Doomsday bird
月の光が差し込んでくる俺の部屋で、時計の音さえ聞こえない。寒くなってきたせいで、冷房の音もなく、ただただ、これは、無音の世界。

意味が無い。すべてに意味を見出せない。無意味だという事がこれほどに恐ろしいなど、知らなかった。

痒みも傷も体液も、殺意も自傷も。まるで意味など無いのだ。すべて、俺自身なのに。


ふいに、桂月が寝返りを打って、こちらを向いた気配と衣擦れの音がした。
…ああ、まだ死体じゃなかったんだな。
そんな事を思い出して、桂月を見下ろした。しっかりと俺に向けられた彼の眼は、猫のように細められいて、じいっと、まるで死んだように、音もなく色もなくそこにあった。
詰まるところを言うと、桂月の瞳は、動かない。瞬かない。果たしてこれは、錯覚なのだろうか。


「…ごめん、桂月、起こしたか?」
「………」


答える事もせずに、ただ、じいっと見つめてくるだけの目玉を多少、気味が悪いと感じつつ、俺はまたアレルギーの手首に爪を宛てがう。血で布団を汚していた。

生きているでもなく人形でもなく、死んでいるものとして俺を見上げたまま。そんな桂月を、やはり俺は見つめたまま。
そうすると彼の向けた視点が徐々に合わなくなってきたから、せめて先ほど考えていた、死にたいだの殺したいだのという思考を知られないように俺から視線を外して布団に潜り込む。目が乾いてきたから、もう瞑ってしまいたかった。


「………なあ、恵。お前はある処刑場の話、知ってる?」


急に口を開いて俺の名前を呼んだ、その死体を振り返る。それはまるで誰かに聞き咎められる事を恐れるような、酷くひっそりとした声だった。


「……処刑場?」

「ああ。いつだか聞いた話だけど…、ある処刑場では水の入ったバケツと空っぽのバケツを囚人に持たせるんだって。」

「………へえ、それで?」

「でな、処罰は簡単なんだ。空っぽのバケツに、もう一方のバケツの水を入れるだけ」

「ふうん」

「ずっと、ずっと、全く意味も目的も持たない作業を繰り返した囚人は、やがて廃人になるらしい。それが、処罰」

「…………」



「…恵、分かるか? 全く意味のない人生こそが、最大の罰なんだよ」



そう言い放った桂月が、アレルギーのある俺の左腕をがっちりと掴んできた。
その手の平からはじんわりと温かいものが伝わってきて、勝手に死んでくれていた死体だっていうのに温かいのは可笑しいなと、ふと思う。ゆっくりと、繋がった手へと視線を落とした。
手首の穢れたアレルギーなど、他人の目に晒したくない。増して、触れさせるなど決してない。しかしあろう事か、桂月は傷の上に綺麗なキスを落とした。俺はそれを見た途端頭に血が昇って、気付くと彼の頬を思い切り殴っていた。

意味のない人生こそ、最大の罰。
意味のないこの疼きと焦燥感と漠然とした不安と殺意と自傷。
…意味というものを言うならば、治らないアレルギーに侵されて爛れる汚い俺への、こいつの優しさは何故なのか。
やはり世界の終わりを予感させるような、ゆっくりと瞬きをして動かない桂月の瞳。
覗き込むと、そこには苛々しているでも怒っているでもなく、ただただ、気味の悪い程に真っ白で酷く死体のような顔をした自分がいた。

嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、こんなのは嫌だ、痒い、痒いよ、治らない、治らない、掴まないでくれ、強く、強く、突き放してくれ、見せつけないでくれ。
堪え切れずに顔を背けると、今度は俺に縋り付くように、桂月が抱き締めてくる。おぼろげで、すべて見えない。鳥は落ちてくるしかない、空にいるのだから。俺は殺すしかない、だって、意味もなく痒いのだから。
ただ、桂月の胸からは、どくんどくんと鼓動が伝わってきて、気付いた。
死体は自分のほうだったのだと。ここを切って、俺は、俺を殺したのだった。
桂月の声が先程とは別の空間から聞こえてくる感覚が不思議だった。


「…恵、隠さなくていいよ。笑わなくていい、わがまま言えばいい。耐え切れないのなら引っ掻いていいよ。治らない傷なんてないんだから」


違うよ桂月。
心配なのは、体じゃなくて心。体が治っても、心だけは治らない気がする。それが怖いんだよ。やっぱり桂月なんて死んでしまえばいいと、こっそりブラインドから零れる月を見る事もせずに、そう思った。

ベッドサイド。もう吸えない煙草。意味のない痒み。濡れ羽色瞳に映った俺の死に顔。
そして、諭すように、罪を解らせる桂月の体温。
どれが嘘でどれがほんとうなのかを考えて、どれも嘘でほんとうなのだと。



ただ、桂月か俺を、殺したかった。






新月に架かる鳥が意識を落として、廻る。

君は僕で、僕は君。
だけど、君は君で、僕もやはり僕でしかない。

灰白色の空に見初められて、群青の花びらが散った。
出会えたその死に顔へ問う。愛という形でなく君を好きになってもいいの?

いいの
いいよ


答えは誰からも返ってこないから、僕は頭を抱えて見せた。


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