3「トッド、餌だよ」 部屋に夕食を置きに来たダミアンが開口一番吐き出した言葉を聞いて、ジェイソンは思わず耳を疑った。 「お前、もーちょっと可愛げのあるセリフ吐けねぇの?」 「尊敬に値する人間相手なら自然と可愛げもでてくるんじゃない?」 「うわー生意気」 「トッド相手に殊勝にしたって仕方ないだろ。早く食べてよ。もう一人で大丈夫なんだろ?」 「容赦ねぇなお前」 ジェイソンの手が食事の乗った膳を引き寄せる。大根おろしと梅干しの入った雑炊に、たくあんが三切れ。なじみ深い味から和食に戻っている。 すぐ部屋を出て行くと思われたダミアンは、意外にもその場に立ち止まって、ジェイソンの様子を見ていた。 「グレイソンと喧嘩したんだろ?」 「ンだよ、よってたかって探り入れやがって。いつものことだろ」 喧嘩のことはティムに言われたばかりだ。ダミアンには余計原因など話せるわけもなく、怪我人はわざと突き放したような声音を吐き出した。 しかしバットマンの実子たる生意気小猿は、その程度で引き下がるような器ではない。臆した様子もなく腰に手を当て、右目だけを細めた左右非対称の表情をつくってみせた。 「喧嘩自体はいつものことだけど、ふたりしてこんなにわざとらしく避け合うのは初めてだ」 「俺がこの部屋から動けねぇからそう思うだけだろ」 話を終わらせるため、次男はこれ見よがしに木杓子を持ち上げて、ダミアンの目の前で振ってみせる。 椀に取り分けた雑炊は湯気とともに梅干しの香りが立ち上ってきて、僅かだがジェイソンの食欲を増進させた。肩が少し痛んで辛かったが、黙って食べる。ダミアン相手にひな鳥の様に口を開けるなど死んでもゴメンだ。 小猿は怪我人の様子をしばらく眺めていたのだが、やがてその場にどっかりと腰を下ろし、傲慢不遜にあぐらをかいた。 居座る気かよ。 思って首を傾げたジェイソンは、次の瞬間 「グレイソンに告白されたのがそんなにショックなの?」 と問われ、雑炊を口に入れ損ねてしまった。 頬に木匙がぶつかり、肌にベットリと米が付く。原因を作ったダミアンは悪びれた様子もなく「あーぁ」と声をだし、膳の上に置いてあった布でジェイソンの頬を乱暴に拭った。 「要介護になるのはまだ早いよ」 生意気なガキだとか、可愛げが無いとか、いつもなら軽口を返していただろう。しかし残念ながら、今のジェイソンにそんな余裕はなかった。 「ま、まて、まてまて、お前、よくそんな平然と言えるな? え? は? 気付いてたのか? 聞いてたのか? あれ? それとも俺、カマかけられてんのか?」 「傷は治っても思考回路は鈍ったままみたいだ」 ジェイソンの頬についた汚れが綺麗に取れた。末弟が汚れた布をたたみ直しながら淡々と語る。 「僕はあいつのロビンでもある。気付かないわけないだろ。ドレイクも気付いてるよ。そんなに鈍くないから。気付いてないのも戸惑ってるのも動揺してるのも、トッドだけだ」 「は? まじ? なんで?」 混乱が最高潮に達したレッドフードは、間抜け言って差し支えない返答しかできなかった。 いつもなら皮肉を吐き捨てるであろうダミアンが、なぜか照れくさそうに頭を掻く。 その後、何事もなかったかのように腕を組んで胸を張り、怪我人に向かって顎を突き出した。 「ふたりが恋人同士になっても、ならなくても、あんたもあいつも僕の……まあ、一応、家族なのは変わりない。戸惑う理由がない」 ジェイソンは椀に木匙を突っ込んだまま動かない。口をぽかんと開けたまま少年を見つめている。 次兄の惨状を見た小猿が眉を顰め、こめかみに人差し指を押し当てた。 「むしろなんでトッドがそんなに動揺してるのかわからないな。あんた達の場合、ウェスタ−マーク効果が発生するほど長い期間一緒にいるわけでもないだろ。あんたがすぐに死んだから」 「お前本当クソ生意気だな」 「ドレイクも僕と同じことを言うと思うよ」 早く食べ終わってよ、というダミアンの言葉で我に返った怪我人は、不遜な物言いを不満に思いつつなんとか雑炊を完食した。 するとロビンが慣れた手つきで真新しい包帯を取りだし、古い包帯と取り替えていく。 「もう自分でできる」 「そう思うなら早く治して」 どいつもこいつも、弟はみんな可愛げが無い。五分で終わった包帯の交換は義務的で的確だった。 古い包帯と空になった膳を持った少年が立ち上がる。 「関係が変わったからって今までの関係がなくなるわけじゃないし、過去が変わるわけでもない。なんでそんなに怖がるんだよ」 「変わるかもしれねぇだろ。勝手に決めて話進めんなよ」 瞬間、ロビンが片眉を跳ね上げた。 「決めつけてるのはそっちだろ」 その表情も言葉も、朝方ティムの見せたものに似ていて、次兄は思わず目を細める。 血が繋がって無くても、仲が悪くても、同じ家で暮らしている以上どうしてもどこか似てしまうものだ。 「グレイソンの野郎も、ティムの野郎も似たようなこと言ってたな」 「だろうね」 言い捨てて、小猿が歩き出した。部屋を出る直前に立ち止まり、微かに首を動かして怪我人を見据える。 「その気がないならその気がないってハッキリ言ってやれば良い。そんな風に見られないっていうならそれもいいけど、思考停止するんじゃなくて、せめてちゃんと考えてやってよ。リチャードに向き合ってやって欲しい」 ダミアンが目を細めた。深緑を凝縮したような緑眼が、鋭い眼光でレッドフードを射貫く。責めるでも否定するでもなく、かといっていつものように嘲るのでもない、純粋で真っ直ぐな瞳だ。 「どうせダメだとか、決めつけるのはもうやめなよ」 怪我人の返事を聞く前に襖が閉まる。残ったのはジェイソンだけだ。 やけに広い部屋にひとりきり、静まりかえった空気がやたら体に突き刺さる。 「……相変わらず、クソ生意気だな」 真新しい包帯に触れた男は、布団の上に座り込んだまま頭を抱えて項垂れた。 なぜジェイソンだけが、兄弟に戻ることに怯え、兄弟から変わることに怯えているのだろう。 ダミアンもティムもディックも、なにが変わろうとも、兄弟という関係までは変わらないと思っているのに、ジェイソンだけが関係の変化に怯えている。 頭を抱えたまま男は静かに目を閉じた。視界が闇に包まれ、静寂が鼓膜を痛めつける。 自分だけがなぜこんなに家族との関係に怯えているのか、深閑とした闇の中で考えても答えは見えてこなかった。 自分だけ家族として関わっている時間が少ないから? グレイソンにコンプレックスがあるから? どれだけ考えてもしっくりこない。そもそもグレイソンへのコンプレックスを引きずっているのだったら、あんなに簡単に兄弟の関係へ戻れないはずだ。 苛立ち紛れに掛け布団を握りしめると、肩口の傷が微かに痛んだ。 思わず顔をしかめたジェイソンは、体の芯が痺れるような痛みに死んだ時のことを思いだす。 そして息が詰まる間隔に今度は生き返った時の――ラザラス・ピットから這い出てきた時のことを思い出して目を開けた。 変わってしまうことが怖いのは、変わってしまった関係を知っているからだ。 ジェイソンの死後、環境が変わって、彼自身の心も、家族の心も、家族とジェイソンの関係も変わってしまった。変わってしまっていた。 置いていかれることが怖い。 追いつけないことが怖い。 自分の知らない間に変化しているなにかが全てを奪っていく気がする。 ジェイソンは既に、自分の知らない間に変化したなにかに全てを奪われたことがある。 またなにかが変わったら、自分の認識していた世界のすべてが壊れてしまうかもしれない。 他の連中はなにも不安に思っていないのに、自分だけが怯えている。 ひどく情けないと思った。 生き返った時の変化は周囲のせいではない。ジェイソンが自分で変わることを選んだ。 だというのに、今更なにを。自分から変わってしまったクセに。 自然、口元に笑みが浮かんだ。自分を嘲る様に息を吐く。 「情けねぇな、自分で選んだクセによ……」 ディックに兄弟として接していた時、とても穏やかで温かい気持ちになった。 あのまま束の間でいいから昔の関係に戻って、穏やかな気持ちでいたいと願った。 せめてこんな、異常事態の時くらいだけは許されるだろうと、仕方ないと自分に言い訳をして甘えていた。 やっと取り戻した穏やかな時間を、また手放すのが怖かった。 だからディックの『 すべてが変わって、壊れてしまうだろうと思ったから。 「なるほど、確かに……勝手に決めつけてたのは、俺の方か」 自分の手に視線を落とす。 みっともなく布団にしがみついた手を眼前に持ち上げた男は、少し考え込むような素振りをみせた後、右手を強く握りしめた。 目を瞑り、自分の鼻先に拳を思い切り叩き込む。 バキ、と鈍い音がした。 熱をもった痛みが顔の中心で脈打ち、掛け布団にパタパタと血が落ちる。 寝ぼけていた意識をハッキリさせるには、このくらいしなければならない。情けない自分に活を入れるにも丁度良い。 「よっしゃ」 流れ出た鼻血を拭った後、乱暴に立ち上がって部屋を出た。 傷が少し痛んだが、ディックを探して伝えなければいけないことがある。 部屋の外はなにやら騒がしく、ジェイソンが騒ぎの方向へ向かっていくと、武装したレッドロビンと目が合った。蝙蝠衆に囲まれ、なにか忙しなく相談している。 次兄が接近する間に蝙蝠衆との相談を一段落させたティムが、怪我人に視線を向けた。ジェイソンの顔を見て小さく息を呑んだ四男は、レッドフードの顔を凝視したまま体を硬直させる。 「ジェイソン、顔、腫れてる」 「ああ、自分で殴った」 弟の目尻がつり上がり、眉間に皺が寄った。兄の返答を聞いた彼は微かに顔を赤く染めてジェイソンを睨み付ける。 「怪我人がなにしてるんだよ!」 「それより、なんで武装してんだよ」 次兄の指がティムの背負う日本刀を指差す。その上レッドロビンは蝙蝠衆が用意した忍者服を着ていて、腰にユーティリティベルト代わりの巾着をいくつか下げていた。 指摘されたティムはドミノマスクの奥で困惑したように視線を泳がせる。 「ああ、いや……でも、貴方には……」 「なンだよ、言えよ。勝手に飛び出してって欲しいのか?」 「それはやめろ」 冷たい目がジェイソンを見据えた。おそらくなにかトラブルがあったのだろう。四男が一瞬だけ視線をさ迷わせ、それから諦めたように言葉を吐き出した。 「ディックから伝書が来たんだ。作戦行動中に負傷した。だから、救護を」 よく見れば、少年の手には短い手紙のようなものが握られている。伝書蝙蝠に使う紙だ。ジェイソンがすぐさまそれを奪い取ると、ティムは 「ちょっと!」 と声を荒げる。 レッドロビンの腕が手紙を取り返そうと伸びてきたが、次兄が腕を少し上げれば彼の届く高さではなくなってしまう。 弟の抗議を無視して、レッドフードは手紙に目を通した。 ディックが負傷したことと、敵と交戦した位置が記されている。ジェイソンが侍たちと戦った、森の中腹。 必要な情報を頭に叩き込んだレッドフードは弟に紙片を突き返し、不機嫌を露わにした低い唸り声を出した。 「作戦ってなんだ? 俺は聞いてねぇぞ」 「怪我人なんだから当たり前だろ。例の侍たちがまた不穏な動きをしてたんだよ。それでディックが」 「俺の代わりに行ったってか」 思いのほか低い声が出る。兄の怒りを察知したティムは、困った様な表情で首を横に振った。 「そういうわけじゃない。臨機応変は当然だろ。貴方はここにいて」 だが、虚無僧は弟の話を聞いてはおらず、身を翻して走り去った後だった。すでに止められる距離ではない。うっかり怪我人を見送ってしまったティムは、大きく吸い込んだ息を肺に溜め込み、力任せに頭を掻きむしった。 「うちの兄貴はどっちもなんでこうっ……!! ああもうっ!!」 苛立つティムのすぐ横、屋根から庭に飛び降りたダミアンが、片膝を地面についたまま縁側のティムを見上げてくる。 「どうかしたの?」 尋ねられた少年が動きを止め、口をへの字に曲げたまま答えた。 「バカ二号機が暴走した」 「想定の範囲内じゃないか」 「正しくは"想定の範囲内で最悪のケース"だ」 ダミアンの肩に乗っていたモン吉が首を傾げる。 ティムが暢気な猿を羨ましげに睨み付けていると、不機嫌な少年の元に蝙蝠衆の男が駆け寄ってきた。 「こちらも準備が整いました」 声をかけられてやっと猿から視線を逸らしたレッドロビンは、内心で「集中、集中」と小さく呟き気持ちを切り替える。 一瞬目を瞑った後に見開かれた彼の眼窩は、雑多な感情を排し目標だけを見据える軍人のそれに近かった。 「わかりました。では、伝書の場所へ向かいましょう」 そう言って音もなく走り出したティムの後をダミアンが追いかけ、そのさらに後を十数人の蝙蝠衆が追いかける。 今まで騒がしかった屋敷は一瞬にして静寂を取り戻し、精鋭部隊は伝書に明記された地点に向かって突き進んでいった。 彼らが目的地にたどり着くのは四十分後。 それよりも数十分早く目的地に到着したジェイソンは、劣悪な足場を数分走ったあたりで、侍たちと交戦しているディックを発見した。 赤い天蓋の隙間から、地面に五人倒れているのが確認できる。全員、ジェイソンと戦った侍の残党で間違いなかった。 現在ディックと争っているのは、集団の中でもトップレベルの実力者であろう侍ふたり。 ジェイソンが追い詰められた時、一歩離れた位置で高みの見物を決め込んでいた連中だった。 ナイトウイングの右足大腿部には大きな切り傷があり、左の腹部にも刺し傷があるようで、そのせいか動きが鈍いように思える。 状況を把握したレッドフードは走りながらも拳銃を構え、兄に斬りかかろうとする敵の足もとへ照準を定めた。 パンッ、と火薬の爆ぜる音がして、地面に鉛玉がぶつかる。衝撃で土が弾け飛び、侍の怯んだ隙にジェイソンは敵と兄の間に割り込んだ。 刀を上段に振り上げていた侍が、赤い天蓋を被った僧侶を双眸に収め、うわずった声を出す。 「貴様、生きていたのか!?」 「だから勝手に決めんなって言ったろ」 レッドフードが両手にもった銃を器用に回転させ、敵に向かって構える。弟の背中に庇われたナイトウイングは、現実を受け止めきれないといった表情を浮かべた。 「お前、どうして」 「怪我人は黙ってろよ」 弟の短い返答がお気に召さなかったらしく、どこかぼんやりしていたディックがすぐさま眉を顰める。 「お前に言われたくない」 「俺はお前よりマシだ」 侍が刀を下段に構え直した。所作に隙はなく、殺気混じりの視線がレッドフードとナイトウイングを貫く。 「国を思っての行動だ。邪魔をするな」 「関係ねぇな」 ジェイソンも銃を構え、背後の兄を庇うように一歩前へ進み出た。侍を睨み付けながら目を細める。 「テメェらの都合なんか関係ねぇんだよ。俺は俺の都合で動く」 侍がもうひとり、仲間の隣にきて刀を中段に構えた。ジェイソンは両手に二丁拳銃を構えたまま、敵との間合いを計る。お互いに睨みあったまま、すり足で距離を取っていき、相手の隙を窺っていた。 ジェイソンが僅かに銃口を動かす。 「それにだ。国が心配なら自分でなんとかしろよ。なんで他所の国の悪党に頼ってんだよ。悪党だぞ悪党。喰いモンにされるのが目に見えてんだろうが」 森の中を一陣の風が吹き抜ける。葉のこすれる音が流れ去り、ジェイソンは天蓋の向こう側に見える侍たちふたりを嘲って微かな笑い声を漏らした。 「結局自分が美味しい思いしてぇだけなんだテメェらは。大言壮語で気持ちよくなって、ついでにちょっと良い思いしときましょうってな……俺はなぁ、そういう、綺麗事並べ建てて自分にも他人にも嘘ついて汚ねぇことやってる奴がなぁ」 敵ふたりが一歩踏み込んだ。 ジェイソンも引き金に指を掛ける。 一瞬、静寂があった。 大きく息を吸い込んだ虚無僧の手に力が入る。 「反吐が出るほど嫌いなんだよッ!!」 爆発の勢いで飛び出した鉛玉が侍に襲いかかった。 敵は地面を蹴って左右に分かれて弾丸を避ける。 ジェイソンの背後にいたディックが悲鳴のような声をあげた。 「やめろ、レッドフード! 傷が開くぞ!!」 「構うもんか。甘ったれてた罰だ」 侍のうちひとりが右側からジェイソンに斬りかかってくる。 虚無僧が銃身で刃の切っ先をずらし、攻撃を躱した。 素早く狙いを定めて引き金を引くも、発射された弾丸は真っ直ぐ振り下ろされた刀で真っ二つに切られてしまう。 ジェイソンが間を置かず、もう一方の銃で敵の足を狙い撃つ。 敵は後ろに飛んで攻撃を避け、狙い澄ましたように左から新しい攻撃が迫り来た。 殺気に気付いた虚無僧が背後に庇った兄へ向け叫ぶ。 「おい、走れ!」 ディックが走った。 レッドフードが面に煙幕弾を叩きつける。 即座に視界が灰色に染まった。 虚無僧が煙の間から侍達に拳銃を向ける。 小さな爆発音を響かせながらその場を離れ、凹凸の激しい森の中をふたりで走った。敵はまだ煙に囲まれて咳き込んでおり、追ってくるのに時間がかかるだろう。 隙をついて倒れた木の陰に滑り込んだディックとジェイソンは、その場に座り込んでそっと背後を振り返る。 侍が追ってくるような気配はなかった。とりあえず一旦は凌げたらしい。 背中を苔むした木に預けたレッドフードは、片手で腹を押さえて天を見上げた。 肺に詰め込んだままの空気をゆっくりと吐き出して肩の力をン浮いたあと、自分の着物の裾を破る。ビィイッ、と甲高い音を立てて破けた布をディックの腹部に宛がい、包帯の代わりにして止血した。 一連の流れを見ていたナイトウイングが小さく呟く。 「ありがとう、すまない」 「礼なら生きて帰ってから言えよ」 続けてもう一度着物を破り、今度は兄の大腿部に巻き付ける。 仲間の応急処置を終えた後は、赤い天蓋を外して大きく息を吸い込んだ。呼吸を整えた後、いつ敵が襲ってきても良いように銃の状態をチェックし、弾丸を込め直す。 ゴッサムから持って来た拳銃は鉛玉を使用するので、中世日本では薬莢の補充ができない。なんとかあらゆる技術を応用して、この時代の薬莢である早合を連射可能なよう改造したのが、ジェイソンの使用している火縄銃だった。 レッドフードも最初は馴れなかったが、今や柔い作りの紙製薬莢ですら、金属薬莢と同じようにスムーズな補充ができるようになっている。慣れとは恐ろしいものだ。 傷の止血が終わったディックは、戦闘準備をしている弟に変わり周囲の気配を探っている。 ふいに、形の良い眦が僅かばかりジェイソンの方を向いた。 「ジェイソン……甘ったれてたって、どういう意味だ」 虚無僧の指が早合を丁寧に銃へ装填していく。兄の問いに、彼は視線を合わせず答えた。 「そのまんまの意味だよ。俺は、兄貴面するテメェに甘えてた」 ディックが言葉に詰まり弟を見つめる。彼の視線に気付いたジェイソンがナイトウイングを睨み付けた。 「おい、勘違いすんな。全面降伏じゃねぇからな。確かに俺は甘ったれだった。兄貴面するお前に甘えてた。だから俺も悪いが、お前もお前だぜ、グレイソン。家族なら助け合うべきだって最初に言い出したのはテメェだし、恋人になるんなら話し合うべきだろ。それを言いてぇことだけ言って逃げ出しやがったんだ。テメェもその傷が治ったら、一発殴られるくらいの覚悟はしとけよ」 緊張感のある声は、戦闘中だからというわけではない。なぜか小さく笑い声を漏らしたディックも、倒れた木にもたれかかる。弾丸を補充し終わったジェイソンとディックが揃って顔を上げた。 ナイトウイングの声は、まだ微かに柔らかい笑いを含んでいる。 「全面降伏ってなんだよ」 高く聳えた木々の合間から真っ青な空が見えた。どこまでも遠く続いていくはずの空が木々に切り取られ、風にのった雲が流れていくのが確認できる。 敵に追われているとは思えない穏やかな気分だ。すこし照れくさい。 ジェイソンの横で、同じく穏やかな気持ちでいるのだろう兄が、空を見上げたまま目を細めていた。 「ジェイソン、その顔、自分で殴ったんだろ」 「しらねぇな」 吐き捨てた途端、レッドフードの目つきが変わる。薄氷色の瞳孔に殺気が宿った。ディックも敵の近づく気配を察し、会話の終わりを悟ったのだろう。疲れたように嘆息する。 「痛み分けってことか。わかったよ、それでいい。僕は急ぎすぎたし、お前は臆病だった」 「ちげぇだろ」 ジェイソンが傍に置いた天蓋を被り直した。幹に肘をついて身を乗り出し、森の奥から走ってくる敵に狙いを定める。 視線を侍ふたりに定めたまま、虚無僧が引き金に手を掛けた。 「どっちも臆病で、どっちもひとりじゃ決められねぇことを、勝手に決めつけちまってたんだ」 森中に発砲音が響き渡る。 発射された弾丸を音で察知したのだろう。敵が鉛を刀で受け止めたが、立て続けに発射された弾丸が侍の足を貫いた。 「ぐぅっ!!」 低く呻いた男がその場にしゃがみ込む。 もうひとりの敵が、音と着弾位置からジェイソンたちの位置を割り出し刀を振りかぶった。 「そこか!」 飛びかかってくる敵に向かって虚無僧がもう一度引き金を引く。侍の頬に弾丸が擦るも、彼は臆する様子なく大声で叫んだ。 「志のない人間ごときに負けるわけにはいかん!」 レッドフードが小さく舌打ちをする。銃を腰のホルスターにしまい、兄の持っていたエスクリマスティックを奪い取った。 ナイトウイングはなにか言いたげな顔で口を開いたが、無視する。躊躇っている時間も兄の異議を聞いている時間もない。 敵の眼前に躍り出たジェイソンが、二本のバトルスティックを交差させ、敵の振り下ろした刀を受け止めた。 拮抗した状態で敵と睨みあった虚無僧は、侍の顔を睨み付けニヤリと笑って見せる。 「人の貴賤をテメェが勝手に決めるんじゃねぇよッ!」 虚無僧が腕をなぎ払って武器の切っ先をずらした。 相手が体勢を整える前に、もう一方のスティックを敵の腹部に叩き込む。 咳き込んだ侍が無理矢理振るった剣を、レッドフードは上方に跳んで避けた。 敵の頭上を取った虚無僧が、エスクリマスティックを構え直す。 重力に従って落下すると同時に、無防備な侍の脳天にバトルスティックを叩き込んだ。 「がっ」 敵が呻き、よろけた体が木の幹に寄りかかる。 侍と相対する形で着地したジェイソンは、既に半分ほど意識の無い敵の着物を二本の棍棒で貫き、木の幹に縫い付けてしまう。 間を置かず、敵の顎を掬い上げるように拳を叩きつけて完全に意識を刈り取った。 そうしてすぐさま背後の気配に気づき、振り向く。 立っていたのは、撃たれた片足を引きずり、剣を構える侍だ。 彼は黙って刃を虚無僧に向けた。 レッドフードも黙って腰のホルスターから銃を引き抜き、敵に照準を合わせる。 ふたりともその場で石の様に動かなくなり、数秒の沈黙。 重苦しい無音が侍の土を踏みしめる音で破られ、ふたり同時に行動を起こした。 銀一閃。 銃声。 脇腹に血を滲ませた敵が、ジェイソンの首すじに当たっていた刀を取り落として蹲る。傷口を押さえた両手がみるみる赤で汚れていき、男は小さく咳き込んだ後地面に倒れ込んでしまった。 レッドフードの右肩は侍の一撃で細い亀裂が入っており、治りかけの傷が開いてしまっている。彼も傷を抑えた手を赤く染め、忌々しそうに吐き捨てた。 「クソッ、痛ぇッ! 日本刀なんざクソくらえだ!」 虚無僧が躓いて転倒しかける。支えたのは兄の腕だった。 レッドフードが視線を向けると、ドミノマスクの奥にある青空が焦りと不安に歪んでいる。 「ジェイソン、リトルウイング!! 無茶しやがって、ここじゃ満足な治療だってできないんだぞ!?」 思いのほか大きな声だ。天蓋の奥で大音声に眉を顰めたジェイソンは、体を兄に支えられたまま左手でしきりに首の後ろを擦る。 「傷に障んだろ、騒ぐんじゃねぇよ」 「なら自分をもっと大事にしたらどうだよ! 短期間に二度も同じ場所を負傷して、腕が上がらなくなってもおかしくないぞ!」 「そんな深い傷じゃねぇよ、やかましいな」 虚無僧の耳元で、ディックが唇を噛み締めた。次いで彼が吐き出したのは、感情を無理矢理押さえつけたような、不自然に単調な声音だ。 「お前はいつもそうだ。僕の心臓を止めてどうする気だ? それとも危機管理能力がないのか? 首輪つけて鎖で繋がないと大人しくしてられないのか?」 レッドフードが顔をしかめるも、天蓋のせいで兄に見られることはない。ただし信じがたいという感情をめいっぱい詰め込んだ声は、確実にナイトウイングの耳に届くだろう。 「ちょっと待てよお前そんなこと考えてんの? 怖ッ」 「言葉のあやだろ!」 「いや、疑わしいわ。俺が怪我してた時だってお前、俺の体隅から隅まで拭いたのお前だけだぞ」 「ティムとダミアンじゃお前と体格が違いすぎるからやりたくてもやれないんだろ」 「じゃあなんで俺の傷が治って自力で動けるようになったタイミングで告ったんだよ」 兄の視線がジェイソンの目を捉える。深網み笠の奥に隠れているにも関わらず、無遠慮なまでに射貫いてくる視線は、多少弟を気後れさせる効果があった。 「会話の流れじゃないか?」 「お前が嘘つくとき、瞬きしねぇでやたら俺の目まっすぐ見てくんの知ってんだからな」 「……僕は今、始めて知った」 事実上の敗北宣言。体を支えられたままだったが、虚無僧はこれ幸いとばかりわざとらしく声を張り上げる。 「へんたーい! 俺のことそんな風にみてたのねへんたい!」 だがディックは表情を変えず、静かに強い声音でジェイソンの糾弾をはね除けた。 「当たり前だろ」 「お……」 「そんな風に見てなきゃ告白しない」 「……お……」 「あと、そんな状況でまた同じ場所に怪我をしたお前はバカだ」 「……返す言葉がねぇ……」 虚無僧が恨めしげに兄を睨むと、ドミノマスクの奥で整った顔が微笑んだ。 照れくささと決まりの悪さで舌打ちしたジェイソンが、ふいに遠くからの声を聞く。 ディックも声に気がついたようで、前方にレッドロビンとロビンの姿があった。そのすぐ後ろに蝙蝠衆。 ディックが口を開く。 「レッドロビン!」 呼ばれたティムが走るスピードをあげ、いの一番に兄の元へ駆け寄ってきた。息を切らせた彼は、ナイトウイングとレッドフードの状況を確認し、乱れた呼吸のまま切迫した声を絞り出す。 「ふたりとも、怪我はしてるけど一応無事だね! 敵は!?」 彼の質問に答えたのはレッドフードだ。 「そこで寝てる」 遅れてやってきたダミアンが蹲る敵を見て即座に脈の有無を確認した。腹が上下しているのを見て取った少年が、傷に手早く布を巻きつけ止血する。 肩に乗った猿がキキッ、と甲高い声を上げると共に、まだ幼い輪郭がジェイソンに向けられた。 「殺さなかったんだ?」 「情報吐かせなきゃなんねぇだろ」 蝙蝠衆が敵ふたりを取り囲み、あっという間に拘束してしまう。気絶した侍ふたりが連れ去られた後、忍者のひとりがジェイソンたちに向き直った。 「では、こちらは我々が引き取ります」 答えたのはティムだ。 「お願いします。僕らは兄たちの応急処置をしてから里に戻りますので」 「わかりました。伝えておきます」 ダミアンがディックの傷口に巻かれていた着物の切れ端をほどき、水筒に入った水で傷口を洗う。応急処置のために道具は揃えてきたようで、ロビンは兄の腕と大腿部に手早く包帯を巻いていた。 ジェイソンのほうは、非常に不機嫌な様子のティムが眼前に仁王立ちし、肩口の傷に水筒の水をかけられる。洗うというよりぶちまけると形容したほうがいい雑な動作だ。 それからレッドロビンは、苛立った様子を隠しもせず、虚無僧の腕に包帯を巻き付けていく。 「同じ場所を斬られるなんてバカだろ。だいたい、僕、里で待ってろって言ったよね? 怪我人のクセして無茶して怪我悪化させてなにがしたいんだよ。頭のネジはいつ落としたんだ?」 「テメェの説教が一番傷に障る」 兄の小さな反抗に、ティムはドミノマスクごと盛大に顔を歪めた。大袈裟に仰け反ってみせ、歪んだ口元から攻撃に特化した声音を響かせる。 「はぁあぁ? 自業自得だろ? 破傷風になっても僕は知らないからな!」 包帯の結び目を傷口の上に作ったのは確実にわざとだろう。ジェイソンの全身を痛みが走り抜け、肩を揺らした虚無僧の背中をティムが乱暴に叩いた。 「ほらっ、早く立てよ! 里でちゃんと手当てしてもらわなきゃいけないんだから!」 「おい、怪我人に対する態度じゃねぇぞ!」 「わざと怪我した人間にかける同情も気遣いもないよ。当たり前だろ!」 言いながら、レッドロビンが兄の腕を肩に担ぎ、支えるようにして歩き出す。 一応、足場の不安定な森で介助してくれるくらいの情けはかけてくれるらしい。 ディックの方をみると、ダミアンに支えられて苦笑しつつ、森の中を歩いていた。彼らの足もとをチョロチョロと動き回る猿も、まあおそらく心配してくれているのだろう。 ジェイソンの視線に気付いたのか、ナイトウイングがふと顔を上げる。 お互いの目が合うと、長兄が悪戯っぽい笑みを浮かべ、首を傾げて見せた。 「そういえばジェイソン、まだ返事を聞いてないんだけど」 照れくさくなった次男がとっさに顔を逸らしてしまう。ナイトウイングの笑い声が聞こえてきて腹が立った虚無僧は、無意識に唇を尖らせて視線をあらぬ方向へ投げ捨てた。どんな表情を作ろうとも、深編み笠に隠れて見えはしないはずだ。 「どうせふたりとも怪我療養で同じ部屋にブチ込まれんだ。急かすんじゃねぇよ」 ディックが返事をする前に、レッドフードを支えていたティムがわざとらしいほど大きく嘆息してみせる。 「別にふたりの時にナニしててもかまいやしないけど、僕とかダミアンが行く時は自重してよね。手当てに言ってアテられちゃたまんないよ」 ダミアンが不思議そうに首を傾げた。 「なんの話?」 ティムは呆れたような表情のままだ。 「わからないならお前にはまだ早いんだろ」 「どういう意味だよ!」 「そのまんまの意味だ」 「そうやっていつもバカにするんだお前は!!」 騒がしい声が森中に響き渡り、先程まで命がけの戦いをしていたのが嘘のようだ。 再び顔を見合わせて、ディックとジェイソンが苦笑する。 それから長兄が、ひどく優しい笑みを浮かべて眸子を細めた。 凝縮された青空がジェイソンを映し、愛おしそうに潤んでいるのがたまらなく気恥ずかしい。 虚無僧の耳に聞こえるのは、甘くて優しくて穏やかな、兄を兄とは思えなくなりそうな熱の籠もった声。 「全部、ゆっくりでいいさ。まだ始まったばかりで、きっとこれからも、僕らたくさん問いかけていかなきゃいけないことがある」 思わず耳を塞ぎたくなって、手が自由に動かせないのだと思い出したジェイソンは、顔に集まってくる熱を払い散らすかのように 「チッ」 と乱暴な舌打ちをして見せる。 勢いが良すぎて傷が痛み、小さく呻くとティムに笑われた。生意気な弟に「なんだよ」と問いかけると、「別に」と短い返答が帰ってくる。 ダミアンが「早く行こうよ」と急かしたので、口論は中断せざるを得なかった。 四人全員が前を向き、森を抜けて里を目指し歩いて行く。 きっとこれからも歩いて行くのだろう。 いろいろなことを自分や、相手に問いかけながら。 家族にも、自分にも、向き合えばどんな問いでも答えが見つかると、今は信じていたかった。 [しおりを挟む] 目次 戻る |