白濁



1


山姥切長義は同位体から話を聞いていたので主の事は恨んでいなかった。そもそも聞いていなくても恨みはしなかっただろう。この審神者は己を扱う力量がなかったのだなと、それだけだった。
だが、死ぬのなら戦場がいい。ヒトの躯を得ようが、己は刀だ。
だから幾何かの時が経ち漸く念願叶って出陣命令が下った時。押し込められた一室で長義は安堵したのだ。この意味のない生を漸く終えれるのだと。刀装やお守りを持たされず、丸腰の単騎出陣。それでも刀として振るわれないのなら、折れた方がマシだった。名前についてはまぁ、他の同位体が頑張ってくれるだろう。
斯くして山姥切長義の刀生は終わった。最後は一応刀として戦場に立てたので満足だ。願わくば、次の刀生は己の力を示せますように。
だからまさか、人間として生まれるなんて、長義は思ってもいなかったのだ。


***


極々一般家庭の息子として生まれたらしい長義は(不思議なことに名前も刀だった時と同じだった)、のびのびと過ごした。何せ今世では名前のしがらみなどない。勿論、両親の期待には精一杯応えたつもりだ。相当優秀な成績だと自覚しているし、クラスメイトだけでなく教員からの人望も厚い。次期生徒会長候補にも挙がっている。長義の人生は順風満帆だった。――だったのに。
それは己の前世が刀だったという事実が頭の隅に追いやられていく頃であった。何時もの様に下校していると、背後から声が掛かったのだ。それは別に構わない。問題は、
「山姥切」
「――っ」
ぞわり、と背筋が震えた。聞き覚えのある声。だが、それは可笑しいのだ。此処に――現世に居る筈がない。
正直、振り返りたくはなかった。然しこのまま逃げ出すのもプライドが許さない。仕方なく、長義はゆっくりとそちらを振り向いた。
そこには矢張り、見覚えのある人物が立っていた。
「……何故、お前が此処にいる」
山姥切国広。長義が刀だった頃の写しがそこにいる。だが何処か様子が可笑しい。思わず一歩後退ると、国広は嬉しそうに微笑んだ。
「やっと見つけた、俺だけの山姥切」
うっとりとした表情を浮かべるその姿はとても正気とは思えない。逃げろと脳内で警鐘が鳴る。一歩、長義が後退ればそれに合わせて国広もまた一歩踏み出した。これは不味い、と本能的に悟る。捕まったら何をされるか分かったものではない。一か八か、賭けに出るしかない。素早く身を屈め、そのまま一気に駆け出した。後ろを振り返る余裕はない。ただひたすら前だけを見て走る。幸いなことに運動神経は良い方だ。直ぐに角を曲がり、人気の無い路地裏へと入る。そこで漸く立ち止まり、荒くなった息を整えた。
「…………くそっ、くそくそくそっ!何なんだ……ッ!」
あれは異常だ。あんな目で見られたことなど一度もない。
そもそも、長義はもう刀ではなく人間だ。だから歴史修正主義者や時間遡行軍など、今の長義には関係ない。刀としての繋がりもない。なのに何故、偽物くんに追われなければならないんだ。
……兎に角、このまま見つからず自宅に戻らなければ。体力も幾分かは回復した。これなら自宅まで走り抜けることが出来るだろう。溜め息を吐きながら立ち上がり、再び足を動かそうとしたその時だ。腕を強く掴まれ、背中に強い衝撃を受ける。どうやら壁に押し付けられたようだ。痛みに顔を歪めると、目の前には国広の顔があった。ひ、と思わず悲鳴を上げそうになるのを抑え込む。何時の間に追いつかれたのか。いや、人間と刀剣男士では身体能力に差があると知ってはいた。それでも、もう少し時間は稼げると思っていたのだがどうやら甘かったらしい。どうにかこの場を切り抜けられないだろうかと思考を巡らせると、山姥切、と酷く冷めた声が耳に届いた。
「――何故逃げるんだ。また俺を置いていくつもりなのか」
「ッ、何を云って……」
ぎり、と掴まれた手首に力が込められる。骨が軋むような感覚に耐えつつ放せ、と国広を睨みつけると、更に強く壁に押し付けられて激痛が走った。
「……そうか、逃げるのなら仕方ない。穏便に済ませたかったが」
国広が長義の『名前』を呟くと、突然躯が動かなくなった。まるで金縛りにあったように指先一つ動かすことが出来ない。何だこれはと焦っていると、国広がするりと頬に触れてきた。
――その瞬間、長義は思い出した。人ならざるものに『名前』を知られてはいけないということを。『名前』は魂を縛るものだ。刀だった頃と同じ名前なのが仇になるとは思わなかった。抵抗しようにも、躯が動かなければ何も出来ない。
嗚呼、喰われる、と。己を見つめるその目を見て、長義はそう思った。






2


山姥切国広がそこに迷い込んだのは偶然だった。考え事をしているうちに知らず知らず入り込んでいたらしい。目の前には四季折々の花が咲き乱れ、この世ではない光景が広がっている。
己は2振目であった。1振目が極めたからといった理由で顕現される事もあるとは知っていたが、どうやら国広が顕現した理由はそうではないらしい。国広が顕現した時、審神者である彼女は涙ぐんで貴方だけはお願い、と告げたのだ。どういうことなのかと困惑する己を見兼ねたのか、後でこっそりと兄弟刀達から教えてもらい国広は漸く全てを理解した。――曰く、自分は1振目の代わりなのだと。
修行に行かせる予定だった1振目は、ある日から彼女に冷たくなったという。出陣も遠征も命じられれば従うらしいが荒々しい。修行の話を振ってみても興味ないと無視をされるそうだ。審神者の性格上、本来ならば既に刀解されているだろうに未だ顕現しているのは、『山姥切国広』が主のお気に入りだから。だが自分を見なくなった国広に審神者は耐えられなかった。だから新たに顕現させることにした、それが自分だという。……写しが写しの代わりだとは。とんだお笑い種だ。空虚感に苛まれながら国広は哂った。なんて酷いのだろう。ここでは誰も、『自分』を見る奴は居ないのだ。
憂鬱としながら、それでも呼ばれたからには応えるしかない。刀は道具だ、使われるのが当然。けれど誰とも、兄弟刀でさえも交流をすることなく。国広はただ、審神者の指示に従って生きていた。
だからだろうか、何時もの様に憂鬱とした気分で出陣から本丸に戻って来たつもりだったのに何時の間にか『領域』へ迷い込んでいた事に気づかなかったのは。己と同じ霊力からして1振目の『領域』であろう。しまった、と顔を顰める。踵を返そうとしたが僅かに覚えのある霊力を感じ取り、思わず足を止めた。この、気配は。
「……?」
妙な胸騒ぎがする。悩みつつも国広は目の前の屋敷へと足を向けた。本丸にとても、いやそのままといっていい程同じ造りのその建物に、国広は奇妙な感覚を覚える。此処に来るのは初めてなのに、初めての気がしないのだ。もしかしなくとも、1振目は此処で生活をしているのだろうか。ならば何故本丸に似せているのだろう。似せるのなら素直に本丸で過ごせばいいものを。
「……、おま、えは…………」
霊力を辿った先。中に踏み入り、幾つかの角を曲がったとある一室だった。開け放たれたままの障子から見えた室内に居る人物に、国広は目を見開く。どくん、と心臓が強く脈打ち思わず一歩後退った。
山姥切長義――己の本科。
それが何故か、此処にいる。本丸ではなく、1振目の『領域』に。いや、そもそも顕現していた事さえ知らなかった。審神者から何も聞いていないし、云われてもいない。だから、国広は彼について何も知らなかった。
「……おい、」
迷ったのは一瞬だ。何で此処にいるんだ、と声を掛ける為に国広は近づいた。起こそうと手を伸ばそうとした瞬間、長義が瞼を開ける。さっと手を引くと、彼と目が合った。
「……何で、此処にいるんだ。本丸に顕現していたのか?」
「……はぁ?何を云って……、……ああ、別個体か」
途中で覚醒したのか、不愉快そうに長義が顔を顰めた。苛立った様子だったが、国広が2振目だと理解したらしい。はぁ、と溜め息を吐き、その怒りを抑え込む。
「俺だって来たくて来たわけじゃない。お前が俺を知らないのは、まぁ、当然かな」
「……?どういう意味だ?」
首を傾げると、長義は躯を起こし面倒そうに答えた。
「俺は折れたからね。その後でお前が呼ばれたんだろう」
「え……?だが……」
目の前の長義は、生きている。会話も出来るし、触れようと思えば、触れられる、筈だ。国広が戸惑っていると、こちらをちらりと見遣った長義が鼻で笑った。
「解らないかな。俺はもう刀じゃない、人間だ」
お前の主と同じだ、と小さく呟かれたその言葉に。国広は愕然とした。そんな事、有り得るのだろうか。刀が人間に転生するなど聞いたこともない。到底信じられないが、目の前の本科……だった彼がこんな嘘をつくとも思えなかった。
「まぁお前が信じようと信じまいとどうでもいい。それよりも――、」
何かを云おうとした長義の顔色が変わった。それを国広が認識すると同時に、背後からの殺気を感じ取る。咄嗟に横へ飛び退き、状況を確認しようと国広は振り向いた。
「――俺の山姥切に触れるな……!」
殺意の籠った眼で国広を見つめるのは一振目だった。敵意と殺意を持って、先程まで国広が立っていた場所に刀が振り下ろされていた。練度はあちらの方が上だ、折られる、と咄嗟に本体へ手を掛ける。だが一振目は興味を失ったように国広から視線を外すと、刀を鞘に納めた。もうこちらに視線を向けることなく、長義の許へ向かう。
「済まない、無事か?俺がもっと早く来ていれば……」
「……」
「……山姥切?何故返事を、何故、何故黙る、山姥切、山姥切、山姥切山姥切、」
呆然と立ち尽くす国広を一振目はそこに居ないかのように視界にも入れず、膝をついて長義を抱き締めた。長義を腕の中に閉じ込め、ぶつぶつと繰り返す様はとても正気に見えない。長義はただ無言で一振目を見ていたが、軈て諦めたように溜め息を吐き出すとお帰り、と呟き、子供をあやすように一振目の背中を軽く叩いた。それに安心したのか一振目が小さく息を漏らし、長義の肩口に顔を埋める。その一連の様子を、国広はただ見ていることしか出来なかった。
……解らない。何が起こっているのか、全く解らなかった。
ただ唯一、解るのは。一振目はきっともう、壊れている。
「 ――…ずるい、」
気がつくと、そんな言葉が口から零れていた。
俺だって、国広なのに。何故一振目だけなんだ。一振目が壊れているからか。だから本科は、あいつにだけ優しいのだろうか。
何故だろう、あんなに逢いたくないと、寧ろ本丸に居なくて良かったと思っていたのに。今は一振目が羨ましくて仕方がない。胸の奥底からどろりと溢れ出した感情が、ぐるぐると渦巻いて止まないのだ。だから国広は、己の本科だった男に告げることにした。
「……俺だって、お前の写しだ。なのに何故、そいつばかり構うんだ」
自分でも驚く程低い声が出た。驚いたように目を見開いて固まった長義は、軈て我に返ると何とも言えない表情を浮かべた。
「……、……っはは。お前まで気が狂うとは」
そう云って何度目かの溜め息を吐き出すと、全てを諦めた様に目を伏せた。