1 部屋が酷く散らかっており、開け放たれた洋服箪笥からはいくつもの服が引き出されて床にぶちまけられていた。 その布の中央に、写真立てを握りしめて蹲る男がひとり。 写真立てには男が三人映っており、ひとりは床に蹲る男――ディック・グレイソン。 もうひとりはブルース・ウェイン。 もうひとりは、先日葬儀が執り行われたばかりの、ウェイン邸二人目の養子、ジェイソン・トッド。 この世にいない弟の輪郭を、人差し指の腹でゆっくりなぞったディックは、もう一度獣のようなうめき声をあげて布の海に顔を埋めた。 死んでしまった弟の部屋。愛する少年の残り香で、窒息したいとでも言うように。 最初はそれだけで満足だったのだ。 彼の部屋に入って、片鱗を追いかけるだけで満足していた。時間が許す限り泣き暮らし、思い出に浸りながら眠りにつく。 弟を失って悲しいのだろうと、誰もがディックに何も言わなかった。 足りなくなったのは、いつからだろう。 気がつけば自分の家に、ジェイソンがよく着ていた服を何着か持ち帰っていた。 寝室のベッドに布を広げて、安い写真立てを買い込んで、僅かばかりの思い出をかき集め、自分の家でも形見に溺れていった。 弟の香りが、時間の経過とともに薄れていくのを、脳裏をかすめる幼い声が遠くなっていくのを、心底恐ろしいと思う。時計の針が進むことに震えながら、朝、ジェイソンの夢から覚めると同時に、まだ記憶を反芻できたことに安堵して息を吐くのだ。 家に帰ってくる度すぐさまベッドに沈み込み、微かに残る弟の気配に、まだここにいてくれるのだと、見当違いなやすらぎを得ては夢の中に逃げ込んだ。 そうしないと気が狂ってしまいそうだった。 守り切れなかったことも、知らない場所で弟が死んでしまったことも、あの声がもう自分を呼ばないことも、あの目が自分を見ないことも、あの笑顔がもう見られないことも、葬式に出られなかったことも、犯人がまだ生きていることも、なにもかも、受け入れられなくて気が狂ってしまいそうだった。 それでも時は残酷なもので、毎日思い返しているはずの記憶は、時間の経過とともに少しずつ薄らいでいく。ジェイソンがこの世のどこにもいないのに、笑顔になれる回数が少しずつ増えていった。 人間とはそういうものだ。 都合良くできている。 辛いことを忘れてしまえるように、前を向いて生きていけるようにできている。 そんな自分の脳味噌が、ディックは一番許せなかった。 もう何度も弟の遺品にまみれて自分を慰めているうちに、ジェイソンの香りはすっかり薄れ、自分の臭いで上書きされてしまっている。 新しいのを、もってこないと あの部屋ですら死んだ弟の気配が薄らいできていた。最近では、ディックが部屋に入る度弟のカケラが壊れてしまう気がする。 それでも入らずにいられないのは、忘れてしまうのが怖いからなのだけれど、忘れてしまうのが怖いからこそ、最近は部屋に入ることすら恐ろしい。 フラフラと、少年の服を握りしめたままベッドから起き上がった男は、自分の通信機に着信が入る小さな音を聞き届けた。 『ナイトウイング、バットケイブに来て。話したいことがあるんだ』 ティム・ドレイクの声。彼はジェイソンが死んだ後、荒れるバットマンを心配してやってきた少年で、今はロビンとしてヒーロー活動をしている。 「わかった。今からそっちに向かう」 短く返答してからヒーロースーツに着替えてバイクに飛び乗った。ティムが来てからディックの周囲は少しずつ変わってきている。 布に溺れる回数が減っていた。 写真を見つめる時間が減っている。 人間とは、そういうものだ。 アルフレッドから連絡が入ったのは、ディックが一ヶ月ぶりに弟の遺品へ顔を埋めた時のこと。 『リチャード様、落ち着いて聞いてください』 「どうしたんだ?」 すでに薄らいだ香りを肺いっぱいに吸い込んだままディックが尋ねる。鼻先を擦りつけているのは、ジェイソンが気に入っていた赤いパーカー。引き取られる前から来ていたもので、袖のあたりがすこしほつれている。 まだ薄い体は、この服を着ると布を背負っているようで、とても可愛らしかった。 死ぬ直前は逆に少し小さくなっていて、手首が袖から覗いていて、元気に走り回る度、ディックの視界をチラチラかすめて鬱陶しいほどに愛おしかった。 思考が彼方へ飛んでいったディックの鼓膜は、アルフレッドの言い淀むような声を、どこか遠くに聞いている。 執事の声が遠のく度近づいて来るのは死んだ弟の笑い声。 こんなに鮮明に思い出せるのは久しぶりで、心の底から嬉しく思う。 再び深呼吸したディックは、意を決したらしいアルフレッドの、信じがたい一言を聞いた。 『ジェイソン様が、お戻りになられました』 「え?」 正確には、ブルースとは袂を分かち、過激な方法で罪人を罰する道を選んだらしい。 とにかく、死んだと思われていたジェイソンは、なぜか墓穴から抜け出し、立派な青年としてゴッサムに戻ってきた。 『現在ジェイソン様は、レッドフードを名乗りヴィジランテとしてゴッサムを中心に活動しておいでのようです』 「そうか。知らせてくれてありがとう、アルフレッド」 そうは言ったものの、通信を切った後もディックは半信半疑のままで、遺品だと思っていた弟の服を握りしめたまま、レッドフードというヴィジランテについて調べる為コンピューターの電源を入れた。 ティムが調べた限り、彼は現在麻薬密売組織を追っているらしく、バットマンとロビンはレッドフードの殺人を食い止めるべく、同じ組織について調査を行っている。 ディックにジェイソンのことを知らせるより以前に、ブルースとティムは情報を共有していたらしい。彼らの拠点はゴッサムなので当然だし、ここ最近ディックは別の事件にかかりきりだったので遠慮して連絡してこなかったのだろう。 衝動を抑えきれないまま、ナイトウイングのスーツを着込み、ゴッサムシティへと向かった。 麻薬密売組織のアジトかもしれない建物は街の中に三箇所あり、一箇所はバットマンが、もう一箇所はロビンが、もう一箇所は警察が見張っているらしい。 無論優先度が高い順で人が割り振られているのだが、ディックが気になったのは、警察が見張っているという廃アパートだった。 アップタウンの東にあり、取り壊しが決まっている建物。立ち入り禁止ではあるが比較的出入りはしやすく、目に痛い色のスプレーを使った落書きがそこかしこの壁にへばりついている。一歩踏み入れればインスタント食品の容器や空き缶、果ては使用済みコンドームなんてものまで落ちているから、たしかに組織犯罪の取引やアジトには向いていない。万が一目撃者を出してしまえば手間が増えるし、警察やヒーローに目を付けられる機会を増やすだけで、良いことなどなにもないからだ。 けれど、今回の連中は新参者。 海千山千の犯罪者が蠢くゴッサムで、新参者が入り込める場所は、非行少年の入り込める場所と大差がない。 彼らは子供にも麻薬をバラまいているらしく、その広がり方が尋常でないらしいので、悪ガキどもが"親しみ"を感じる場所にアジトを構えていても不思議ではないと思ったのだ。 ジェイソンなら、きっとそういう連中に一番怒りを感じるはずだから。 埃とカビとゴミの臭いに満ちた階段を、音を立てないよう一段ずつ上っていく。 天井からぶら下がる錆びたパイプが雨水を滴らせていて、床は一部がふやけてしまっていた。 細心の注意を払い、腐った足場を跳び越え着地する。 剥がれた壁紙の奥に、鉄筋の骨組みが見えていた。 ドアの外れた部屋がある。そこから人の気配がした。 もしやビンゴなのだろうか。 そのわりに、人数は多くないようで、息遣いなどは感じられない。 不思議に思って部屋を覗き込み、ナイトウイングは小さく息を飲み込んだ。 埃にまみれて曇りガラスのようになった窓の前。ディックより多少背の高い男が、壁にもたれかかるようにして立っている。 その周囲には、頭や腹を撃たれて動かなくなった男女が数人倒れていて、おそらくもう息はない。 気配は殺していたはずだったのに、男はナイトウイングに気付いたらしく、壁にもたれかかったまま声をかけてきた。 「よう、ダディのお手伝いで来たのか?」 聞き覚えのない、低い男の声。それなのにひどく親しげに話しかけてくる。 月光に照らされた頭部には赤いフルフェイスマスクを被っており、表情はうかがい知れなかった。 おそらく彼が"レッドフード"なのだろうが、ディックの中にあるジェイソンのイメージと、この逞しい男がイコールで結びつかずに脳が混乱状態に陥っていく。 とにかく気配を殺すのは諦め、警戒しながらレッドフードの前に姿をみせることにした。 「お前がこれをやったのか?」 「なんだよ、冷てぇ言いぐさだな。死んだ弟の顔なんてとっくに忘れちまったのか?」 「顔が見えないからな」 「ああ、そりゃそうだな。一理あるぜ、ディッキーバード」 ディッキーバード。機嫌の良い時、ジェイソンはディックをそう呼んでいた。 ナイトウイングが片眉を跳ね上げる。 彼のピリピリした殺気にもかかわらず、レッドフードは怯えもしないでフルフェイスマスクを脱いで見せた。 現れたのは、黒髪と薄氷色の瞳をもつ、精悍な青年だった。 しっかいした骨格、太い首と太い眉。強い意思を宿した氷の瞳。 胸が締め付けられてしまいそうなほど、しっかりと、死んだ弟の面影があった。 見間違うはずがない。 彼がいなくなってしまってからずっと、ディックは毎日のように弟の写真を見つめ、姿を思い返していたのだから。 でもだからこそ、受け止めきれなかった。 バットマンの元で、自分と同じく不殺を掲げていたはずの弟が、なぜ道を違えてしまったのか。 「ジェイソン、なのか?」 「ああ。ダディから聞いてんだろ?」 「……執事から聞いたよ」 「なんだ、アルフレッドが連絡したのか。じいさんによろしく言っといてくれや」 アルフレッドの名前も知っている。間違いなくジェイソン・トッドだ。 「リトルウイング、どうして、こんなことを」 「犯罪者に殺された人間が、生き返って犯罪者殺し返すのが、そんなにおかしいか?」 また殺されたくねぇだけだよ、と男は笑った。 本心ではない、と思う。 ディックの可愛い弟は、いつも嘘をつくとき目を少し伏せるから。 今も冬の湖が、長い睫毛の下で小さく震えている。 「ジェイソン……」 ディックが一歩近づいた途端、レッドフードが兄に背を向けた。 「じゃあな、今回は俺の勝ちだ。全員殺してやったから、後始末はテメェらが好きなようにやんな」 引き留める前に、ジェイソンの体が窓ガラスを突き破って闇の帳に躍り出る。 なにか言おうとしても声がでなかった。 部屋には悪党の死体と、血と硝煙の臭いが漂っている。 なぜこんなことになったのか、やはりまだ理解できず、ディックは、変わってしまった弟の考えと、道を違えてしまった事実が悲しくて、朽ちかけた壁を乱暴に殴りつけたのだった。 [しおりを挟む] 目次 戻る |