偽りの安穏




――幼い頃から、『よくないもの』に目を付けられやすかった。何度死にそうになったことだろうか。
それでも今も死なずに人生を謳歌しているのは、あの時助けてくれた近所に住む青年おにいさんのお陰だ。美丈夫だが何処か浮世離れな言動が度々あったものの幅広い知識の深さと広さから近隣住民から嫌煙されることはなく、寧ろその知識を頼られ、周囲に馴染んでいた。あの時彼に助けてもらえなければ今頃とっくに死んでいただろう。
そんな青年とは助けてもらって以来、何かある度守って貰っていたが家庭の事情で引っ越しが決まってあっさりと別れることになった。
「――桃を食べるといい。古来より、桃には魔除けの力があると云われている。その力をその身に纏ってる間は、彼らはお前に手を出せない」
餞別にそう告げた男は何時もの諭すような凛とした声であったもののその双眸は何処か不穏な色を宿し、密かに恐怖を抱いたのと共に理解した――彼もまた、彼らと同じ『領域』の生き物であると。けれども彼は、きっとこちらに寄りそう側なのだろう。だって今までずっと助けてくれたから。そんな単純な思考だったが、男を信じることにした。
それ以来言われた通りに間食として桃を食べ続けた。怪異と遭遇はなくならなかったものの、こちらをぎらぎらと睨めつけるだけで襲われることはなく矢張り信じてよかったと思えた。家族は毎日桃を食べる己をそんなに桃が気に入ったのかと思っているようだが、訂正はしない。
何故なら彼曰く、『彼ら』の存在は一般的に深く信じられていないから。だから身を守るためと云っても不審がられて心配されるだけだ。


***


「――桃、お好きなんですか?」
「え?」
諸々の手伝いが終わり一息つきつつ何時も通りデザートとしてタッパーに入れていた桃を口にしていると、横から声を掛けられた。振り向くと端麗な顔が目に入る。同時にテーブルにコップが置かれ、向かい合う様に彼は椅子に座った。
キリル・チュードミロヴィッチ・フリンズという長い名前をした年上の男は、今のご近所さんだ。彼は先月こちらに引っ越ししてきて、引っ越しの挨拶を切っ掛けに仲が良くなり度々一人暮らしだという家に招かれるようになった。女性ならあっという間に虜になるだろう美貌の青年は意外にも日常生活能力に乏しく、お節介だと思いつつもついつい世話を焼いてしまう。でもそのギャップが良いと更に女子からモテそう、と密かに思っている事は彼には秘密だ。今日も学校が休みで、彼――長いから名字であるフリンズで呼んで欲しいと告げた男の家にやって来たのだ。
「いえ、よく食べていらっしゃるので」
「あー、ほら、桃って魔除けの力があるって云うじゃん?」
「…………ほう?」
――しまった、と思ったのは青年の双眸に不穏な色が宿ったからだ。長年『それら』に悩まされていたから一瞬で理解して、否、理解させられた。
あの時の青年おにいさんと浮世離れした雰囲気が何処か似ているなと心の奥底で既視感を抱いていた目の前の男は、あの人と同じように矢張りあちらの存在いきものだったのだ。
「――はは。なんてね、冗談だよ。うん、好きだよ桃」
「……そうですか。今はそれで納得しておいてあげましょう」
気づいたことに気づかれないよう、自然に。さっきのは冗談だから気にしないで、と努めて明るく笑ってみせる。フリンズも何時もの穏やかな笑みを返してくれる――その眼に不穏さを孕んだまま。
……大丈夫。あの人せんせいの言う通りあちらの『領域』の住人であるからには、自分には手を出せない。だから、大丈夫だ。……本当に?
けれど内から響く声には気づかぬ振りをして、何事もなかったかのように桃を頬張った。