2 それはもはや人ではなく、幾度も穿たれた肉の塊だった。 昨晩から続く雨のせいで、地面に散らばった金糸の髪に泥の汚れが付着していた。土と一緒にこびりついた赤黒い汚れからは鉄錆の嫌な臭いがする。 黒いショート丈のミニワンピースは無残に引き裂かれ、破れた布の合間から白い肌と赤黒い孔が覗いていた。右頬は肉を削がれ歯茎がむき出しだ。その歯茎にも裂傷があり、歯がいくつか欠けていた。眉間と額の刺し傷が顔の上半分を真っ赤に染め上げ、顔が容易に確認できない。喉から胸部にかけても滅多刺しにされたようだったが、その後さらに傷口を掻き回されたような形跡があった。周囲の水たまりに赤黒い破片が浮いている。左足には足首から膝にかけて深い裂傷があり、骨が折れて太ももから飛び出している。鋭く尖った白い枝の先端に赤い糸をひくタンパク質が突き刺さっていた。足の付け根からヘソのすぐ下あたりまではミンチと形容するのが相応しく、もはや原型を留めていない。性器が特に念入りに傷つけられていたが、同時に暴行の痕跡もある。おそらく生きたまま滅多刺しにされたのだ。 凄惨な死体だが付着した血は少ない。雨が流してしまったのだろう。周囲に生えた草木が薄く赤に染まっている。既に白く膜の張った眼球は感情の名残すらなく、温度のない目が無造作に天を仰いでいる。 現場に駆けつけた警官の誰かが口元を押さえ、呟いた。 「この格好、レッドタウンの娼婦か」 レッドタウンは町の南西にある売春街だ。 アメリカはネバダ州の一部を除き全ての地域で売春が違法とされている。この町も無論例外ではないのだが、マフィアと警察の癒着によって黙認状態にあった。警官ですら娼婦や男娼の客になることがある。ニューヨークやバージニア州であれば、罪を見逃してやる代わりに安く、あるいはタダで抱く、といった行為がまかり通るのであろう。この町が他と違う点はそこにあった。 町で働く娼婦や男娼はすべてレッドタウンに集まっており、この地区の売春行為はすべて黙認される。つまり警官個人の采配は意味をなさないのである。仮に警官がレッドタウンに足を踏み入れて売春婦を捕らえたとしてもすぐに釈放される。FBIすら手の出せない強力なシステムが、町の中ですでに構築されていた。 このレッドタウンを横切って流れるマーゴ川の川べりに、女の死体は横たわっている。 周囲を飛び回るハエたちをロマノフ刑事の手が払った。 「いくらブルードヘイブンだって、こんな死体めったに出てこねぇぞ」 ブルードヘイブンはレッドタウンを有する町の名だ。北をゴッサム、南をメトロポリスに挟まれた港町。ゴッサムシティのベッドタウン的役割も果たしており、だからというわけではないが治安はあまりよろしくない。 ロマノフ刑事は常にブルードヘイブンで起こる凶悪事件に苛立っていたが、今日はことさら不機嫌なようで、現場保持の作業をしていた警官と目が合うと多少荒い動作で手招きをした。 「おいディック! 調査はどうなってる!」 「はいはい、ちょっと待ってくださいね!」 ディック・グレイソン。ゴッサムからブルードヘイブンにやってきた新人警官だ。艶やかな黒髪と青い瞳を持つロマ系アメリカ人で、端正な顔立ちと人なつっこい性格で勤務初日から女性に絶大な人気を誇っていた。 それは本人も承知の上であり、仕事をする上で多少自覚的に利用することもあった。なにせ今回の捜査でも役に立ったくらいだ。彼が野次馬の女性に話を聞いたらすぐに色々な情報がわかった。 「被害者はレッドタウンに住むフランチェスカ・アリエンツォです。年齢は二十三歳。イタリア系移民ですね。昨夜彼女と共にいたところを目撃されたのは今の所男女あわせて五人です。全員"同じ職業"の」 同じ職業。つまり春をひさぐ者。娼婦も男娼も集まるレッドタウンでは横のつながりも強く、また人口のほとんどが売春を生業とする人々であるため、別段珍しいことでもない。 「そうか。じゃあ現場はペッカに任せて、俺たちはその五人に話を聞くぞ」 「僕も一緒ですか?」 いつもなら現場保持であたりを走り回るのが常なのだが。 ディックの疑問を聞いて、先輩警官はチラと青年に目をやったあと皮肉げに笑って見せた。 「お前がいると女は口が軽くなる。もしかしたら、軽くなる男もいるかもしれんだろう」 「あーなるほど」 自覚的にディックの特性を利用するのは、どうやら本人だけではないらしい。血なまぐさい事件現場に背中を向けて、ディックはロマノフ刑事の後を追った。 「で、その五人っての、名前は?」 「えーっと、まず女がふたり。メルチェーデ・コンティンとデルフィナ・フラド。それから男がランナル・ノルバリ、マヌ・ハンスキ、ヴィル・ツェラーの三人です」 「いそいで集めろ」 「了解しました」 ディックが携帯電話を取りだし、同僚に連絡をとる。同時にロマノフの背後を離れ、自分も参考人を呼び出すためにレッドタウンへと向かった。 ここからブルードヘイブンの警察署には車で四十分ほどかかる。レッドタウンの真反対、町の北東部にあるためだ。エントランスをガラス張りにした開放的なデザインは、数年前の立て直しでデザイナーが提案したものらしい。『親しみやすく、開放的な警察を目指して』とのことだったが、実体は汚職と賄賂にまみれた悪徳の手先である。人々もそれは十分心得ていて、街中を走るパトカーはどこか冷ややかな視線を向けられる。 だがディックは、いつか人々に信頼されたいと思っていた。困った時に助けてくれと言って貰えるような存在になりたかった。 警察の信頼が地の底であるなら、あとは警官自身が信頼を勝ち得るしかない。警察は信用できなくても、この警官なら信頼できると思って貰えれば、困った時直接相談してくれるかもしれない。 そのためには職務を着実にこなしていくのが一番だ。 ディックが参考人の五人を警察署に連れて行くと、取調室の前に全員待たせておくよう指示された。どうやらひとりずつロマノフが話を聞いていくらしい。 ディックは記録係だ。 まず部屋に呼ばれたのはメルチェーデ・コンティン。フランチェスカと同じイタリア系移民の女だ。亜麻色の髪を腰あたりまで伸ばしていて、Vネックの服が大きな胸を強調していた。 ロマノフ刑事は艶やかな女の姿に眉一つ動かさず、メルチェーデに席へ座るよう促した。 「朝早くからすまねぇな」 「ホントよ。フランチェスカのことでしょ?」 ディックの視線が女に向かう。彼女は友人の死を聞いても眉一つ動かさなかった。それどころか事前に知っていたかのように落ち着き払っている。今もロマノフの問いに対し、まるで世間話でもするように軽い声を返していた。 「私、フランと一緒にいたのは三十分くらいよ。そのあとすぐ仕事が入ってたんだもの。嘘だと思うなら客に裏とってよ。ロチャって名前の船乗りと、ベルントって名前のサラリーマンだから。あ、別々の時間の予約だからね? ロチャが最初でベルントがその次」 「そうか。フランが妙な奴と一緒にいたとか、なにかトラブルに巻き込まれてるとか、そんな様子はなかったか?」 女が髪を指で弄んでいる。彼女はロマノフの方を見もせず淡々と言った。 「知らない。もう帰っていい?」 彼女の次に取り調べを受けたデルフィナ・フラドも似たような反応だった。友人がなぜどうやって死んだのか尋ねもしない。紫の目を細めてロマノフとディックを睨み付け 「忙しいんだよね。このあと予約入ってるしさぁ」 と吐き捨てたのだ。 友人といっても商売敵だからなのか、ランナル・ノルバリとマヌ・ハンスキもやはり反応は冷ややかなものだった。 「さあ。フランの客は俺と被ってないから、気にしたことなかったな」 「悪いけど自分のことで手一杯なんだ。覚えてない」 ヴィル・ツェラーに至っては、ロマノフの質問を聞いた瞬間これ見よがしにため息をつき、わざとらしく首を九十度傾げて見せた。 「レッドタウンに毎晩どれだけ人がくるか知ってる?」 口元は不機嫌そうに歪み、眉間に皺が刻まれている。仕事が終わったと思った途端早朝にたたき起こされたからか、彼の機嫌は凄惨な死体を見た直後のロマノフより悪いようだった。 「仮にフランと誰かが一緒にいるところ見たって、覚えちゃいないよ。当たり前なんだから。ひとりでいりゃあ心配のひとつもしたかもしれないけどさ」 誰も、フランチェスカの思い出話すらしなかった。 五人にそれぞれ事情を聞き、これといった成果はなし。記録係としてロマノフと共にいたディックは、誰もいなくなった取調室前の長椅子を睨み付ける。 「友人が死んだのに、みんな冷たいんですね」 ゴッサムシティはブルードヘイブンより治安が悪いけれど、人はここまで冷たくなかった。クライムアレイのホームレスにだってもう少し仲間意識があったはずだ。 苛立つディックとは正反対に、ロマノフは冷静そのものだった。いつもブルードヘイブンで起こる理不尽に苛立っている男が、珍しいこともあるものだ。 彼は五人が腰掛けた椅子を眺め、テーブルに頬杖を突いたまま口を開く。 「そんなんじゃねぇよ、ありゃ」 それはどういう意味か訪ねようにも、ロマノフがすぐに部屋を出て行ってしまったため叶わない。取り残されたディックは、しばらく先輩同様取調室の椅子を眺めてみたものの、結局立ち上がり、自分も部屋を出て行った。 [しおりを挟む] 目次 戻る |