るんじゃねぇぞ」 当然、卵からの返答はなかった。もとより期待などしていない。 指定された場所に出向くと、五人ほどのチンピラが楽しそうに銃を撃ち合っていた。既に地面に三人ほど倒れていて、そちらは動く気配がない。死んだのだろう。 このまま数が減るのを眺め、生き残った人間を始末するのが一番楽な方法だが、バットファミリーからの依頼である以上そういった手抜きは許されない。 殺すのもままならないのだから厄介な仕事だ。できれば危険手当を五割増しで要求したい。 まず煙幕を落として全員の視覚を奪った後、マシンガンを持っている男の背後に着地して武器を奪う。 「なんだぁ!?」 相手が戸惑っている間に銃底で頭部を殴打し、昏倒させた。 フルフェイスマスクのサーモグラフィー機能で敵の位置を確認すると、わざわざ実弾と入れ替えてやったゴム弾を両膝に当てて動きを止める。 地面に跪いた敵の顔面を右手で掴み、後頭部をコンクリートに叩きつけ動きを停止させた。 物音で、すぐ近くにいた女がレッドフードの存在に気づく。 「そこかッ!」 煙の中に一瞬、赤い火花が散った。 パンッ、と爆ぜる音がしてジェイソンの左肩に鋭い痛みが走る。弾丸が腕に擦ったようだ。 油断した。 小さい舌打ちのあと、弾丸が放たれた方向に対して引き金を引く。飛び出すのは鉛玉ではなくゴムの塊だが、煙の向こうでは 「がっ」 と短い悲鳴がして、直後重たい音がした。女は地面に倒れ込んで動かない。足で細い肩を軽く蹴り、敵が気絶したのを確認したら、残りはあとふたりだ。 路上駐車された車の後ろにひとりと、気絶した女の五メートル後方にひとり。 まず近い方、路上で立ち尽くす男に近寄るも、相手は煙のせいでジェイソンを視認できていなかった。 「なんだよ、おい、誰かいねぇのかよ!」 情けなく悲鳴をあげる男に対し 「こっちだぜ」 と返答してやると、敵は絶望しきった様子でひぃ、と悲鳴をあげた。仲間の声でないことは混乱した脳味噌でもわかったらしい。 無防備な首筋に右足を叩き込んでやると、男の体が三メートルほど真横に吹っ飛んだ。彼の体はコンクリートに叩きつけられ、その度ぐぅ、とかぐべ、とか情けない悲鳴が漏れる。 空気が抜けて飛んでいく風船だなと思うと、知らず口元に笑みが浮かんだ。 「そこで寝るなら車に轢かれねぇように気をつけな」 当然、夢の中にいる男から返答はない。 敵がひとりになったころにはすでに煙幕は大分薄くなってきて、敵の男もレッドフードを視認したようだった。 「てめぇっ! れ、レッドフードッ!」 「おう。有名人にあえてよかったな」 逃がすわけにはいかないのでグラップネルガンを使い車のボンネットまで飛んでいく。敵はジェイソンに背を向けて走り出したが、その肩を無理矢理掴んでコスチュームに仕込んだスタンガンを起動させた。 バチリと青白い火花が光り、男の体が硬直したまま飛び上がる。人形のような軽さで歩道まで吹っ飛んだ男の頭を軽く蹴って仕事は終了した。 左の肩が痛い。それほど深い傷ではないが、銃傷なので早々の手当てが必要だろう。 気絶した悪党を全員丁寧に縛り上げた後(残業手当が必要だ)グラップネルガンを取り出したところで背後から聞き覚えのある声がした。 「ジェイソン! ここ、全部片付けてくれたのか」 ディック・グレイソン。ナイトウイングとしてヒーロー活動をするジェイソンの義兄だ。今日も無駄に整った顔にドミノマスクをつけてせっせと"ダディ"のために点数稼ぎといったところか。 「テメェが押しつけた仕事だろうが」 「全員殺さないで、拘束してくれたのか」 「危険手当と残業代上乗せで払えよ」 「傷の手当ても追加でどうだ?」 ディックの指がジェイソンの左肩を指した。まだ血が流れている。しかし、手当てとなればバットケイブへいくことになるだろう。バットマンが顔をだして何か言いたげに低く唸り、バットガールが顔をだしてトゲ付の小言を吐き捨て、ロビンが顔を出して小生意気な皮肉を言う。ディックが手当てをするとなれば、この男はわざとらしく丁寧に時間を掛けて処置をするに決まっていて、その間にアルフレッドが紅茶と菓子を出してきて包囲網を完成させてしまうだろう。 正味二十分ほど時間を浪費することになる。 卵のことが気がかりだったジェイソンは 「それはいらねぇ」 と短く答えてグラップネルガンの引き金を引いた。 「おい、レッドフード! そのまま帰るつもりか!?」 足もとでグレイソンの声がする。すでに答える気もないジェイソンは、痛みを無視してセーフハウスへと急いだのだった。 屋根から屋根へ飛び移るうち、徐々に胸の中が妙な不安に支配されていく。仕事自体は三十分程度で片付いたから、卵から目を離したといってもごく僅かな時間ではあるのだ。 問題はないはずで、だからこそ彼は仕事に行った。 なのになぜこんなに不安なのだろう。 窓から転がり込むようにセーフハウスへ入り、床に膝をついた状態で顔を上げる。傷ついたまま動かした左肩は痛みを増していたが、卵の状況を確認したら手当てをしようと思っていた。 視線の先。オレンジ色の電球に照らされた、大きな水槽。 白かった筈の卵が、どす黒く変色していた。 「は……」 思わず、マスク越しに短い声を発し、硬直する。 ゆっくりと立ち上がり、水槽の周囲をぐるりと一周してみても、黒く変色した卵にはヒビすら入っておらず、中身が孵った様子はない。 心臓の音がうるさかった。耳元でドクドクと脈の音が聞こえてくる。石を丸呑みしたような違和感が腹部を襲い、手足の末端が軽い痺れを伴う。 そもそも卵の殻がこれほど広範囲に渡って変色する事態などあるのだろうか。 持ち上げて観察してみても、変色以外変わった様子はない。 ただ、今まで頻繁に動いていた卵が、今は動く様子がなかった。 両手で黒くなってしまった塊を抱えて一時間ほど立ち尽くしていたジェイソンは、秒針の音を聞きながら壁に背中をつける。 もう動かない卵を抱え、そのままズルズルと座り込んだ。 死んでしまった。 卵が死んでしまった。 俺が目を離したばっかりに。 薄氷色の瞳孔が天井を見つめ、微かに開いた口から短い吐息が漏れた。 左肩が痛い。血が出ている。止血する気は起きなかった。 ジェイソンはまだ痛みを感じるからマシだ。黒ずんだ卵の中にいたはずの雛は、もはや痛みさえ感じない。 どうやっても取り返しの付かない事態を前にして、目頭が熱くなるのを感じた。 マフィアの小競り合いなんて、手助けするのは誰でもよかったはずだ。卵のことはジェイソンしか気に掛けてやれないのだから、こちらを優先すればよかったのに。 今となってはなにもかも遅い。 卵は動かず、孵卵機から取り出したせいでどんどん冷たくなっていった。 なにもできない。ジェイソンはただ、後悔の渦の中でバカみたいに卵を抱えることしかできなかった。 「わかってんだよ……どっち選んでも、多分結局後悔してた。正解なんてねぇんだ……どれを選んでも、結局間違いばっかりだ」 腕の傷が熱を持ち始めたのがわかる。これが体全体に回るまで大した時間はかからないだろう。 視界が霞んできた。 弾丸が擦ったくらいで体調を崩すような、ヤワな鍛え方はしていないはずなのだが。 精神的に参っているからだろうか。 自嘲気味に笑ったジェイソンは、地面に押しつけられるような脱力感とともに目を瞑る。 もうなにも考えたくない。 体が信じられないくらい重かった。 「俺は、なんで……こんな小さいモンすら、守り切れねぇんだ……」 吐き出した言葉は静寂に溶けて消えてしまった。 同時に、セーフハウスの扉がノックされ、ジェイソンが返事をしないうちに勝手に開く。 飛行機能のついた赤いマントに、赤いドミノマスク。スーツは赤と黒を基調としており、胸元でベルトが交差している。 ティム・ドレイク。 レッドロビンという名でヒーロー活動をしている、ジェイソンの義弟だ。 彼は座り込んで卵を抱えたジェイソンを見るなり大股で義兄に歩み寄り、つけていたドミノマスクを乱暴にはぎ取って声を荒げた。 「レッド! 貴方自分の傷ほっぽってなにしてるんだよ!」 そういえば昨日帰ってから着替えてすらいない。左肩がやけに重かったのは、布が血を吸ったからのようだ。 「ティム」 「レッド、昨日様子がおかしかったし、今日はセーフハウスから一歩も動いてないからどうしたのかと思ったんだよ。どうしたんだ、らしくないじゃないか、なんで」 「ティム、卵が死んだ」 義弟の動きが一瞬止まる。彼は眉尻を下げて目を細めた後、険しい顔をしてジェイソンを見下ろした。 「だからなんだよ! アンタまで死にたいのか!?」 右腕を無理矢理掴まれ、立たされる。卵が腕から落ちて床に転がった。ジェイソンの視線が卵を追う。ティムの視線も一瞬床の塊に移動するが、彼はすぐに目を逸らしてジェイソンを椅子に座らせた。 ジェイソンのジャケットとアンダーを脱がせ、馴れた様子で傷口を消毒していく。 ティムが傷口から眦を逸らさず口を開いた。 「貴方がこの卵にそこまでご執心とは、予想外だよ」 「見てたらなんか、愛着沸いちまってな……」 自分でも笑ってしまうほど覇気のない声だとジェイソンは思う。ティムも同じ事を思ったらしく、少し気遣わしげにジェイソンを見た。 ふたり同時に視線を部屋の隅へ移すと、ダチョウの雛用のエサが一袋だけ置いてある。 ジェイソンはそこから視線を外せなくなり、横顔にティムの視線を感じながらぼんやりと目を細めた。 「ダチョウじゃなかったのかな。湿度が間違っちまったのかな。転卵、したほうがよかったのかな。なんでもっとちゃんと調べてやんなかったんだろうな。それとも、自分で育てるなんて言わねぇで、ちゃんと専門家のところに持ってってやったほうがよかったのかな。他に出来ることがあったんじゃねぇかな。なんであの時目ぇ離しちまったんだろう。それまで元気だったのに、なにがあったんだろう。俺がその場にいたら、なんとかしてやれたんじゃねぇかな」 ジェイソンの腕に包帯を巻き終わったティムが、兄の肩を軽く叩いて床に転がった卵を拾い上げた。 「そりゃ、貴方の気持ちもわからなくはないけど、起きたことは仕方がない。それに、貴方の言ってることはすべて結果論だよ。貴方が思いつく限りの方法でこの卵のためになにかしたとしても、だから百パーセント生きてるなんて保障はどこにもない」 「わかってるよそんなこと。だけど」 「だけどもなにもないんだよ。傷の手当てもしないでそんなこと考えてたら、本当に死ぬから」 ピシャリと言い捨てられ、ジェイソンは思わず俯いてしまった。 兄だというのに、情けない。 「俺に説教なんざ、十年早ぇんだよ……」 「僕らそんなに年離れてないだろ」 そうしてティムのサファイアに似た瞳孔が再び卵を見た。彼はしばらく黒ずんだ球体を見つめていたが、やがて眉尻を跳ね上げ、口をへの字に曲げて黒い塊を鼻先に近づける。 ジェイソンは不思議に思って彼の様子を見ていた。数秒卵を凝視していたティムは、やがてその体勢のままジェイソンに話しかける。 「ねえ、検卵した?」 「ああ。もう雛の形が出来てたから、てっきりすぐ出てくるもんだと思って」 「ふーん」 ティムが卵から顔を離す。彼は強く黒い楕円を握りしめ、ジェイソンが首を傾げているあいだに、止める間もなく地面に叩きつけた。 ジェイソンが思わず悲鳴を上げる。 「なに考えてんだテメェ!!」 「その前にまず中身を見なよ」 バラバラになった黒い破片。その中央に、ちゃちな雛のぬいぐるみが落ちていた。ガムテープでぐるぐると盗聴器らしきものがくくりつけられている。 ジェイソンは思わず言葉を失い、ただ床に落ちた無機物を睨み付けていた。 ティムは冷たい目線のままぬいぐるみを拾い上げる。どうやら盗聴器は定期的に振動する機能がついているようだった。 「貴方が捕まえた密売組織、どこかに盗聴されてたみたいだね。摘発目的の警察なのか、ライバル組織なのかは知らないけど」 「そういや……やけに、警察の動きが速かったな……」 「そう。じゃあ警察が既に探りを入れてたのかな」 「回収し忘れたってか? 間抜けな話だな」 「その回収し忘れた罠にまんまとひっかかった人間が言う事じゃないね」 ティムがぬいぐるみから当直をはぎ取り、腕につけたデバイスで逆探知を始めた。モニターが中空にいくつも表示され、そのうちのひとつに映された地図に赤色の点滅が示される。 「……警察関係の施設じゃないな。ブルードヘイブンの貸倉庫だ」 「どこだ。今借り主調べる」 「ビークストリート三四五六番地の七九番倉庫」 「警察の情報網にゃ乗ってねぇな。倉庫の持ち主はニューヨークの不動産屋だ。ベタニア・ビジャベルデ」 「彼女、裏で毛皮なんかの違法取引をしてるね」 「クルエラ・ド・ヴィルかよ」 ティムが画面から視線を外し、ジェイソンを見た。 「ねえ、貴方の仕事に横やりいれてきたのって、本当に警察だったの?」 反論しようとして、ジェイソンは思わず口を噤んでしまった。その間にも調査を進めたティムは、やがてデバイスの電源を落として義兄の肩を叩く。 「レッド、ブルードヘイブンへいこう」 [しおりを挟む] 目次 戻る |