1「君はあいかわらず素晴らしい」 膨れ上がったソーセージのような指が男の肌に触れる。 指のすぐ先で、赤い唇が半月型の弧を描き、隙間から聞き心地の良いバリトンボイスが漏れた。 「そりゃどうも。またご指名お願いしますよ」 彼の言葉を聞いて、太った指が男の喉元を擽る。男は不快な様子も見せず、笑みを浮かべたまま相手を見つめていた。 「あいかわらずつれない男だ」 「それがいいんだろ?」 一糸まとわぬ裸体が、ベッドの両脇に設置された間接照明によって闇の中に浮かび上がっている。鍛え抜かれた体は彫刻のように美しく、理想的な形でついた筋肉が体に濃い影を落としていた。腕や腹部の隆起は青白い光を妖しく反射し、健康的であるはずの体がひどく淫靡なものに見える。 光の反射で部屋を映す大きな窓が彼の背中を夜景の中に映していた。部屋の壁はベッドの背面以外大きな窓になっており、まるで三面鏡だ。鏡は部屋が夜景の中に浮かんでいるような錯覚をもたらした。空中庭園のようなベッドルームで裸体を惜しげもなく晒す男は世界の支配者であるかのように堂々としていたが、同時に淫奔な空気を纏っている。 中年男の喉がゴクリと音を立てて上下した。肉に埋もれた目に欲情の色を映し、風船のような指が男の喉元からゆっくりと移動して裸体の肩を撫でる。赤子のように膨らんだ腕が、筋肉のついた逞しい手によって受け止められた。 「残念だけど、お客さん」 蕩けるようなバリトンボイスが中年男の耳朶を打つ。アイスブルーの目は気だるげに、しかし優しげに笑っていた。 「もう時間切れだぜ。続きはまた今度な」 こうして中年男の夢は終わり、後には柔らかな光に浮かび上がる部屋と裸体の男が残された。 彼の名はジェイソン・ピーター・トッド。 広さ二百九十メートルの"スイートルーム"で春をひさぐ男娼である。 ホテルの客室としては破格の広さを誇る空間に、バスルームとトイレはもちろん、リビング・ダイニング・キッチン・書斎・ベッドルーム、果てはプールつきの中庭を備え付けた部屋はホテルというより豪華なアパートの一室と言ったほうがいいだろう。そこがジェイソンの仕事場だ。 インテリアは落ち着いたワインレッドとオフホワイトでまとめられており、多少性的興奮を煽る狙いが見え隠れするものの、リラックスできないというわけではない。一仕事終えた後、ベッドルームに設置された巨大な窓から茫然と夜景を眺めるのがジェイソンの日課だった。 今日は雨が降っているため、窓ガラスにいくつも水滴がついている。新しい雨が体当たりしてくる度に、今までガラスにしがみついていた水滴が重力に従い流れていった。耳鳴りに似た雨音は、おそらく朝方まで続くのだろう。夜雨は自分の発する音以外のすべてを吸収し、いつもより静かな時間を連れてくる。薄らぼんやりとした明かりの中雨音の静寂に身を委ねていた男娼は、部屋の扉付近から響く声で突然現実へと引き戻された。 「大変だ! ジェイソン、なぁ、大変なんだ!」 まだ若い少年の声。〈ホテル〉に併設されたレストランで皿洗いをしている子供だったが、稀に男娼や娼婦の小間使いのようなこともする。この部屋にすっ飛んできたということは、それなりのトラブルがあったということか。 ベッドに座り込んでいたジェイソンが立ち上がり、裸のままベッドルームを出る。 「なんだよ、次のババアの予約までまだ時間あんだろ」 男娼が汗ばんだ髪を乱暴にかき上げた。扉の前に佇んでいた少年が一瞬だけ肩を震わせ口を開く。言葉を落とすまでに過呼吸を思わせる派手な音が何度か響き渡り、ジェイソンはよほどの異常事態が起こったのだと悟った。 顔を上げて少年をよく観察すれば、なにかに怯えたような、信じたくないものをつきつけられたような表情でジェイソンを見ているではないか。 「フランが、フランが殺された」 その言葉さえも、雨が洗い流してくれればどんなによかっただろう。 胃を殴りつけられたような衝撃が走り、一瞬だけ目が回る。混乱しかけた脳を無理矢理落ち着けた男は、少年の傍まで歩いて行って乱暴に頭を撫でた。 「誰が見つけた?」 「ヴィルだよ。今店に来てる」 「他にも今日フランと関わった奴集めとけ。話を聞く。通報は朝まで待ってろ」 「わかった」 短い業務連絡の後、少年が即座に部屋を飛び出す。ジェイソンも次の客で仕事は終わりだ。ヴィルにはもう少し待ってもらうことになるが、向こうも承知の上だろう。 少年の背中を見送ったジェイソンは、重い足取りでベッドルームへと戻り再び夜景に目をやった。雨の中にビルや道路の明かりが揺らめいている。間接照明のせいで、外の景色の中に自分の姿が浮かんでいた。 拳を握りしめる。 幽霊の如く半透明になった自分の顔を殴りつけると、ゴツ、と軽くて情けない音がした。 [しおりを挟む] 目次 戻る |