誓約

裏路地


「お前の墓の前で話したけど、当然お前は覚えてないんだろうな。聞こえていたかも怪しいし、もう一度話しておくよ」

 ブルードヘイブンの路地裏に黒と青のスーツを纏った男がいる。この街の守護者・ナイトウイング。彼に電流の流れるエスクリマ・スティックを突きつけられているのは、赤いフルフェイスマスクを被った男。レッドフードだ。顔全体を隠しているため表情はうかがい知れない。多少ナイトウイングより高い位置から黒髪の男を見下ろしていた。

「何をだよ」

 見下ろされているナイトウイングは目元のみをドミノマスクで覆い隠し、口元にゆるやかな笑みを浮かべている。

「ジョーカーのこと。お前があいつを殺そうとしたって聞いた時はヒヤヒヤしたよ。僕の獲物だ、手を出すな」

「笑える冗談だな。今までのうのうと生かしといて、お前の"獲物"? これまでにあいつが何人殺したかわかってんのか? 獲物だっつーんなら今すぐとっ捕まえてブチ殺せよ。それともやっぱり怖くて殺せないか? 俺がもう一度殺されたって、テメェはジョーカーを殺したりしねぇんだろ」

 ナイトウイングの――ディックの口元から笑みが消えた。

「そんなことさせない。ジェイソン、お前はもう死なせない」

 絞り出された言葉はひどく冷たかった。感情を無理矢理押し殺したような無機質で張り詰めた声。一瞬気後れしたジェイソンは、背筋に這い寄る悪寒を無視して兄を見据えた。ディックは弟の心情を読み取ったのか、すぐにまた笑みを浮かべて語りかけてくる。

「なあ、わかるだろ? 僕やお前がジョーカーを殺したところで罰になんかならない。バットマンが"負けた"って言って笑うだけだ。もちろんバットマンがあいつを殺したってあいつは喜ぶ。僕やお前が殺すよりもっとずっと喜ぶだろうな。完全な"バットマンの敗北"だ。僕はあいつを喜ばせる気も楽しませる気もない。お前だってそれは本意じゃないだろう?」

 言い聞かせる様にゆっくりと喋る。昔と変わらない口調が嫌いだと思った。いつまで兄気取りなのだろうか。いつまでジェイソンを"弟"扱いすれば気が済むのだろうか。ジェイソンの時間が、あの死んだ瞬間から止まっているとでも思っているのか。血のつながりも無い、もう一度死んでいる人殺しを、いつまでも家族扱いする。死んだって復讐すらしてくれないクセに。とっとと新しい駒鳥を見つけていたクセに。家族ごっこがしたいならそっちを弟扱いすればいい

「じゃあどうすんだよ? アーカムにぶち込んでおくってか? そんなもん、捕まえたら逃げ出すの繰り返しじゃねぇか。おまえらが決断しない間にまた人が死ぬ」

「なあジェイ、逃げ出されなきゃいいんだよ」

「だからそれが無理なんだっつってんだろ!」

 綺麗事しか吐き出さない"長男"がジェイソンは嫌いだ。大きな影が自分に覆い被さっている。自分はこいつの変わりでしかないのだと思うことが何度もあった。1代目と違ってデキの悪い2代目は、さぞやバットマンを落胆させたことだろう。だからあの蝙蝠は、2代目が死んだ途端変わりの3代目を見つけてきたのだ。

「100%はない! お前らが1番よくわかってるはずだ! あいつら生きてる限り同じ事をするぞ! "死刑"がないならぶち込まれるぐらい安いもんだと思ってる! 似たような奴をお前は何人捕まえた? 同じ犯罪者を何回アーカムにぶち込んだ? ブラックゲートはどうだ? どこもかしこも、再犯と脱獄囚で溢れてやがる! あいつらが逃げ出す度にまた被害者が出る! わからねぇなら教えてやる。あいつらはな、死ななきゃやめねぇんだよ!」

 クライムファイターのジレンマだ。不殺を掲げる連中はいつも同じことを繰り返す。痛いところを突かれたはずのナイトウイングは、しかし口元の笑みを消さず優しい声色でジェイソンに語りかけてきた。

「ああ、ジェイ。一度一線を越えたら限度がなくなる。僕らは融通が利かないくらいでいないと、いつか冤罪が生まれるぞ。罪を裁くのは司法の仕事だ。正式な手続きと正式な検証がなければ、断罪はただの暴力になる。"わかりきっているから手続きは必要ない"じゃ、いつか絶対に、不確定要素があっても正式な手順を省略する奴が出てくるだろう。それに、話が食い違ってる。僕はあいつの犯罪を止める話をしてるんじゃないんだ」

 喉元につきつけられたエスクリマ・スティックがバチリと小さく放電した。青白い光がジェイソンとディックを照らしすぐかき消える。
 強い光で目が焼かれ、ジェイソンは一瞬、兄の表情を捉えることができなくなった。
 だから彼には、ディックがどんな表情でそれを言ったのかがわからない。

「僕はあいつに復讐する話をしてるんだよ」

 一瞬何を言っているのかわからなかった。言葉を認識するのに数秒を要し、それでも完全に理解できたとは言いがたい。

「復讐? なに言ってんだお前」

 ディックに似つかわしくない言葉だ。そもそもジョーカーを自由にしている状況でどんな復讐をすると言うのか。

「テメェ、俺の注意を逸らしたくてそんなこと言ってんなら本当に撃ち殺すぞ」

「失礼だな。本気で言ってるんだ。考えても見ろよ。あいつが1番嫌なのはなんだと思う?」

 目が暗闇になれてきて、ジェイソンの目でもディックの表情を拾えるようになった。彼は笑っている。ジェイソンの喉元にエスクリマ・スティックをつきつけて。ジョーカーへ復讐するなどと嘯きながら、いつも通りの笑顔を浮かべている。

「殺されることでも投獄されることでもない。あいつはあいつの世界が壊れることを1番嫌う。あいつの世界の全て――あいつの理想の"バットマン"」

 ジェイソンのヘルメットにコンバットスーツ越しの手が触れた。ヘルメットの開閉スイッチを押され、顔が夜の空気に触れる。ディックの指がゆっくりと頬を撫でた。意図が読めない。行動も言葉も笑顔も、ディックのすべての意図が読めないでいるジェイソンに対し、男がそっと、まるで大切な秘密を打ち明けるかのように小さく囁いた。

「あの道化が嫌悪するのは、"王が王で無くなること"だ」

 マスク越しに青い目が笑みを作る。そんな顔をする男だったか。
 そこでジェイソンは、時間が止まっているのは目の前の男だけではないことに気がついた。自分の中でも、ディック・グレイソンという男は"兄"の姿のまま止まっている。
 笑えない冗談だ。
 ナイトウイングの指が自分の喉を辿っていった時、自分の兄はもうこの世界のどこにもいないのではないかという疑念にとらわれた。
 笑えない。救えない。
 目の前の男が一体なんの目的でこんな所作を繰り返しているのかジェイソンには理解できなかった。

「あいつが夢見る"孤高の王"が、"家族と仲間に囲まれた正義のヒーロー"になった時、孤高の王は無残に殺される。僕があいつの王を奪ってやる。あいつの1番大切なものを叩き潰して、王にとってかわる正義のヒーローをあの道化の前につきつけてやるんだ。僕からお前を奪ったあいつの、1番大切なものを僕が奪ってやる」

 青い目が暗闇でギラギラと輝いている。まるで獣……いや、犯罪者か、復讐者か。
 背筋を走る悪寒が酷くなった。自分の喉元に放電する棍棒を突きつけた男が憎悪に染まった目つきをしていればそうなる。しかも相手は自分のよく知っていた人間だ。そんな顔をするなんて夢にも思わなかった"良い子ちゃん"が、ジェイソンすら尻込みするような殺気と憎悪の混じった気配を発している。
 彼は仮面のような笑顔を貼り付け、羽根のように軽く優しい声を出した。

「そのために準備だってしてるんだ。あいつにはただ死ぬなんて生ぬるい。いくら殴ったって切り刻んだって足りやしない。僕からお前を奪ったあいつは、誰もこない暗闇の中で人に忘れ去られて、『ジョーカー? そんな奴いたね』なんて言われるようになった頃、ようやく年老いて寂しく死んでいくくらいじゃないと
 ディックの人差し指がジェイソンの首に触れている。
 誰も来ない暗闇。ジェイソンはその言葉で思い出したことがあった。アーカム・アサイラムの警備見直し計画。監視システムのオート化。地下の特殊独房建設計画。全ての立案にディック・グレイソンの名前もナイトウイングの名前もなかったが、もし裏で糸を引いているのがこの男だとしたら。

「……てめぇ……」

 妙な圧迫感のある喉を鳴らして唾を飲み込む。開かない声帯を無理矢理震わせ言葉を絞り出した。

「ジョーカーにイヤガラセするためにブルースまで利用するつもりか?」

「そういう言い方はよしてくれ。僕は元から、ブルースには仲間と家族が必要だと思ってた。だからロビンにだってなったし、今まで彼に協力してきた。彼のためなら死ねるっていうのも本気だし、それはずっと変わらない」

 強化素材のグローブに包まれた手がヘルメットに手をかける。とっさに振り払おうとして腕を掴まれた。腹の立つほど整った顔が思い切り近づいて来る。遠い昔の記憶と違わない、彫刻のような造形。作り物のように美しいのに、青い目だけが生々しい憎悪と怒りに輝いている。

「僕は彼の為なら死ねる。だけど」

 それだけか? 目の中にあるのは

「だけどね、ジェイソン」

 もっと生々しい光がないか。あの青い目の中に。それこそジョーカーとよく似た、狂気に似た光はないか。

「僕は君のためならヒーローをやめたっていい」

 憎悪と怒りの奥にある、あれは執着ではないのか。
 背筋にまた悪寒が走った。
 誰に対する執着なのか。ジョーカーか、バットマンか、それとも。

「僕がアイツに、『最低』だと言われたとき、どんな気分だったと思う? バットマンの偽物の中でも最低だってあいつは僕に吐き捨てた。『王を軟弱者に変えた元凶』だとさ」

 ディックの笑みが深くなった。こんな暗い顔を――する男だったのだろう。ジェイソンが知らないだけで。それとも会わないうちになにかが彼を変えてしまったか。
 原因に心当たりはあれど、口に出すのも思い浮かべるのも恐ろしかった。

「笑いを堪えるのに必死だったよ! これで僕があいつを捕らえれば――バットマンを差し置いて、王を堕落させた反逆者があいつを捕らえたら、そのせいであいつが"王"の興味を失えば、あの道化、どれだけ悔しがると思う? どんなに絶望すると思う? それが、あいつの残りの人生分ずっと続くんだ!」

 笑えない冗談だったらどれだけよかっただろうか。本気な分タチが悪い。
 あの狂気じみた目も笑顔も本気だからこそ始末に負えなかった。

「僕はお前の墓の前で誓ったんだ。あいつに、あいつが1番嫌悪する方法で復讐してやるって。僕からお前を奪ったあの道化の大切なものを永遠に奪い去ってやるって」

 始末に負えないと言えば、マスクを開けられて好きなように触られているままの自分も始末に負えない。
 目の前の男をなんだと思って何を期待しているのだろうか。
 まだ兄だと思っているのか。復讐するつもりだと聞いてなにを思ったのか。

「だからもう一度、生きてるお前に誓うよ。あいつに、あついが1番嫌悪する方法で復讐してやる。あの道化の大切なものを、僕が永遠に全て奪い去ってやる」

 背筋にまた悪寒が走った。
 笑えない。どうしようもない。

「待ってて、僕のLittle Wing」

 救えない。俺も、コイツも。
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美しくなんて死ねると思うな