1「これで終わりだな、異国の僧侶」 「勝手に決めるんじゃねぇよ」 銃声が響いた。 薄暗い森を震わせた発砲音のせいで、鳥たちが空へ逃げていく。 二丁の拳銃を構えた虚無僧――ジェイソン・トッドは、周囲を十人ほどの侍に囲まれ、赤い天蓋の下、微かに顔を歪めた。 侍のひとりが右足を踏み込む。 刀を振り上げて襲いかかってくる敵を、ジェイソンは後方に跳ぶことで避けた。 間抜けが地面に刃物を食い込ませる。 虚無僧の銃が敵に向かって火を放った。 大腿部に銃弾を受けた男が唸り声をあげてしゃがみ込む。 動けない侍を跳び越えるようにして、刀を中段に構えた敵が襲いかかってきた。 咄嗟の対応が遅れたレッドフードの銃撃は、侍の左頬を掠めて後方の木へと突き刺さり、鈍く光る銀色がジェイソンの右肩から左腹部までを大きく切り裂く。 「ぐっ!!」 小さなうめき声と共に傷を押さえた。反動で赤い雫が地面に半円を描く。苔むした土に鮮烈な赤がやたら目をひいた。自分の血だと思うと妙に笑える。 背後にもいつのまにか侍たちがいた。どうやら動きが止まった隙に包囲網を固められたらしい。 虚無僧を取り囲む集団の奥、仁王立ちしたふたりのうち、ひとりが口を開く。 「我々の動向を探って、なんのつもりだ」 おそらくこのふたりの男が侍達のリーダー格なのだろう。どちらの立場が上なのかジェイソンには判断がつかなかった。 「わかってっからひとりに大人数で喧嘩売ってきたんじゃねぇの?」 「その傷でまだそんな減らず口を叩けるか」 虚無僧を包囲していたうちのひとりが刀を斜め下段に構えた。 草履が湿った土を踏みしめ、レッドフードとの距離を詰める。 ゆっくりと右に回り込むような動作で歩み寄ってきた侍が、暫時ジェイソンと睨みあった。 直後、爆ぜたような勢いで間合いを詰める。 レッドフードは真横に飛んで攻撃を避け、同時に銃で相手の足を狙い撃った。 火薬の臭いと爆発音。 反動でジェイソンの胸に出来た切り傷から血の雫が飛び散った。木の幹や雑草の上に、絵の具を散らしたような赤い跡が出来る。 鋭い痛みに眉を顰めた虚無僧は、背後で刀を振りかぶった男の腕を掴み、背負い投げで地面に叩きつけてやった。 敵の腕を掴んだまま相手の肩口に足をかけ、傷ついた腕で銃を握る。未だ煙を吹く銃口を、地面に寝転んだ侍の額に押しつけてやった。 仲間を人質に取られる形で、その場にいた全員がたたらを踏む。 膠着状態。 ジェイソンはゆっくりと首を動かし、天蓋越しに敵ひとりひとりの顔を見た。 「テメェら、デスストロークんトコの子飼いだろ? ペンギンの縄張りでなにしてやがった?」 戦闘態勢をとる男たちの奥から声が聞こえる。 「そこまで調べているのか。油断ならんな」 奥にいた侍は仁王立ちしたまま動く気配がなく、包囲網を完成させた雑魚の殺気だけが強くなる。 「猿が連れてきた異国人なぞに邪魔をされる訳にはいかん」 「そりゃテメェらの親玉も同じだろうが」 ジェイソンが人質を投げ飛ばした。 二人の男が巻き込まれて地面に倒れたが、人質を開放してしまったジェイソンに待っていたのは感謝ではなく、四方からの斬撃。 中段の一閃をしゃがんで避けたレッドフードが引き金を引く。 立て続けに来た下段への一撃を上方に飛び上がって避ける間に、銃弾を受けた敵がひとりその場に倒れた。 近くにいた侍の首すじを蹴り飛ばし、反動で横に跳ぶ。 真横に鋭い突きが飛び込んできた。 レッドフードはお礼とばかり中空で銃を構え、突きを繰り出してきた相手の脳天に弾丸を叩き込む。 グロテスクなまでに大量の血が、周囲に鉄の臭気をまき散らした。 地面に足をついたジェイソンが、すぐさま体を後ろへ反らせて地面を蹴る。 回転跳びで殺気だった斬撃を避けると、隙だらけの敵に鉛玉を一発お見舞いした。 「ぎゃっ」 間抜けな悲鳴をあげて侍がひとり倒れる。 虚無僧の死角で敵が刀を振り回した。 殺気を感じて振り向いたジェイソンは防御が間に合わず、右の肩口に刃を受ける。 紙で皮膚を切った痛みを強くしたような感覚。 不愉快な痛みが全身を襲い、異物が虚無僧の肉を切り裂いて体内を通り抜けていった。 虚無僧が咄嗟に敵を蹴り飛ばすと、相手はバランスを崩して転倒し、運悪く岩に頭をぶつけて動かなくなる。 死んだかどうか確認する気は起きない。 だがレッドフードのほうも傷が深く、これ以上激しい動きはできそうになかった。 それ以上反撃できないままジリジリと後退していき、とうとう木の幹に背中がぶつかってしまう。 前方にいた男たちが追い詰められた虚無僧を嗤った。 「観念して念仏を唱えろ、異国人」 「だから、勝手に決めるんじゃねぇよ」 銀色の刃物が一斉に煌めき、ジェイソン目がけて襲いかかってくる。 逃げるのが一番の得策だ。 即座に判断を下したレッドフードは、首から下げた袋に手を突っ込み、素早く煙幕弾を取り出す。 手のひらに収まる小さな球体を、地面に思い切り叩きつけた。 瞬く間に鼠色の煙が広がり、敵とジェイソンの視界を覆う。 敵は咳き込んでおり、混乱しているのだろう。誰もその場から動く気配がない。 唯一自体を把握している虚無僧は、機会を逃さずその場から即座に離脱した。 急激に動いたせいで出血が酷くなっている。血痕で居場所がバレるなどという間抜けな末路はゴメンだ。 力の入らない腕で傷口を圧迫し、木の幹にもたれかかってずるずると座り込む。 「くそ、情けねぇな」 言葉は天蓋の中で反響し、外まで漏れることもなく消えてしまった。 着物を破いて包帯の代わりにし、傷口を乱暴に止血する。汚れた布だが贅沢は言えなかった。 傷の止血を終えると、次は首に下げた袋の中から小さな笛を取り出す。口に咥えて息を吹き込んでも、人に聞こえるような音は出ない。この笛から出る音を拾えるのは蝙蝠だけだ。故に、この笛を使えば敵に気づかれず訓練された蝙蝠を呼ぶことが出来る。ジェイソンの元にもすぐに小さな蝙蝠が来た。 自分の居場所と状況を簡潔に手紙で記し、小さな竹筒にいれると蝙蝠の足へ結ぶ。 また笛を吹くと、蝙蝠は木々の間を縫うようにしてあっという間に飛び立っていった。 これで、蝙蝠衆と兄弟たちに自分の近況が届くはずだ。助かるかどうかは、五分五分といったところか。 「まだ遠くへは行ってないはずだ!」 「探せ! 追え!」 後方から侍たちの怒号が聞こえる。急がなければならない。 肩の傷も無理矢理止血した後、ジェイソンは極力音を立てないよう、ふらつく足を無理矢理動かし藪の中へと消えていった。 不安定な足場では傷を負った体に予想以上の負荷がかかり、一歩進むごとに体力がごっそりと削られていくのがわかる。息が乱れ、額に嫌な汗がじんわりと滲んだ。 耐えきれず立ち止まったジェイソンは、周囲に自分の痕跡がないことを確認して再びそろりと歩き出す。 それもこれも、すべてゴリラ・グロッドがアーカム・アサイラムで行った実験のせいだ。 馬鹿げた実験によって、ジェイソンはディックやティム、ダミアンやアルフレッドと共に中世日本にタイムスリップしてしまった。 それだけでも最悪なのに、あろうことかゴリラ・グロッドやベイン、デスストロークやポイズンアイビー、ペンギンにトゥーフェイスにジョーカーとハーレイクインといった面々まで中世日本に飛ばされてしまったのだからまったくもって笑えない。 そのうえなぜか、バットマンはどこを探してもいなかった。 なんとか"蝙蝠衆"と名乗る忍者の一族に保護され、協力してヴィランに対処しようということにはなったのだが、現代で使用していたガジェットの殆どが使えないのだから方法はかなり限定される。結局ジェイソンたちは蝙蝠衆の指導の元、早々に自分たちの知識や経験と中世日本の技術を融合させ、現場に適応していく事を強いられた。 その忙しい最中に、ペンギンの領地内で不穏な動きをする侍たちが発見されたのだ。 ジェイソンが敵の目的を探るためペンギン領へ侵入したのであったが、侍たちがデスストロークの配下であることを突き止めたあたりで相手に存在を察知されてしまい、森に追い詰められて今に至る。 深追いしすぎたのがいけなかった。焦りすぎていたのだろう。これはジェイソンの不始末だ。 間違っても、自分のせいで蝙蝠衆の里を敵に発見されるわけにはいかない。そこまで迷惑はかけられない。 意地だけで体を引きずり歩いていた男は、連日の不眠不休と負傷の影響で体力が限界に近かった。思ったように足が上がらず、木の根に躓いて転倒してしまう。視界がグルリと回転し、体が地面に叩きつけられる。 傷口に鋭い痛みが走り、全身が痺れた。 「ぐ……」 呻いた虚無僧の体は、上手く力が入らない段階に来ている。震える腕でなんとか地面から体を引き剥がしたが、起き上がる気力も体力も既に無く、なんとかその場に座り込むのがやっとの有様だった。 呼吸が苦しい。体が痛い。 何気なく胸の傷に手をやると、布の奥からにじみ出た血が指先にべっとりと付着する。鉄の臭気が鼻をつき、ジェイソンは腕を地面に落とした。手を持ち上げる体力すら尽きようとしている。 二度目の死はせめて誰かの役に立って死にたかったと思っても、全てが遅かった。 口元に浮かんだ自嘲は天蓋と口元のマスクが隠してくれる。誰もいない森の中で自分の表情を隠しても意味はないのだが、あらゆるものに神が宿るとされるこの国で、知らない何かに自分の情けない姿を見られるのは嫌だった。 無論、知っている誰かに情けない姿を見られるのは、もっと嫌なのだが。 「また犬死にかよ。まいったな」 思わず吐露した言葉に眉を顰めたジェイソンは、耳鳴りのする鼓膜が人の声を拾った気がして顔を上げる。 霞む視界の奥、自分に向かって走ってくる人影を見た。 幻覚かと思ったそれは次第に鮮明さを増していき、ドミノマスク越しでも鬼気迫る表情がうかがい知れる。 青と黒のコスチュームは、蝙蝠衆に貰った忍服に変わっていた。日本刀を背負い、両手にはエスクリマスティックを持っている。 ナイトウイング。本名、ディック・グレイソン。 無駄に整った顔を焦りに歪めた男が、意識の朦朧とするジェイソンでさえハッキリと聞き取れる大音声を森中に響かせた。 「レッドフードッ!!」 こんな場所で叫ばれるのは良い迷惑だ。一応ヒーロー名で呼ぶ理性は残っていたようだが、それにしても敵に聞かれているかもしれないし、敵に発見されるかもしれないのに。平素であれば頭に鉛玉をお見舞いしている。 だが、今はそんな気力すらなかった。 死を覚悟するような状況だったのに、どうやらギリギリのところでジェイソンの命は繋がったらしい。間に合うと思っていなかった虚無僧は、不思議な気持ちで駆け寄ってくる男を観察していた。 あっという間に距離を詰めた忍者がレッドフードの肩を掴む。 気がつけば、すぐ近くにディックの顔があった。霞む視界でもしっかりと見える距離。「しっかりしろ」と言われ、声を出そうと思っても口が上手く動かない。 ナイトウイングは虚無僧の胸元と肩に出来た傷を見て目を見開いていた。 ジェイソンの体が揺れ、地面が遠くなる。 忍者が自分を横抱きにしたのだと理解するまでに数秒を要し、抵抗しようと腕に力を込めたものの上手く動かず、頭が重量に従って仰け反ってしまう。 汗ばんだ首元が無防備に晒され、風の感触がした。 ぼやけた視界の中でナイトウイングが喉を鳴らしている。青い目がジェイソンを数秒見つめ、ついでふいと前方を向いた。 聞こえてきたのは、ティムとダミアンの声。 「ナイトウイング! レッドフードは……!!」 「大丈夫、まだ息はある」 「蝙蝠衆が治療の用意をしてくれてる! 早く里へ!」 「ああ、急ぐぞ!」 最後にディックが叫び、ジェイソンは自分の体が横抱きにされたまま風を切る感覚に、「情けねぇな」と小さく零したものの、結局声になることはなく、意識はそのまま途切れてしまった。 ジェイソンが次に目を覚ました時、目に飛び込んできたのは木製の天井だ。 地獄の門があっても可笑しくないと思っていたのでなんだか拍子抜けしてしまう。 「なんだ、生きてら」 擦れた声で呟いた途端、視界の右側から勢いよくディックの顔が飛び出してきた。 ジェイソンは突然の事態に声を出す余裕もなく、心臓が止まるかと思うほどの衝撃を味わう。 だが、相手が彼の心情を慮る素振りはなく、青空を思わせる瞳が無感動に思えるほどの真剣さで数秒ジェイソンを見つめ続けた。 おそらく虚無僧の状態を納得いくまで確認し終えたのだろう次の瞬間、ナイトウイングが安心したようにふにゃりと笑う。 「よかった、ジェイソン。目を覚ましたな」 表情がコロコロ変わる、などという可愛らしい表現ではない。別人のごとく相好を変化させる様はもはや異様のひと言につきる。 呼吸が乱れるほど驚いたジェイソンだったが、彼が抗議する間もなく、ディックは濡らした布で怪我人の額を丁寧に拭い始めた。 「うなされてたぞ。熱も少し出てた」 「どのくらい寝てた」 「一晩だよ。お前は体力があるな」 冷えた布が火照った体を冷やし、意識がだんだん鮮明になっていく。首すじに浮いた汗まで丁寧に拭かれ、次は負傷していない方の腕を掴まれた。 「食事を取ったほうがいい。体力をつけないと」 肩に手を添えられる。傷は真新しい包帯に包まれていた。 ディックがやったのか、アルフレッドか、他の誰かか。考えても意味の無いことなのでジェイソンは早々に思考を止める。そして、なぜ自分はこの男にここまでされているのだろうと思い至った。 低く、どこか甘さのある声が、やたら際やかに聞こえる。 「昔を思い出すな」 微かな笑い声が、近い。 途端、ジェイソンの脳裏に様々な感情が駆け巡り、気がつけば男の腕を振り払って吐き捨てていた。 「もうお前の弟じゃねぇ」 反動で体がよろけ、結局忍者に支えられてしまう。拒絶すら満足にできない己の現状がひどく歯がゆかった。 腕を振り払われたナイトウイングは、苛立った怪我人に睨み付けられながらも不快に思う様子などなく、ただ諭すように静かな目で苛立つジェイソンを見据える。 「お前がそう思っていても、僕はそう思ってない」 穏やかだが強い口調だった。反論されても持論を譲らないと、態度も声音もハッキリ告げてくる。体力の無い怪我人にその態度は卑怯だろうと思っても、弱みを見せるのが嫌なジェイソンは眉を顰めるだけに留めた。 ディックが続ける。 「僕には僕の考え方がある。僕らの関係は、お前だけで決められる問題じゃないだろう」 嫌になるくらいの正論だ。傷の痛みが増してきた気がして、虚無僧は苛立ち紛れに乱暴な舌打ちをして見せた。 「なら、お前が決めることでもねぇな。家族ごっこがしたいなら他の奴らの面倒でも見てろ。俺はゴメンだ」 ディックが片眉を跳ね上げる。青い目がジェイソンを見つめており、彼は怪我人の体を支えたまま静かに尋ねた。 「なんでそんなに、弟に戻るのが怖いんだ?」 「怖いんじゃねぇ、戻らないっつってんだよ」 戻れないのでも、戻るのが怖いのでもなく、自分の意思で戻らないと決めた。自分の頭で考えず誰かと同じゴールを目指せていた時期はとうの昔に過ぎてしまって、変わり果てたジェイソンは"昔の家族"に居場所などない。見ている方向が違ってしまえば共にいられないのが、ディックたちが思い描く"家族"だ。 ならばジェイソンは、目の前にいる男との関係よりも、自分の意思で見据えたゴールを選ぶ。 男の意思はディックに伝わったらしい。彼は束の間沈黙し、すぐに 「そうか」 と静かに返事をした。 けれど、ジェイソンの体を支える手は離れることなく、殊勝な返事のわりに強い眼光が執拗に怪我人を捉えている。 「だけどお前がどれだけ僕に世話されるのが嫌だって言っても、体は傷ついてるんだから休まなきゃいけない。身内の世話になるのが嫌だとごねて、これ以上蝙蝠衆の手を患わせる気か?」 強めの口調と一分の隙もない正論。相手の反論を封じる必殺技といったところか。 蝙蝠衆の名前を出されればジェイソンも強くは言い返せず、けれど身内という表現にディックの意地を感じて不愉快だった。 「ほっといてくれりゃあ勝手に治る」 「そんなわけないだろ。自分でもわかってるクセに」 反抗終了。 最後の悪あがきで小さく唸り声を上げたジェイソンだったが、ナイトウイングはさして気にも留めていないようだった。ぬるま湯の入った桶と布を抱えて立ち上がり、穏やかな口調で語りかけてくる。 「食事を持ってくるから」 数分後彼が持って来たのは、土鍋に入った雑炊だった。 麦飯に溶き卵とネギが混ぜ込んであり、馴れない和食ではあったが、水気が多く消化によさそうだ。栄養分は多少心許ないが、ジェイソンの体調も万全ではないので、丁度良いのかもしれない。 膳が畳の上に置かれ、ディックがそのすぐ横に座る。 「お前、肩怪我してて腕上がらないだろ。食べさせてやるよ」 「片手は無事だ」 「なるほど。片手でカップとスプーン持ってどうやってスープを口に入れるって?」 「テメェ性格悪ぃぞ」 「そりゃどうも」 赤い漆器の椀に木杓子が卵雑炊を落とした。白い湯気がふわりと立ち昇り、ジェイソンの鼻腔に嗅ぎ馴れない米の香りを届けてくれる。 畳の上にあぐらをかいたディックは、和装が面倒ということで簡素なシャツを着ていた。空色の布を貰い、アルフレッドが急拵えしたものだ。ズボンは茶味がかった黒で、こちらも当然アルフレッドが作った。器用な男だ。 ジェイソンの服はというと、傷が広範囲にわたっていることもあって、赤銅色の浴衣を着せられていた。帯の締めがあまいせいで合わせが開き、包帯を巻いた上半身が露出してしまっている。 「この着付けお前がやったろ」 「ああ、滅茶苦茶になってる。お前寝相悪いんじゃないか?」 「テメェがヘタクソなんだよ」 ディックが不満げに口を尖らせたが、すぐに視線を椀に移した。木匙で小分けにした雑炊をすくい、湯気のたつ米に軽く息を吹きかけている。 ジェイソンは自分の目を疑った。 「なにやってんだ」 「熱いから冷ましてやろうと思って」 「やめろ」 吐き捨てるも、口元に木匙が差し出される。満面の笑みで差し出された食事は、おそらくこの形態でなければ食べさせる気が無いのだろう。 反抗するのも面倒になったジェイソンは、しぶしぶ差し出された匙に顔を寄せた。 口で雑炊を受け取ると、優しい甘みと塩気が口の中に広がる。少し薄味だ。馴れないシンプルな味付けは、おそらく体力のある時であれば新鮮に感じたことだろう。 数回咀嚼して雑炊を飲み込んだ怪我人を、ディックが喜色満面で眺めていた。 「なに笑ってんだよ、気色悪ぃ野郎だな」 「なんとでも言えよ、怪我人」 鼻歌でも歌い出しそうな声だ。ジェイソンを介護するのが嬉しいのか、生意気な"弟"が弱っているのが面白いのか、雑炊の乗った木匙がまた怪我人の口元に差し出される。 "弟"に逆らう余地はない。諦めて口で受け取ると、小さな土鍋の中身がなくなるまで餌付けのような茶番が続けられたのだった。 照れくささから食事が早く終わればいいと願ったジェイソンではあったが、いざ食事が終わり部屋にひとり残された後は、身動きが取れないため布団の上で庭の景色を眺めることしかできない。 開け放たれた襖の向こうには石と白砂で作られた枯山水と青い空が広がっている。 ディックが部屋を去る前に直していった浴衣は、やはり帯の締めがなっていないのですぐに着崩れてしまった。大して動いていないのにこれなのだから、あとで着付けについて誰かが教えなければならないだろう。 そんな風に、余計なことを考えてしまうくらいには暇だった。 絶対安静と言われるとやることがなにもない。寝ているのもベッドではなく畳に敷かれた布団なので、妙に落ち着かない。 ぼんやりと白砂を眺めているうちに青い空が朱色に染まっていき、やがてまた、廊下側の襖が開いてディックが現れた。 「食事持って来たからな」 雑炊の匂いがする。今度は味噌味のようで、雑炊とは別の小さな皿にはたくあんが乗っていた。 体力があって腹が減っていれば、興味深く完食できただろう。 いかんせん日中を布団の上で過ごし、怪我で体力も低下している今は腹も減っていないし、異国の食事を楽しむ余裕もない。 ディックが昼間同様雑炊を小分けにし、息を吹きかけてあら熱を取った後満面の笑みでジェイソンの口元に木匙を近づけてくる。 諦めてひな鳥のように口を開けたジェイソンは、四、五回雑炊を口に運んだあたりでピタリと動きを止めてしまった。 ディックが不思議そうに首を傾げる。 「もう食べないのか?」 「そこに置いとけよ。ひとりで食べる」 「右肩が動かせないのに食べられるわけないだろ」 「左で食べる」 「バカ言え。お前はまた僕に説教されたいのか?」 ディックの目が剣呑な輝きを帯びた。部屋の気温が下がった気がして言葉を詰まらせたジェイソンが、根負けして"兄"から目を逸らす。 「……食欲がない」 日中動けないのだから、当然腹が減るはずもない。異国文化を楽しむ余裕もないので、馴れない味のものを舌の上で転がしているうちに腹が膨れてしまうのだ。 ディックは物騒な雰囲気が嘘だったかのように肩の力を抜き、困った様な笑みを浮かべてジェイソンの顔を覗き込む。 「とにかく、これだけ頑張って食べてくれ」 子供に言うような口調が大層気に入らなかったが、栄養を取らなければ回復が遅れるのはジェイソンも理解している。右腕が動かず食事に苦労するのも事実だ。 だから大した反論もせず、差し出された木匙を口で受け取った。 昼食の時よりも時間をかけてゆっくりと、馴れない味の雑炊を咀嚼し、飲み込んでいく。その間中、ディックにずっと見つめられ続けていた。 妙な居心地の悪さを感じながら完食すると、"兄"が安心したように息を吐く。 「じゃあ、これ片付けてくるから」 「おう」 やっと針のむしろが終わるのだと思うと、ジェイソンも安堵の色を隠せない。部屋を出て行く"兄"を見送り、襖が閉まったのを確認してから外の風景に目をやった。 空は既に藍色に染まり、虫の鳴き声が聞こえている。闇に沈んだ白砂は、岩が美しい文様に影を落としていて少しもの悲しかった。生ぬるい風が肌を撫でていく。 そろそろ気温が下がる頃だ。 襖を閉めるため体を起こすと、タイミング良くディックが部屋に入ってきた。手には湯気のたつ木桶と鉄瓶を持っており、畳の上にそれらを置いた後 「大人しくしてろよ。襖閉めたいのか?」 と問いかけてくる。 まさか彼が戻ってくると思っていなかったジェイソンは驚いて、質問に答えることもできずに呟いた。 「なんの用だよ」 ナイトウイングが無言で立ち上がり、庭に面する襖を閉める。それから木組み行灯に火を灯し、再び怪我人のすぐ横に座った。 畳の上に置かれた木桶はまだ湯気が立ち上っており、中に布が入っている。 「汗かいただろうから、お前の体を拭かないといけない」 「は?」 ディックの手が、お湯に浸した布を固く絞った。熱気がジェイソンのところにまでやってきて、彼は思わず眉を顰める。 「そこまでしなくていい」 「だめだ。怪我人は体を清潔に保て」 「テメェふざけんなよ。自分でやる」 「"最後"はお前がやれよ。それ以外はダメだ。動くと傷が開く」 「ふざけんな、マジで」 「ふざけてないぞ、残念だけど」 抵抗も虚しく、肩口と胸元の包帯を解かれた。少し血で汚れたガーゼはまとめて桶の横に置かれる。真っ白な新しい包帯がすぐ近くに置いてあった。 「おい、包帯変えるだけでいいって」 「そうはいかないだろう」 濡れた布をまず耳の裏に押し当てられて、ジェイソンの体がビクリと揺れた。傷ついていない方の肩を軽く押さえられたまま、布が首すじにそって下りていき、鎖骨に至る。首回りをぐるりと拭かれた後、肩口の傷を労るように布が滑っていった。汗ばんだ腕を綺麗に拭った布が再び湯に浸される。左肩を這う感覚がくすぐったくて身をよじると、ディックが耳元で「こら、動くな」と言った。 近い、と文句を言おうとして、思わず言葉を飲み込んでしまう。 胸筋を掬い上げられるように布で撫でられたのだ。 傷に配慮するような触れ方ではあったが、背筋にゾワゾワと妙な感覚が走る。体の凹凸にそって滑り落ちる布が、腹筋をなぞって脇腹に至る。それから背部に移動した手が腰に触れた。やたら執拗に体の隅々まで拭かれ、ディックの手が下腹部から下りていった瞬間、ジェイソンは我に返ってやっと声をあげる。 「待て待て待て待て、自分でやれっから。マジでヤメろ本当」 「そうか? じゃあタオル渡すからやれるところだけ自分でやれよ。僕は足拭くから」 乱暴に、別の新しい布が怪我人の手に落ちてくる。 足はなんとか膝上までを自分で拭くことで手打ちとなり、膝下から足の裏、指の間までを執拗に布で撫でられた。 為す術もなく舐めるように体を拭かれて情けなく思いながら、ジェイソンはなんとか最後の防衛ラインを死守することに成功し、さっぱりした体と疲弊した精神でディックの横顔を見るはめになる。 二枚の布をお湯に浸した男はなぜか生き生きとしており、それが余計に"弟"の苛立ちを誘った。 「ふざけんな死ね」 と言うと 「なら早く良くなれ」 と間髪入れずに返ってくる。 今度こそ本当に部屋を出て行く男を見送ったジェイソンは、ヘタクソな着付けを無理矢理直して乱暴に布団を被った。 妙に体がフワフワしている。不思議な感覚を追い出したくて目を瞑ると、意識はあっという間に闇の中へ溶け出してしまった。 体が布団に沈んでいって、溶け込むような感覚。 眠っている間に、夢を見た。 夢の中でジェイソンはロビンになっていて、ビルの合間を縫って進む先に、バットマンとナイトウイングの姿がある。 懸命に跳んで、走って、追いついて、ドミノマスクの奥で微笑むナイトウイングに肩を叩かれた。 『さあ、行こうか』 言葉とともに、手を引かれ。 目を覚ました時、ジェイソンはなぜか泣いていた。 涙の理由が分からないまま上半身を起こし、襖越しに鳥の鳴く声を聞く。 日差しの気配を感じながら、ジェイソンはぼんやり「寝過ごしたな」と考えた。 まだ、少し混乱している。 それからディックが部屋に入ってくるまで、彼は暫く布団の上に座り込んだまま、夢の名残を追っていた。 "兄"が部屋に入ってきたのは、怪我人が目覚めてから二十分後。朝食と共にやってきた男は、怪我人の心情など露ほども知らない朗らかな笑みを浮かべている。 土鍋の中身はやはり雑炊だったが、ジェイソンにとってかなり覚えのある香りが漂っていた。 チリコンカンにひどく似ている。 ディックが驚いた顔の"弟"を見て顔を綻ばせた。 「昨日、お前が食欲ないみたいだったから、アルフレッドに頼んで作って貰ったんだ。好物なら多少は違うだろ? 完全に同じってわけじゃないけど、かなり近い感じのものを作ってくれたよ」 「……良く覚えてたな」 ジェイソンがウェイン邸にいたのはほんの僅かな時間だ。死んでからは大して寄りついていないし、食事などをウェイン邸でとった覚えもない。好物の話をしたのも、せいぜい一度か二度くらいのはずだ。 彼はアルフレッドの記憶力を讃辞したつもりだったのだが、"兄"から返ってきたのは意外な言葉だった。 「覚えてるよ。僕もアルフレッドも、お前の好物ならよく覚えてる」 ジェイソンが驚いて顔を上げる。ディックは笑顔で椀に雑炊をとり、木匙に息を吹きかけていた。 「ほら、ジェイソン」 差し出された食事が馴染み深い味だったこともあって、今までより素直に受け取る。 一口ずつ、ディックがジェイソンの口に木匙で雑炊を運んでいった。まるで餌付けだと思いはしたものの、抵抗感はすでに薄らいでいる。 鶏肉を使ったチリコンカン風味の雑炊は、口に含む度ピリリと軽い刺激が広がり、食欲を増進してくれた。 食事を終えると、"兄"が怪我人の着物を脱がす。肌に撒かれた包帯を取って、持って来た薬を手のひらに広げた。軟膏に体温を移し、手のひらを"弟"の肌に置く。吸い付くような感覚とともに、大きな手のひらがジェイソンの体を滑っていった。 傷口が鈍い痛みを訴えたが、それ以上に気恥ずかしさが強い。 肩口の傷もディックの手がなで上げ、今度は真新しい包帯を傷の上に重ねていった。 胸元は包帯を巻く範囲が近いので、必然的にふたりの距離が近くなる。背中から包帯を巻き、怪我人の耳元に男の顔が近づいた。 「昔を思い出すな。ロビンだった頃のお前に、何度か傷の手当てしてやったよな」 耳に息がかかる。首を逸らして顔を遠ざけながら、ジェイソンは微かに口を尖らせた。 「二、三回じゃねぇか」 「よく覚えてる。お前は痛いともなんとも言わないで、歯を食いしばってた」 「俺は忘れた」 「毎回小さな声で『ありがとう』って言ってくれたのに」 「忘れた」 「僕はよく覚えてる。弟との大事な思い出だ」 これ以上言い返せる材料がない。低く呻いたジェイソンは、降参の意味を込めて顔を俯かせる。もう弟ではないとか、今更兄面するなとか、いつも吐き出している言葉が、今は霞んでしまっていた。 ディックは巻き終わった包帯の上に指を滑らせ、含み笑いを零す。 「早く良くなれよ」 包帯は薄い布だ。指で触れられれば相当リアルな感触が伝わってくる。 「なんだよ気色悪ぃな」 動くほうの手でディックの手を振り払うと、包帯を凝視する青い目に視線がぶつかった。 真剣な色の双眸が、包帯から怪我人の顔に視線を移す。 「ジェイソン、今は、こんな時だ。僕ら、助け合わなきゃいけない」 "兄"の手はもうジェイソンの体には触れていない。なのに、なぜか全身に触れられているような、妙な感覚に陥った。 男の目が真っ直ぐにジェイソンを見据えてくる。 「僕も、お前も、ティムも、ダミアンも、できることを必死にやって、それでも乗り越えられるかわからない。だから」 耐えられないと、ジェイソンは思った。 この視線に、もう耐えられそうにない。 本日二度目の唸り声を発した怪我人が首を横に振る。 「わーった。わーったよ、うるせぇな!」 するとディックの表情が和らぎ、眦がふわりと細められた。薄い唇が開き、耳を塞ぎたくなるような優しい声が"弟"の鼓膜を震わせる。 「ありがとう、ジェイソン」 気が狂いそうだと思っても、体力のない怪我人は"兄"から顔を背けるのが精一杯だった。 「今日は天気がいいから、夕方まで庭側の襖は開けておくよ。その方が気分いいだろ?」 「ああ、そうだな」 「僕らのパトロールはいつも夜だったけど、お前と一回だけ、昼間に買い物したことがあったよな。ブルードヘイブンで。覚えてるか?」 「……俺が怪我して、パトロールできなくなった時、お前が無理矢理ウェイン邸から連れ出して、アルフレッドとブルースにふたりしてこってり絞られた」 バイクの後ろに乗せられて、色々連れ回された思い出がある。街中を連れ回され、ウェイン邸に引きずられていった後、傷が悪化する、なにを考えているんだと怒られた。 「そうそう。でも楽しかっただろ? お前あの時顔色悪かったもんな。気分転換は必要だよ」 「仕事できなきゃ追い出されてのたれ死にだと思ってたからな。お前にウェイン邸から連れ出されて、いよいよ捨てられるんだと思った」 「おい、ジェイソン……」 「冗談だよ」 あの時、傷が悪化するだろう、と怒られて、やっと何もしなくてもここにいて良いのだと思えた。バイクの後部座席も、映画館も、アイスクリームカーも、ファストフードショップも、ジェイソンにとってはすべてが始めてだった。 ディックにとってはなんでもない記憶かもしれないが、その時確かに、ジェイソンの世界は驚異的な速度で広がった。 思い出すのは兄貴風を吹かせたがるディックの楽しそうな笑顔と、ふとした瞬間店のウインドウに映る、みっともなく頬を染めた自分のはしゃぐ姿。 あの時確かに、ジェイソンは目の前の男を兄だと思っていた。 気が狂いそうだと、彼は再び思う。 思い出すのはナイトウイングが兄だった頃の思い出ばかり。 思い出の中と同じ笑顔を向けられて、結局いくら否定しても自分はこいつの弟なのだと思い知らされたのだった。 それから二週間ほど経過した頃。 ジェイソンの傷は大分良くなり、両腕が動かせるようになっていた。ディックの持って来た食事も自力で食べられるようになり、毎食せっせと運んでくる兄は残念そうに肩を落とした。 「すこし寂しいな」 「バカか、早くよくなれっつったのテメェだろ」 「そうだけど」 空になった土鍋と赤い椀を膳に乗せ、部屋の隅に置く。彼が次に引き寄せたのはお湯の入った桶だ。 「じゃあ、体拭くからな」 「ああ」 この頃にはすでにジェイソンも抵抗を諦めており、下腹部から大腿にかけてを自分で拭く以外はすべてディックのなすがままになっていた。 何度も同じ行動を繰り返すうちに気恥ずかしさも薄れてきて、今では清拭の心地よさのほうが羞恥より上だ。 濡れた布で背中を撫でられながら、ジェイソンがふと天井を見上げる。 ここ数日ですっかり見慣れた、異国情緒溢れる風景。 「……ディック」 「なんだよ」 「あんたがいてよかった」 ピタリと、一瞬兄の動きが止まる。ジェイソンが顔を動かして男の表情を伺おうとするも、確認は叶わずナイトウイングの手が再び動き始めた。 「僕も、お前がいてくれてよかったと思ってる」 微かにチャプリと水音がする。ディックが布を濯いでいるのだろう。背後から聞こえる兄の声は、言葉とは裏腹にすこし固い。 「ずっと、そう思ってる」 「大袈裟だな」 ディックが弟の足を持ち上げ、脛を布で撫でていった。ガラス細工を扱うような手つきだ。ジェイソンの清拭を行う時、彼はいつも似たような手つきで作業を行う。 「大袈裟じゃない。お前が大けがしてるのを見た時、心臓が止まるかと思った」 青眼が弟を捉えて煌めく。得体の知れない強い光を感じて、怪我人の体に震えが走った。 ジェイソンがなにか言う前に、ディックが弟の両肩を掴む。 思いのほか強い力に戸惑った怪我人は、誰かが今瞬間、この部屋に飛び込んできて欲しいと強く思った。 しかし彼の願いも虚しく、静かな空間にディックの声が落とされる。 「危険な仕事があるのは仕方がない。でも、無茶はしないでくれ。もう二度とお前を喪いたくない」 兄の顔がやけに近かった。彼は全身の筋肉に力が入っており、負傷したジェイソンがどうこうしたところで、簡単に退いたりはしないだろう。 しばらく睨めっこをしたところで弟のほうが根を上げて顔を逸らした。 「そういうのは、女に言ってやれよ」 「お前に言うから意味があるんだ」 兄の両手がジェイソンの右手を握る。肩に傷が付いているほうだ。振り払えない。至近距離に彫刻かと思うほど整った顔がある。 「お前は昔から無茶ばっかりして、生意気で、こっちの都合なんかおかまいなしで、全部ひとりでやろうとして、なのに誰かを助けるのには躊躇がなくて、いつか、いろんなものをひとりで抱えて、のたれ死ぬんじゃないかって、ずっと不安で、仕方がなかった」 実際、ジェイソンは一度すべてを自分でやろうとして死んでいた。あれは"ひとりで抱えた"のではなく、"ひとりで出来る"と高を括ったせいなのだが、ディックはそう考えていないらしい。 「頼むから、今度こそ、何かあったら僕を頼ってくれ」 兄の両手が、怪我人の右手を自分の額に押しつける。祈るような、懇願するような、懺悔するような形のまま、彫刻のような男が血を吐くように言葉を吐き出した。 「愛してるんだ、リトルウイング」 親愛の意味でないことは、明かである。 ジェイソンは体の芯を氷に入れ替えられたような感覚に陥った。 脳が上手く働かない。悪い夢かもしれないとすら思った。 ディックがゆっくりと顔を上げる。 口を開けて硬直しているジェイソンの顔を眼窩に収めた兄は、右手をそっと弟の頬に這わせた。 肌の曲線を緩やかに撫でられ、怪我人はやっと我に返る。 咄嗟に、頬を這う兄の手を振り払っていた。 ディックの腕がはね除けられ、自然ふたりの間に距離が開く。 何かに耐えるよう顔を俯けた弟は、目を見開いて硬直する兄の表情を見ようともせず、食いしばった歯の間から呻くような声音で言った。 「……ンで、そんな事言うんだよ」 部屋は不気味な程の静寂に包まれている。張り詰めて、そのうち壊れてしまいそうな緊張感。体は着衣のまま水に入ってしまった時のように重くて、体の芯から冷えていく。 「家族じゃねぇのかよ。血は、繋がってねぇけど、俺は、お前の、弟だろ」 「それは認めてくれるんだ」 少し嬉しそうな兄の声。 それが余計にジェイソンの神経を逆なでした。 「認めさせたのはテメェだろうが!」 怒号の後、耳の痛くなるような無声の間があり、ややあってディックが微苦笑を浮かべる。 「そうだったな」 弟が顔をあげると、泣き出しそうな兄と目があった。泣き出したいのは自分のほうだと思い、同時に体が微かに震え始める。言葉が上手く紡げない。 「テメェが、俺の世話焼きやがるから、俺は、いやでも、お前の……弟に、戻っちまって、なのに、いまさら、そんな、なんで、そんな……」 途切れ途切れの不格好な声音を、ディックは黙って聞いてくれていた。兄としての表情だ。なのに瞳孔には優しさとは違うものが映り込んでいる。 愛というにはあまりにも重い、ジェイソンにとってはあまりにも大きすぎる炎のような感情が青玉の中に燻っていた。 「ジェイ、僕がいくらお前を愛してても、抱きたいと思っていても、僕がお前の兄で、お前が僕の弟なのは変わらない」 怪我人の頭に血が上った。体の表面が熱くなり、反対に芯のほうは冷えていく。沸騰した頭で兄を睨み付けたジェイソンは、体の震えに苛まれながらも悲鳴のような声をあげていた。 「変わるだろ! 本当に兄弟ならこんなことになってねぇんだよ!」 ディックの手が弟の肩に触れようとする。ジェイソンは反射的に彼の腕を叩いて拒絶した。傷ついたような表情の兄を見て余計に腹が立つ。傷ついたのは、泣きたいのはこっちだ。 「なんで勝手に話進めてんだよ! 助け合うって言ったくせに、勝手に決めて勝手に進みやがって!! 嫌なところばっかりブルースに似てんだテメェは!!」 吐き出した言葉の全てが、さらにジェイソンを傷つける。目の前の男も、今この場にいない義父も、ジェイソンを置き去りにしてなんでも決めてしまう。ジェイソンはいつだって蚊帳の外だ。自分の意思決定になんの影響も及ぼさないような人間を掴まえて、なにが"愛している"だ。 置き去りにされた人間の心など、考えたこともないだろうに。 とうとう両腕で頭を抱えてしまった弟を見て何を思ったか、頭上からディックの気遣わしげな声がする。 「傷に障るぞ、リトルウイング」 「今更その名前で呼ぶんじゃねぇよ!!」 一線を越えるような発言をしておいて、まだ兄弟だった頃の呼び名を使う男に吐き気がした。心が置き去りにされている。目の前の男だけがどんどん先に行ってしまう。ジェイソンが抱えている葛藤も悩みもすべて、自分はもう乗り越えたかのような態度で、いつも通りに接してくる。 もう俺の心をかき回さないでくれという懇願が、音になることはない。 暫しの沈黙があって、ディックが再び口を開いた。 「……悪かった。混乱させたな」 横で人の動く気配がする。襖の開く音と共に、男の平坦な声が聞こえた。 「僕は、もう部屋に戻るよ」 「もう二度と顔見せんじゃねぇ!!」 返事はない。静かに襖が閉まって、部屋には頭を抱えたジェイソンが残されただけだった。 翌日ジェイソンに食事と包帯の換えを持って来たのは、ディックではなくティムだ。 大部分の傷が治ってきたジェイソンは既に自力で食事を取れる。自分で雑穀と味噌汁をかき込む怪我人を眺め、畳の上にあぐらをかいたティムが探るような笑みを浮かべた。 「今までずっと貴方の傍を離れなかったディックが、今日から部屋に行かないって言い始めたんだけど、喧嘩でもしたの?」 「さあ」 次男の素っ気ない返事に、レッドロビンは肩を竦めて見せる。 「喧嘩しないほうが珍しいからね、貴方たちの場合。こんなに長く喧嘩しないでいたのは始めてじゃない?」 「ああ」 ジェイソンは、必死に雑穀をかき込むふりをした。噛む時間と、かき込む量のバランスが取れない。椀を口につけたまましばらく必死に咀嚼していると、異変に気づいたティムが心底呆れたというような顔をして 「噛んでる時くらい、椀を置きなよ」 と、吐き捨てた。 「そんなあからさまに上の空なんて、らしくないね。どんな喧嘩したのさ?」 「ん」 ディックに告白されたなどと言えるはずもなく、憎まれ口を叩く余裕もない男は曖昧に返事をするだけだ。気もそぞろな怪我人の注意を引くためか、四男が少しわざとらしく咳払いをしてみせる。 「なんでもいいけど、悩むくらいなら仲直りしたら? どれだけ避けても、兄弟だって事実は変わらないんだから」 喋りながら、レッドロビンは空になった容器を回収して膳に乗せた。 兄弟には変わらない。そうだったら、どんなに良かっただろう。 何事もなかったように、兄弟として接することができたらどんなに良かっただろう。 「……勝手に決めつけて、話進めてんじゃねぇよ」 ジェイソンが静かに呟くと、怪我人の体に巻かれていた包帯を回収していたティムがサファイアの眸子をスッと細めた。 「決めつけてるのはどっちだよ」 それからレッドロビンの細い手が、薬を塗った真新しい包帯を傷口に巻いていく。非常に慣れた手つきで行われた作業は、ものの数分で終了してしまった。 「じゃあ、次はダミアンが来るから」 苛立ったような声音と共に部屋を出た四男を、ジェイソンはただぼんやりと見送った。 [しおりを挟む] 目次 戻る |